【12】絶対他力と超作
【12】
2018.04.15
近頃の僕は、方便として、「人事尽くして天命を待つ」とか、「自他力」などということを、言っておりますが、実際のところ、「人事を尽くせるのも、神様や自然の他力による働きかけである」と見なしていることが大きく、結局のところ、「他力」だけがそこにあり、親鸞が説かれていた「絶対他力」ということが、ことさら腑に落ちているのが、拙い本音です。
といいますのも「自分は偉い」と言う方々や権威的な、その雰囲気を醸し出している人々は、どうも、自然の大気や水、神様による働きかけ、人様の御力によって、かろうじて、延命させて頂いているという「衆縁和合」や周囲の「他力」による働きかけを、忘れている方々が多いように感じざる負えません。いかにも「我がもの顔」で歩んでいる人々は、正直なところ、霊的には未熟に感じてしまい、ていたらくな振る舞いをしているようにしか、僕には、見えないのです。
やはり、人は隠そうとしても、人としての品位や境涯というものは、隠せないと思います。いくら、建前を上手く使おうが、本音や良心が育っていなければ、それは、表層的な部分や美しさを装っているだけであって、中身や骨組みが、すす抜けの、地震や風雪に耐えきれない、その場凌ぎの、手抜きの建築物件のようにしか、見えないのです。プロティノスで言えば、「根源的美」では、ありません。しかし、人には、状況や段階というものがありますから、時には、そのように、見栄を張り、ペダンティックに、振る舞ってしまう時もあることでしょう。仏教では、このような無知さを「無明」といい、罪であるとさえ、見なしております。ですが、そこまでは、僕は、厳格には捉えておりません。
人間誰しも、そういった過ちや、誤解や失敗を通過するときは、御座いますし、生きていれば、つまずくことは、何度も何度も御座いますから…。
ただ、いつまで経っても、反省せず、改善しようとしないこと、また、居直ってしまうことは、かなり、たちが悪く、根が深いもののように、感じます…。
で・す・が、前向きに捉えれば、神様にそのように創られている御方は、それによって、何かしらのお役に立つ場合もあると、考えられることが、出来ると、思います。たとえば、織田信長やヒットラーは、そのような残虐で非道なところがあったみたいですが、それさえも、当時の人々や時代背景からして、通過せざる負えないものが孕んでいたのだと思います…。犠牲はこれ以上は、増やしてはならない、聖なる日常や命や愛を大切に大事に、育みましょうね…、という、神様からの痛切な、御経倫や御諭しがあったように、感じるのです。
しかし、こういうことを書きながら、僕は思うわけです。こういったことは、全部、僕が感じていることなのだから、僕のなかにあることで、心理学で言えば、僕自身が世界を「投影」してしまっているだけに、過ぎないのではないか、という思いです。ですから、つべこべ言わずに、自分自身改善していけば良いと。誰かに言ったり、世界を変えようとする必要はなく、僕自身が変われば良いと。ピタゴラスも言われていたように「真理は不滅である」ということですから、普遍的真理と個別的真理を求道して、自分自身の血肉として、ただ磨いていけば、良いのだと。理想をいえば、与えようとしなくても、その場にいるだけで、自然と感化を及ぼしたり、愛や恒久、老子が説いた「無為自然」が、泉のように溢れる存在になっていけば、良いと、僕は改めて、思いました。
どちらかといいますと、世界が変わる、というものは、後から付いてくるものだと、思うのです。本当に愛に生きることが出来ましたら、あとは、なんでも、後から付いてくると、思います。やはり、初願を最も高尚なものにしようと、努め、大切にして、その至高の種まきをしていけることが出来ましたら、至高の実りと至福の豊穣と収穫が、約束されるのではないでしょうか。
平和への種明かしとは、
最初の種まきに、あると思います。
結局のところ、このように自力を尽くせることも、他力の成せる御力なのですが、その自力さえも、軽んじてしまっては、至福の女神は、微笑まないという、ことなのでしょう。他力という大きな枠組みのなかに、自力というカテゴリーがあると、僕は、思います。ですので、自力と人々が呼んでいる正体というものは、実際のところは、他力のなかの自力なのです。
ですから、
「無碍の一道」や「自然法爾」をモットーにしていけば、昨日書かせて頂いた「愛の聖域を守ること」にも繋がりますし、孔子が説いていた「己の欲するところに従えど矩を越えず」に近づいていけると、思います。
つまり、『バカヴァット・ギーター』で書かれております「超作(神様と一体となり、幼子のように、結果を求めない愛の営み)」を24時間行えるか、どうか、だけが、神様から最後の最後に、人間に託されている、ミッションだと、思います。
この超作を極め、地上で呼吸をしながらも、天国の豊饒と恵み、至福のよろこびへと、到る道こそが、輪廻転生をしている理由であると、言いましても、過言では、ないでしょう。一輪の花、散りゆく、麗しさに、過言なき。
人々が、いつでも
黄金の幼子のように、あれますように。




