【29】自然について
【29】
2018.05.08
自然とは、一体なんでしょうか?また、自然と人間の結合点とは、一体どういった内容なのでしょうか?このような問いかけが、僕のなかには、常日頃からあります。
自然の営みを一体性として捉えたときに、自然は、同時に、萌芽したり、花開いたり、枯れたり、花粉を散らしたり、雨を降らしたり、日を照らしたり、卵を産んだり、風を吹かしたり、成虫へメタモルフォーゼをしたり、囀ずりや鳴き声を響かせたり、光合成をしたり、自発性を持って日の光を探したり、大気を創造したりします。全てを、ひとつの時のなかで、過去や現在や未来、多様性や一様性を、同時に奏でているのです。人間も一体性として捉えたときには、自然と同様に、生が誕生したり、老いていったり、死んだり、歌を歌ったり、ダンスをしたり、食事をしたり、会話をしたり、病になったりします。
この視点から感じることは、人間の多様性や一様性も自然と、そこまで変わらない点が多くあり、結合するところがあります。このようなことから、人間は自然の産物であり、自然とも同胞や友であることは、僕は迷信や盲信ではなく、生きた事実であると、捉えさせて頂いております。ドイツロマン主義の哲学者である、シェリングが「世界霊」と呼んでいた普遍的な宇宙や万物の霊の営みや理と、人間がもつ「心情」は、繋がりを持っていると言及されていたことにも、僕は、うなずけます。古代インドにおいては、ヴェーダの悟りである、ブラフマンとアートマンの一体性を説く、「梵我一如」といったところと近似していると、思うのです。
では、人間と自然の違いはなんでしょうか…。
僕が思いつくものは、自然は、絵を描いたり、字を書いたり、道具を用いたり、しないことです。
自然は、会話をしたり(命のコミュニケーション)、子孫の為に、求愛のダンスや歌を歌ったり、命のバトンを渡したりすることは、ありますが、絵を描いたり、字を書いたりすること、道具を用いたりすることは、ないように、思うのです。
ここに、何か、人間だけに神様から与えられた、神秘的な営みがあるように、思うのです。それだけ、書くという行為と、描くという行為、また、道具を使うという行為(良くも悪くも)には、人間らしさが如実に現れていると、僕は捉えております。
また、自然の発育過程や営みには、「順序」というものがあるように、僕は思います。たとえば、種から、いきなり、花が咲くことはありません。しかも、季節や地域の風土というものに、影響を受けて、従順なまでに、順序よく、その発育のプロセスや段取りを踏んでいかれます。
これは、人間におきましてもこのような「順序」というものが、あらゆる場面において、重宝されていることを、感じてなりません。この、順序やプロセスを、大切にすることは、この世界の理であることは、間違いないように、僕は、思います。
何か、行き詰まったり、迷ったりするときは、このように、自然から学び、立ち還り、順序やプロセスを正しく、歩み直していくことは、人間にとってみましても、きっと益となることでしょう。
また、僕は、強く思うことが、あります。それは、人間と自然が共生していく道こそが、これからの未来には、非常に大切なことであり、双方が生き残っていく、唯一の道であると。人間が人間のなかにある自然性を回復していくことこそが、現代に生きる私達にとって、いかほどに重要であるかは、知られてきていることでしょう。
自然について、先ずは、想いを巡らして、観察し、研究し、自身の一部として取り入れていくことは、とても先進的なことであると、僕は、思います。
自然については、後日も書いていきたいと、思いますが、今日はここまで。




