【23】美と醜について
【23】
2018.04.27
ある事柄や状況を見たり、感じたりしていますと「醜い」と、思ってしまうことが僕には、あります。それは、どうしてそのような、心の営みが行われてしまうのだろうと、思っておりましたが、おそらく、それほどまでに、自分自身の中にある「美」というものが確立しているからであろう、という思いに到りました。この美とは、表層的、ヴィジュアル的な美だけではありません。精神的な美や、自然美、生命の美なども含まれております。プロティノスは「根源的美」ということで、美の根源を追求されておられましたが、僕のなかにも「根源的美」というものを追求している心の営みがあると、感じております。たとえば、天国は美しいところだと、プロティノスは仮定しました。ですから、美しいと感じる心の営みというものは、天国から由来している心の営みであると、プロティノスは捉えていましたが、僕もプロティノス同様に、そのように捉えているところがあります。では、「醜い」と感じる営みとは、おそらく、天国由来のものではなくなっていくであろうと、仮定出来るわけです。それだけではありません。捉え方によれば、醜いものも美しく感じますし、美しいものも、醜いものになってしまいます。
つまり、心の捉え方次第では、全てが美しくなることも、醜くくなることもあるのです。そこで「根から明るく生きる」ことがテーマの僕は、どんなことにも、美しさや天国を見出だそうではないですか、と、思い到りました。
これは、頑張って答えを出すというよりも、物事の理由や背景を感じとってみることにより、美しさを見出だすという、いわば、「錬金術」と同じ働きかけをすることになります。「錬美術」とでも、言いましょうかね。そのような可能性が僕には、残されております。
このどんなものにも美や天国を見出だす「錬美術」というものに気付いたときから、僕は、世界が広がったように、感じました。理由や背景を感じとることが、この練美術をよりいっそうに手助けしてくれます。この営みというものは、日本でいえば、不足のなかにも、喜びや美しさを見出だせるという「わびさび」の精神と類似しているかも知れません。
ですが、醜いと感じる心の営みも、正直な心の営みだと、思うのです。これも、これで自然であると、思います。昭和の作家である、太宰治さんは、これをモットーに筆を走らせて、おられました。ある意味凄く、写実的なところを大切にされていたのです。たとえば、ある人の微笑みが、悪魔のように不気味に見えたのなら、それを、そのまま「悪魔の微笑み」として書かれていたのが、太宰治さんだったのです。キリスト教神秘主義の言い方で言いましたら、「告白」というものを大事にされていたのだと、思います。
これも、これで、僕は「美」であると、思うのです。正直に、偽ることもなく、飾ることのない潔白さがあると、思うからです。ただ、僕は、こういう書き方はしないタイプです。人は、皆、不完全でありますし、不完全な中にも、必ず、美しさというものが、あると、感じるからです。様々なバックグラウンドや背景や事情というものを感じとったときに、僕は、いちがいに、「悪魔」という言葉は、使うことは、ないでしょう。ましてや、悪魔だって、元々は、天使だったのですから…。
太宰治さんが「悪魔の微笑み」と書くならば、たとえば、僕の場合は「不器用な微笑み」や「憔悴した微笑み」と書くことでしょう…。また、僕が感じている「ロマン」や「自然」とは、このようなところに、あると、思っております。
「美」がそこにあるときには、スピノザの言い方をすれば、そこには「総合の元素」があると、思うのです。総合の元素とは、つまり、この世界の根源の原因である、神の愛があると、思うのです。「醜さ」がそこにある時は、この総合の元素が希薄しており、弱く、アンバランスであり、分離してしまっているのだと、思うのです。音楽でいえば、不協和音というものです。この不協和音ばかり、奏でていては、聴いてる方は、心地好くは、ありません。ベートーベンのように、和音を奏でるなかで、エッセンスやスパイスとして、ごく稀に、不協和音を入れることは、あっても良いと、思いますが、不協和音ばかり奏でているようでは、音楽には、なりません。つまり、不協和音の主というものは、調和的美の和音なのです。
ですから、「醜さ」や「不快」を感じるときは、不協和音が響いている時なので、余裕があれば、自分自身の心の中や、その対象に対して、チューニングを施して、音を調えることを覚えれば、良いのだと、思います。
何故か、今、地球が思い浮かびましたが、僕達の母である地球が、このように美しく、宇宙に臨在出来るのは、惑星同士の引力の調和的な美から産出されていると、思うのです。
つまり、僕達は、「美」から産まれた存在であり、「美」から遠ざかっていくと「醜」と感じるように、神様に創られているのだと、思います。この「醜」を再び、「美」に近づけさせて、チューニングして、戻していくことが、僕達人類に平等に課せられている、使命なのかも知れません。時には、彫刻のように、けずったり、彫ったり、ならしたりしながら、収斂させ、一つの調和へと、向かうこともあるでしょう。
アンバランスなものを、バランス良くしていくこと、分離し、乖離しているものを、再び、結びつけて、調和させ、統合していくこと。これによって、総合力が大きくなり、育まれ、俄然一体なる、大きな一つのエネルギーへと、変容していくことが可能になると、僕は、思います。
何よりも、愛や優しさを追求していくことで、「美」というものに、辿り着けると、僕は、身に沁みて、感じさせて頂いております。
そこに「愛」があれば「美」があり、「愛」が薄くなっていけば「醜」になってしまいます。僕達は、あらゆることに、熱心に、「愛」を注いでいくことを、共に学んでいる、地球学校の同士であり、同級生であり、同胞なのでしょう。
話が不器用なほどに、大きくなりましたが、この心情には、偽りは、ございません。




