第35話:重いコンダラ 試練の道を
R15に指定する必要はないはず……
「翔星、翔星、今度、ウチに来れる?」
「いいけど、なんで?」
アリに声をかけられた翔星は少し不安そうに首を傾げた。
先日、愛彩が舞にかす巻きを焼いて仲直りしたことを知った彼は、かす巻きより甘い菓子を焼かなければならないと息巻いていた。それでアリに相談し、ズールビアとバーミエ――それぞれ、花形のかりんとうとコロコロしたドーナツを香り高いシロップに、揚げたてのまま放り込んだ甘味の爆弾だ――を作ってみようとなったのだが……
「父ちゃんに材料貰おうとしたら、ダメだって」
「ええーっ?残念だなあ。でも、どうしてアリん家に行くって話になるのさ?」
「知らないけど、翔星を呼べって聞かないんだよ」
「まあいいけど」
住宅街のイラン菓子店「テヘラン」の店休日となる次の木曜日の放課後、翔星はアリの父、オミデに会うことになった。
◆
「翔星君、よく来たね。私がアリの父のオミデです。オミデ・エ・ラハバリ」
「重いでリハビリ?はい、渋谷翔星です。アリ君の友達です」
翔星は、息子に続いて父親の名前も空耳した。
「父ちゃんの名前、よくそんなふうに聞き間違えられるんだよな。オミデ、ラハバリだよ」
「あ、ごめんなさい」
「いいの、いいの。子供のときからよくあったし、慣れてるから。それより翔星君、バクラヴァはいいけど、ズールビアやバーミエを女の子にあげるなんて良くないよ」
翔星は顔を赤くして目を逸らした。
「女の子、というか、友達です。色々あって糖分とカロリーが必要なんで、とにかく甘いものがいいかなって……」
「そりゃ、どちらも甘いし糖分たっぷりだけど、屋台で買うようなお菓子はロマンチックさが足りない」
「べべべ、別に、ロマンチックじゃなくても」
アリは、慌てる翔星のことをニヤニヤ眺めている。オミデは腕を組んで諭すように言った。
「いいからあんなお菓子は止めなさい。最高に美しくて甘くて素敵なハルワの作り方を教えてあげるから」
「ハルワ?」
ハルヴァはバングラデシュからモロッコに至る広い範囲で食されている菓子だが、その発祥はペルシャ、つまりイランで、現地ではハルワとよばれている。イランのハルワは世界で最も多様で……そして最高のイランの菓子職人の手になるハルワは味・香りばかりでなくその芸術性も素晴らしいのだ。
「ほら、これ。まず食べて」
オミデが平たい皿に美しく幾何学的な模様を描く黄色い菓子を差し出すと、翔星より先にアリが反応した。
「うわ!いいにおいがすると思ったら、ハルワ用意してたんだ!父ちゃん!俺も1口……2口3口くらい食べてもいい?」
「いやそれは翔星君に聞きなさい」
イラン菓子店であるアリの家はいつもバラの香りが漂っているのだが、応接室を満たす芳香は先ほどから実に濃く華やかだった。その正体がこのハルワだったわけだ。
翔星は渡されたスプーンをつかみ、ゴクリと唾を飲み込む。
(こんなきれいなもの、スプーンをどう刺したら……)
思い切ってひとさじすくい、それを口に運ぶ翔星。そしてその瞳孔がパッと拡がった。
ふわり
口蓋を満たし鼻に抜ける甘く華やかな――こういうのを上品というのだろう――ローズの香り。そして舌そのものが砂糖になったかのような甘味。
ゆっくりと咀嚼する翔星に、アリがそっとポットから注いだ茶を差し出す。これにもたっぷりと砂糖が入っているのだが……ハルワの甘みの方が上回って、そんな茶で口の中が漱がれるように感じる。
そしてまた一口。茶を一服。また一口……
無言でスプーンを動かす翔星。その脳内は……
◇
翔星が差し出した美しいハルワを見て驚く舞。彼女は満面の笑みでそれを受け取り、自分と同じように美しい造形を崩すことに躊躇を覚えながら、たっぷりとひとさじ、それをすくうだろう。
翔星にはそのときの、舞の腕の少し湿り気を帯びた肌の下で、愛らしく発達した筋肉がどんなふうに盛り上がり、筋が浮き出るかまでハッキリと想像できた。
そしてスプーンに少し多めに盛り上げられて形が崩れたハルワが彼女の口に近付き、自分がそうしたようにゴクリと唾を飲み込むはずだ。口を開ける直前には少しだけ舌を覗かせて――美しいハルワを見た彼女は繊細な造形のそれを崩すことに緊張を覚え、そうしないと口がうまく開かないに違いない――少しお行儀悪く大きく口を開けて頬張るだろう。
自分が食べてもこれほどの味わいなのだ、彼女の唾液と混じったハルワが、比較にならないほどの美味となることはもはや必然……
◇
翔星は半分近く黙々とそれを食べたところで茶を飲み干し……アリにスプーンを渡しながら言った。
「これを、本当に教えてくれるんですか?僕にもできますか?」
オミデはニヤリと笑った。
「アリと一緒に学ぶなら、うちの秘伝を授けるよ」
翔星から受け取ったスプーンでハルワを口に入れたアリは、それを聞いてむせ込んだ。
「ゲ、エフ、グ……父ちゃんそりゃないよ、俺がどんなにハルワ作りが苦手か分かってんだろ?」
翔星は、アリの両肩をガシリとつかんだ。
「やれば、できる」
◆
その日から翔星の研鑽は始まった。アリは時々半泣きになりながらも、翔星の気迫に当てられたように手を動かし続け、その技能は確実に向上していった。それは、店を継ぐことにやや消極的だったアリをその気にさせようというオミデの作戦だったのだが……
「翔星君、1週間でうちのハルワをここまでものにするなんて。君、将来正式にうちの弟子にならない?」
オミデのそんな誘いに困った顔をする翔星。それを横目にアリはこんな感想を漏らした。
「翔星すげえな。それと比べると俺は……父ちゃん、俺には、才能ないと思う」
この発言にオミデは慌てたが……将来、イランに渡って修行をし、結局は店を継ぐことになるアリの、職人としてのやや鬱屈した原点が、この経験にはあったのだった。
【タイトルのネタ元】
読売テレビ、東京ムービー制作のアニメ作品「巨人の星」(1968〜1971年)オープニングテーマ「ゆけゆけ飛雄馬」の歌詞「思い込んだら 試練の道を」の有名な空耳




