死屍柴ヒルイの闘い 黒百合の死神
一神が黒百合により作り出された、無音無感の最高傑作の殺し屋だとするならば、君江美妃はそのプロトタイプだと言える。完璧な無音と限り無く無感に近い女。黒百合の三番手に位置しながらも、技量の高さでは社長の橘牡丹をも越える存在だ。
君江は社長秘書として橘の邪魔となる存在をほふり続けてきた。時には敵対する組織の人間を。時には橘の意にそぐわなかった黒百合の兵隊を。そんな彼女に畏怖の念を込め付けられた異名、それは黒百合の死神だった。
死神は強かった。一対一ならば橘や一神とも互角に殺しあえるほどの強さを持っていた。つまり彼女はあの死屍柴ヒルイに比類する人間であった。
「終わりです」
部屋の角まで凪ぎ飛ばされ、倒れそうな体を踏ん張りの悪い義足で必死に支えている男ーーかつては死屍柴ヒルイに比類する者と呼ばれたーーアンラッキーにゆっくりと近づきながら、君江は呟いた。
その声には勝ちを確信した喜びや、油断など微塵も現れていなかった。
彼女は十字とは違う。勝利を前にしても相手の息の根を刈るまでは君江は警戒を一切解いていなかった。
だからこそ、気付くことが出来たのだろう。アンラッキーの瞳が自分の後方をどこか嬉しげに見つめていることに。
胸に鉤爪の切っ先がするりと差し込まれていくと同時に、君江は背後の気配を探った。すると背中に冷たさを感じ、気付いた。背後から誰かが近付いて来ていることに。
手に命を奪った感覚が伝わるのを感じながら、君江が振り向くと、感じていた冷たさが一気に増した。
友を殺された恨みからなのか、竜胆から迸っていた殺気が空気を入れすぎた風船のように一気に弾けとんだ。
冷たさだけではなく、肌を刺すようなヒリツキを感じながらも君江は冷静に分析をした。
左目は斬られたのか傷があり固く閉じられ、左手はひしゃげている。跳躍の高さは足を患っているはずだというのに、高かさがあり体重が乗った一撃は受けさばくのは困難そうだ。
受けるのが難しければ、回避か迎撃か。
距離は五メートルほどあり、戒杖刀を振りかざしているものの、自分が一歩踏み込んで切り裂く方が早いだろうと。
一瞬で現状の確認と対策を頭で練ると、君江は焦ることもなく行動に移した。
アンラッキーに突き刺した鉤爪を引き抜きながら、竜胆を切り裂くべく一歩踏み込もうとしたーーその瞬間腕を誰かに引っ張られた。
「……!」
微かに君江の瞳に焦りが浮かんだ。
誰が腕を掴んでいると言うのだ?
まさかアンラッキーが死んでいないのか?
いや、そんなはずがない。自分の鉤爪は肋骨の隙間から間違いなくアンラッキーの心臓を突き刺した。
生きている筈がない。
ならばこの感覚は……鉤爪が肋骨に引っ掛かったのか。
君江は振り返り確認することもなく結論点けると、瞳から焦りの色を消し去り、再度対策を練った。
アンラッキーが死んでいるなら気にも止める必要はない。問題は竜胆だけだ。踏み込み、左手側から切り裂くことは、今から鉤爪を抜き取り動き出すとすれば間に合わないだろう。
竜胆との距離はもう二メートルをきっていた。
竜胆は部屋を震わすような殺気を放ちながら戒杖刀を振りだしていた。首を切り落とそうと、斜めの軌道を描く刃が銀白に輝く。
殺し屋人生で受けた中でも一番か二番に位置するほどの強い殺気を浴びながらも、君江は冷静に対策を練り直した。
強い殺気だが、自分の動きを鈍らせるほどではない。片手と足を封じられた状態でも、上半身の動きだけでかわせる。
対策が決まると同時に君江は動き出した。刃が首に迫るなか、上体を反らす。
君江の黒髪がふわりと浮くと、刃が髪を刈り取りながら眼前を通過していく。
君江は瞬時に上体を戻しながら、押さえ込まれていない右の鉤爪の切っ先を竜胆の胸元に突き当てる。
人間は決して鳥にはなれない。飛び上がれば必ず落下していくものだ。重力に引っ張られる竜胆の胸に刃が深々と突き刺さって行く。
その刃は的確に竜胆の心臓を突き破っていた。
君江にとって殺しとは詰め将棋のようなものなのだろう。最善の一手を打っていけば自ずと玉ーー命ーーは取れるものであるから。
アンラッキーが破れ去った一瞬の隙をついた竜胆の攻撃も、十大組織の序列一に位置する暗殺者派遣業社黒百合の第三の女、社長秘書君江美妃には通じなかった。
アンラッキーの予想通りに。
口からごぼっと血が溢れると、竜胆は微かに唇を震わせた。
「……おせえよ……」
体からはひりつくような殺気を放ちながらも、その言葉はどこか安心感のようなものを感じ取れる穏やかなものだった。
遅いとはなんなんだ?
君江が疑問を持った瞬間、鼓膜を震わすような絶叫が部屋に響き渡った。
「君江ぇぇぇェェェ!」
橘の声に君江は反応した瞬間、脳が高速で動きだし、今自分が置かれている現状に対し警鐘をならした。
君江は詰め将棋のように最良の手を打ち無傷でアンラッキーと竜胆の命を奪った。
いや、最良の手を打つように仕向けられていた。
最境と呼ばれた男の手によって。
アンラッキーを殺す時君江は貫き殺す手を選んだ。それは部屋の角へ弾き飛ばし、壁が邪魔し切り裂くと言う行為を選べなかったからだ。
なぜ、部屋の角へ弾き飛ばしてしまったのか? それは腕を切り裂かれながらも、アンラッキーが自分から衝撃を逃がすために飛んだからだった。
そして君江はその意図に気づく事無く、致命傷を与えるために肋骨の隙間を縫うように心臓を狙って貫いた。
これもアンラッキーの誘いだったのだ。かわすことは出来ずとも、肋骨の隙間を刃が通過したとき、僅かに体の角度を変えた。
その結果、骨に鉤爪の背が引っ掛かり抜けなくなったのだ。
君江はアンラッキーの視線により斬りかかる竜胆の存在に気付いた。そして振り向き、体の動きを止めんばかりの殺気を浴びながらも回避か迎撃かを選んだ。
もし振り向くのが遅れ、かつ竜胆が殺気を放たずに襲い掛かってきていたとしても、君江なら気配を感知し回避することはできていただろう。
けれど、気付かされ、選択肢に迎撃が含まれ、君江は迎撃に動いてしまった。
気付いてしかるべきだったのだ、実戦経験が自分より遥かに勝るアンラッキーが、不意討ちしようとする仲間に視線を送るなんて事があり得るはずないと。
全てがアンラッキーの手のひらの上での出来事だった。
アンラッキーを貫き殺し、鉤爪が引っ掛かりはしたが、竜胆を殺すのに残された鉤爪で十分であったため、無理やり引き抜く事もしなかった。竜胆が予測していなかった上からの攻撃をしてきてはいたが、かわし貫き殺すのに問題はなかったからだ。
その結果、君江は両鉤爪で二人の老人の死体を突き刺す結果となった。力の抜けた五十キロはあろう死体を片手で支える事は、殺しの為に体を鍛え続けた君江でも容易なことではなかった。
アンラッキーは命を捨て竜胆に斬りかからせたのは何故なのか?
それは竜胆にしかできない役割があったからだ。
最恐と呼ばれた男には武器があった。
対峙したものを震え上がらすほどの強すぎる殺気と言う武器が。
竜胆は鉤爪で体を貫かれてもなお、その強すぎる殺気を放ち続けた。それは何故か?
小さな殺気を隠すには大きすぎる殺気の中に紛れ込ませるのが一番だからだ。木を隠すなら森の中と言うように、竜胆の大きすぎる殺気は小さな殺気を込められた赤いナイフを覆い隠していた。
橘の絶叫に反応し、君江は自分に迫り来るナイフの存在に気付いた。死屍柴ヒルイが投擲したナイフに。
迎撃しようにも両の鉤爪は封じられている。回避しようにも両の鉤爪に貫かれた二人の老人の重みで間に合わない。気づくのが遅れて、引き抜く時間すらない。
君江にとって殺しとは詰め将棋のようなものなのだったが、今回の玉は自分自身であったことに気付いた。差し手はアンラッキー事姫宮ジェイムズ。玉ーー君江美妃ーーは詰んだ。
ナイフが首に迫り行くなか、君江は悲しげに瞳を潤ませた。
「社長……ごめんなさーー」
黒百合の死神は無音ではあったが、無感ではなかった。彼女は限り無く無感の殺し屋。感情はあった。己の主である暗殺者派遣業社黒百合の社長に対しては。慕ってやまない橘牡丹に対しては。
君江の言葉は首に突き刺さったナイフによって、結ばれる事無く終わりを告げた。




