100. 決着
最高速度に達しても、私たちは彼らに並ぶことができなかった。目の前にいるのに、手が伸ばせば届きそうな距離にいるのに、その、あとほんの少しの距離が縮まらない。ハンドルを握る両手に力が籠った。グローブから湿っぽい音がした。それでも、今はそんなことに構っている余裕はない。あとで確認しよう。
速度で勝負ができないのなら、私たちができることは限られる。
試すのだ。イズモとスサミの、往年のバディの信頼を。
エンジンから火花が出そうな程、本気でリュカが加速したのが分かった。メーターはとうに振り切れている。それでも、彼女はそれ以上の速度を求めているようだった。
いつの間にか、周囲から石柱は消えていた。どこまでも広がる白茶けた砂漠に、レース会場まで真っ直ぐに続く、他の機体の通過した跡が何本も残っている。
会場までの距離が縮んでいく。このままジリ貧になるかもしれない。それでも、焦ってはいけない。私は、リュカの指示に従うまでだ。
きっと彼女なら、勝ち筋を見出してくれる。
へし折れたままのダブルスチールは、ずっと宙づりのままだった。中の機構が剥き出しになって、二つのコックピットの間を割って入ろうとする何者かのように、先に向かって鋭利な角度を示していた。
寸の間、そこに目をやって、思い出す。
何もかも切り捨てて生きてきたのであろう冷ややかなイズモの態度と、スサミの沈んで落ち窪んだ目付き。
すべてを破壊しつくして、もう一度再起させようと試みるイズモと、最大限に手を伸ばして救いを与えようとするスサミ。
あの雨の中で痛感した、イズモの、周りを気にも留めずに自分の目的だけ遂行しようとし続ける異様な態度。
レース場のガレージで目の当たりにした、スサミの、イズモに対する怯えと恐怖。
使える。
リュカに視線を投げると、意外なことに彼女と目が合った。その両目は、あのときの、あのガス爆発という妨害の作戦を求めてきたときの不安さを湛えていた。
口を開きかけて、思い止まる。
この距離で、読み取れるもの。
この速度で、きちんと意志疎通ができるもの。
ハンドルを右手だけで掴んで、左手で正面を指さす。
『加速』
最初の頃、私が使っていたハンドサインを、ここで使うことになるとは思っていなかった。
エンジンからは嫌な音がし始めていた。分かり切っている。機体に無理をさせているのだ。交換したばかりのエンジンは、これきりもう使えないかもしれない。メーターの針はずっと振り切れたその先を指そうとしてカタカタと震えていた。
レース会場が少しずつ見えてくる頃になって、ようやく私たちはカイン3000のエンジン付近に辿り着いた。
目的は、一つ。
折れてしまったダブルスチールで、カイン3000のエンジンを引っ掛けること。
それで彼らが減速できるか否かが、最大の博打だった。
手が震える。身体が震える。興奮か、それとも恐怖か、緊張か、なんだろうか。それでも、チャンスは一度きりだ。
アクセルペダルが床に付きそうな程に踏み込んで、接触を図る。
レース会場が近づいてくる。
息が、止まった。
ガチ、と耳に痛い金属音を立てて、急激に機体が重くなる。今は大してアクセルを踏んでもないのに、横の景色が凄まじい速度で塗り替わっていく。制御が効かない。まるで私たちの機体ではないみたいだ。
それでも、これは、成功だ。
そのままリュカと意志疎通をすることもなく、同じタイミングで、同じように減速していく。イズモたちはこの状況に慌てたらしい。引っ掛けた機体の進路がブレる。それを手だけでなく身体全体で感じ取る。このまま振り切られる可能性もあった。それでも躊躇わずにブレーキを掛けていく。
そして、彼らも結局、減速を選んだようだった。
重たかった機体が、だんだん制御が効くようになっていく。
ハンドルからリュカの判断を感じ取らなくたって、どうすればいいかわかった。
停止するのではないかというほどに速度を落とし切って、イズモたちが同じ速度に落としてくるのを待つ。タイミングを間違えたら、私たちはここでリタイアだ。もたもたしていたら、後続の機体に追い抜かれるだろう。
背中がシートから離れる。いつしか前のめりになっていた。
言葉なんて、いらない。
ここに、介入の余地なんかない。
一気にギアレバーを引き上げて、エンジンが使えなくなるまで加速する。首がぐっと持っていかれるような感覚を覚えて、身体が息ができなくなるほどにシートに押し付けられる。カイン3000の上を通って、私たちは彼らを追い抜いた。
「っ、あっははっ!」
これまでの人生のなかで、最も楽し気な笑い声が口から出た。それを、まるで他人事のように聞いていた。
彼らを追い抜いたあとも、一拍遅れてカイン3000は執拗に私たちを追って来た。当然だろう。背後から聞こえる重低音にどことなく心地よさを覚える。近づいてくるその音を聞いても、もう怯えることなんてない。
リュカがブレーキを踏む様子は一切なかった。
エンジンからは明らかな異臭と異音がしていたが、もう気にしない。レース会場に飛び込む。先行する機体はない。視界は晴れ渡っていた。
一位だ。
それが分かった瞬間に、ブレーキを思い切り掛ける。シートベルトが身体に食い込んで、息が詰まる。一糸乱れぬ動きで、私たちは急停車を選んだ。そのすぐ横を、轟音を立ててカイン3000が通過していった。
もう一本のダブルスチールが劈くような甲高い音を立ててへし折れる。それでも、もう、焦らなかった。
のたうち回るカインのコックピットをあやすように、高度を下げてバランスを取る。地面とほぼ平行になりかけたところで、浮力装置が切られたのがわかった。地響きを立てて、重たいエンジンが地面に叩きつけられる。私たちも、同じように被害を受けた。突き上げるような、身体の髄から頭の先まで叩きつけてくるような、そんな衝撃だった。それでも、思考はずっと冴えたままだった。
脳裏に浮かぶのは、父のレースの様子だった。
幼い頃、擦り切れるまで見続けた記憶端末に収められた、あのやり方。急加速に、急カーブ。そして、レース後の急停車。
周りは耳がわんわんするほどに人の声で溢れかえっているはずなのに、妙にコックピットに座っている間だけは、周囲が静寂に包まれているように感じられた。観客の口が大きく開けられては閉じられるのを、ぼんやりと眺めていた。実況席に座る人物が、マイクを持って立ち上がって何か言っているのを、見ているしかなかった。
音が、うまく処理できない。
自嘲気味な笑いが零れた。
結局私は、父から逃れられない運命なのだ。
シートベルトを外して、グローブを外す。右手の傷はまた開きかけていた。赤い血が滴って、スラックスに黒い染みを作った。それをしばらく無感情に見つめたまま、物思いに耽る。
私には、トカラの血が流れている。
右手を握りしめる。目をきつく瞑る。
それでいい。
私は、父の夢を追うと決めたのだ。父と同じで、構わない。これが、私の求めていた、レーサーとしての到達点だ。
握りしめた手をゆっくりと開く。また血が滴った。
「…父さん」
絞り出した声は、なぜか震えていた。
コックピットの扉を開けて、右足を地面につける。周りの歓声も罵声も何もかも、耳に入らなかった。
コックピットの側面を、右手で撫でながらエンジン部分に向かう。黄色い部分に、赤いラインが薄く引き伸ばされていく。
焼け付いたエンジン部分に、指先を伸ばす。熱い。思わず手を引っ込める。それでも、どうしても、私はエンジンに触れたかった。カインに触れたかった。仕方なくグローブを右手だけ嵌め直して、エンジンにしっかりと手を押し付ける。薄い革を通して、エンジンの命の残り火の熱を感じ取る。ゆっくりと瞬きをしながら、子守唄を歌う母親のように一定のリズムで撫で摩る。いい子、いい子。もうおやすみ。
コックピットから降りてきたリュカが、私の様子を見て、気まずそうな笑みを浮かべた。視線が絡み合って、彼女の言わんとしていることが理解できた。
手招きをして、彼女を呼び寄せる。左手のグローブを差し出してやれば、彼女は何も言わずに左手にそれを嵌めて、同じようにエンジンを撫でた。
今夜は、眠れそうになかった。




