第10話 静かな動揺
夜が更けたあとも、執務室には灯りが残っていた。
帝国財政顧問としての初署名。
正式な権限移譲の文書。
ペンを置いた瞬間、胸の奥に小さな震えが走る。
「緊張しているのか」
背後から声がした。
振り向かなくてもわかる。
カイゼル。
「……少しだけ」
正直な言葉が零れる。
王国では、緊張を口にしたことなどなかった。
弱みは隠すものだったから。
だが今は。
「貴女でも、そういう顔をするのだな」
からかうわけではない。
ただ、静かに観察する声音。
「わたくしも人間でございます」
視線が絡む。
一瞬、言葉が途切れる。
カイゼルはゆっくりと歩み寄る。
距離は、近い。
「王国を出た夜、眠れたか」
唐突な問い。
胸がわずかに揺れる。
「あの夜は……」
言葉を選ぶ。
「静かで、少しだけ空虚でした」
王国は冷たかった。
だが、積み上げた時間も確かにあった。
それを切り離した夜。
「そうか」
カイゼルの指が、机の上に置かれた手袋に触れる。
「私は、安堵した」
視線が上がる。
「貴女が、こちらを選んだからだ」
その声は低く、飾り気がない。
だが、嘘もない。
胸の奥が、ふっと熱を帯びる。
評価ではない。
戦略でもない。
“選ばれたこと”を喜ぶ声。
「陛下……」
「名を」
静かな促し。
喉がわずかに乾く。
「……カイゼル」
初めて、名を呼ぶ。
その瞬間。
彼の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの僅かだが、確かに。
「もう一度」
低い声。
「カイゼル」
今度は迷いなく。
風が窓を叩く。
夜の気配が濃くなる。
「セラフィーナ」
彼もまた、名を呼ぶ。
そこに肩書きはない。
皇帝でも、顧問でもない。
ただ、二人。
「私は、貴女を手放さぬ」
それは命令ではない。
宣言でもない。
願いに近い響き。
その言葉が胸に落ちる。
王子の側にいたとき、
自分は常に“補佐”だった。
必要とされる前に、当たり前の存在だった。
だが今。
“失いたくない”という温度を感じる。
胸が、ほんの少しだけ痛む。
それは戸惑い。
そして——
初めて芽生える、予感。
「……困ります」
かすかな微笑み。
「困るのか」
「わたくしは理で動く女でございますから」
「ならば理で示そう」
一歩、さらに近づく。
触れない距離。
「貴女が帝国にいることは、最も合理的だ」
淡々とした言い方。
だが、瞳は柔らかい。
セラフィーナは目を伏せる。
心が、静かに揺れている。
これは依存ではない。
救済でもない。
対等な位置で、選ばれるという感覚。
王国で一度も得られなかったもの。
そしてその頃。
王子は、帝都へ向かう決意を固めていた。
取り戻せると信じて。
だが彼は知らない。
セラフィーナの心が、
もう静かに動き始めていることを。




