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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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123/123

第123話 雨の日の値段

雨の音で、目が覚めた。


屋根を打つ音が、昨夜より強い。


寝る前は、遠くで聞こえる程度だった。


それが今は、頭のすぐ上で鳴っている。


外は、まだ薄暗かった。


俺は起き上がり、荷を確かめた。


包みは乾いている。


壁のほうへ寄せて寝たのが、よかったらしい。


屋根の端から、水が線になって落ちていた。


外へ出ると、足元の土が柔らかい。


一歩ごとに、水が滲む。


岸へ下りた。


川の形が、昨日と違っていた。


舟を寄せる時に使う、平らな石が見えない。


水の下だった。


昨日、その石の上で荷を下ろした。


今日は、石のあった場所を、水が速く流れていく。


色も違う。


茶色く濁り、ところどころ泡が立っている。


枝や、葉のついた小枝が、次々に流れてきた。


流れる音が、昨日よりずっと大きい。


今日は、帰る日だった。


試験の荷は、昨日までに運び終えた。


あとは帰って、二人に話すだけだった。


俺は水辺にしゃがみ、手を入れた。


冷たさが、指の間を押し広げてくる。


流れに手を取られそうになった。


俺は手を振り、水を切った。


立ち上がり、岸を少し歩いた。


いつも舟を着ける窪みは、水でいっぱいだった。


昨日の景色は、一晩で川の下に沈んでいた。


後ろで、草の音がした。


ハセだった。


*


ハセは挨拶もせず、水を見た。


流れてくる枝を目で追う。


岸の岩を見て、昨日の水の跡と比べたらしい。


それから、流れへ葉を一枚落とした。


葉は、あっという間に下へ消えた。


ハセが首を振った。


「今日、出ない」


短かった。


俺は頷きかけ、途中で止まった。


今日帰れば、明日には二人に話せる。


話せれば、保証人の答えを持って、すぐここへ戻ってこられる。


貸すか貸さないかの返事は、それだけ早まる。


口が、開きかけた。


ハセは俺を見ていなかった。


水のほうを見たまま、もう一度言った。


「増えてる。速い」


ウルを思い出した。


風や水の具合が悪ければ、待つ。


ウルと出た時、風で一日待ったことがある。


待った一日は、損ではなかった。


あの時も、急ぐ気持ちはあった。


それでも、舟は出なかった。


俺は息を吐いた。


「うん。出ない」


ハセが一度だけ、俺を見た。


それから、舟のほうへ歩いていった。


舟に溜まった雨水を、掻き出し始めた。


俺も手を貸した。


二人で舟を引き上げ、岸の高いところへ寄せた。


ハセが紐を木に結び直した。


水が来ても、流されない場所だった。


それで、今日は本当に終わりだと分かった。


*


ロクは、低い屋根の下にいた。


手元の木を削っている。


削る音が、雨の音の合間に聞こえた。


ハセが近づき、短く言った。


「今日、出ない」


ロクの手が止まった。


彼はハセを見、次に俺を見た。


「急ぐ?」


聞かれた。


嘘をつく理由はなかった。


「急ぐ」


ロクは待った。


何か続くのが、分かっている顔だった。


「でも、出ない」


「ハセが、言う」


ロクの広い手が、木の上で止まっている。


左の親指の付け根に、古い傷があった。


彼はしばらく、俺を見た。


ここで無理を言えば、その言葉も一緒に、向こうへ伝わる。


貸す相手は、そういうところを見る人だった。


ロクは視線を木へ戻した。


削る音が、また始まった。


「うん」


それだけだった。


だが、その日はもう、舟の話は出なかった。


保証人の問いも、出なかった。


出ない、という答えを、彼は受け取ったらしい。


*


雨は、昼になっても弱くならなかった。


俺たちは岸の荷を、高い場所へ移した。


濡れた獣皮の包み。


干した魚の束。


下の岸へ運ぶはずだった石も、二人で抱えて屋根の下へ寄せた。


ロクが短く指示する。


「こっち」


「上」


ハセと俺が運ぶ。


包みの一つは、紐が雨で緩んでいた。


俺は結び直した。


特別な結び方ではない。


ほどけないように、二重にしただけだ。


朝、水辺に立てた枝を見に行った。


半分が、水の下だった。


だが、昼過ぎにもう一度見ると、その位置は変わっていなかった。


増えるのは、止まったらしい。


ハセにも伝えた。


「水、止まった」


彼は枝を見て、頷いた。


だが、言った。


「今日は、出ない」


二度目も、同じ短さだった。


今の水が速いことに、変わりはなかった。


俺はもう、反論しなかった。


昼、ロクが干した魚を分けた。


三人で、屋根の下で食べた。


雨の音を聞きながら食べる魚は、塩が強く感じた。


食べ終えると、ロクはまた木を手に取った。


魚の束の一つは、外の葉が濡れて破れていた。


ロクが新しい葉を持ってきた。


俺が束を押さえ、彼が巻き直した。


指先だけの仕事だったが、手順は決まっていた。


覚えると、次は俺一人でできる。


待つ日は、ここでも仕事の日だった。


*


夕方、雨が上がった。


屋根から落ちる水の音だけが、しばらく残った。


岸の石も、土も、濡れて黒く光っている。


ロクが立ち上がった。


表へ出て、空を見る。


それから、裏返して置かれた大舟のほうへ歩いた。


俺に来い、と顎で示す。


ハセは残り、舟の紐を確かめていた。


大舟は、今日も裏返ったままだった。


舟底が、上を向いている。


ロクが掌を置いた。


ゆっくりと、船首のほうから滑らせていく。


俺も隣にしゃがんだ。


濡れた木は、冷たかった。


*


ロクの掌は、途中で止まった。


白く長い傷があった。


指でなぞると、浅くえぐれている。


岩にでも当たった跡らしかった。


少し先では、割れ目に黒いものが詰まっていた。


上から細い紐が、何重にも巻かれている。


ロクがその場所を、掌で押した。


少しだけ、たわんだ。


彼は頷き、手を離した。


ロクが俺の手首をつかんだ。


同じ場所へ、掌を置かせる。


押してみた。


少し沈んだが、それ以上は動かなかった。


壊れては、いなかった。


縁のほうにも、直した跡があった。


欠けた部分を削り直し、角が丸くなっているところ。


紐を掛けるための刻みも、一つは新しい木の色をしていた。


ロクの掌は、その一つ一つで止まった。


場所を、全部覚えているのだ。


俺は舟底を見た。


博物館の舟は、底だけだった。


この舟には、底にも縁にも、直した跡がある。


ロクが言った。


「これで、魚を取る」


掌が、底を叩く。


「これで、荷を運ぶ」


「下の岸の、食べ物」


全部は分からなかった。


だが、下の岸の何軒かが、この舟で食べていることは分かった。


ロクが俺を見た。


「壊れたら、誰?」


問いは、また来た。


今度は、言い換えも身振りもなかった。


俺は舟底から手を離した。


答えは、まだなかった。


「分からない」


言うと、ロクの目が細くなった。


違う、と自分でも思った。


分からないのではない。


まだ、決めていないのだ。


「一人で、決めない」


ロクが俺を見る。


「聞いて、来る」


ノエに言われた言葉を、そのまま返した。


ロクは黙っていた。


雨の残りの雫が、舟底から落ちた。


やがて彼は、底を一度だけ叩いた。


「うん」


それ以上は、聞かなかった。


他のことは、もう何も聞かれなかった。


残っている問いは、この一つだけだった。


*


夜、火のそばで温かいものを食べた。


ハセは食べ終えると、早くに横になった。


ロクは火の向こうで、また木を削っていた。


削る音が、小さく続く。


集落では、二人が待っているはずだった。


二人も、雨を見ているだろう。


遅れる理由は、言わなくても分かる二人だった。


俺は火を見た。


答えを持たずに帰る朝が、近づいていた。


*


朝、水は下がっていた。


平らな石の端が、水の上へ出ている。


濁りも、昨日より薄かった。


流れる枝の速さが、落ちている。


ハセは長いこと、水を見た。


岸を少し歩き、戻ってきて、また見た。


それから頷いた。


「出る」


俺たちは舟に溜まった水を掻き出した。


荷を積む。


俺の包みは、一つだけだった。


ロクが岸に立っていた。


削りかけの木を、手に持っている。


俺が舟へ乗る前に、彼は言った。


「答え」


「持って、来る」


ロクが頷いた。


ハセが舟を押した。


岸が、少しずつ離れていく。


振り返ると、ロクはまだ岸にいた。


もう一度振り返った時には、屋根のほうへ歩いていた。


*


帰りの水は、まだ速かった。


最初の曲がり角で、流木が横切ってきた。


ハセが短く言った。


「止まれ」


俺は櫂を止めた。


言われた場所で、舟がゆっくり流される。


流木が過ぎてから、ハセが頷いた。


「行く」


漕ぎ直す。


二つ目の曲がり角では、岸の木が水に浸かっていた。


ハセが後ろで櫂を入れ、舟の先をゆっくり回す。


俺は言われる前に、漕ぐのを弱めた。


合っていたらしい。


ハセは何も言わなかった。


昼過ぎ、岸の形に見覚えが出てきた。


草の切れ目。


舟を寄せる浅い場所。


櫂を握る指に、力が入っていた。


俺は少し、緩めた。


急いでも、水の速さは変わらない。


もうすぐ、集落だった。


*


岸に、二人いた。


イナと、ノエだった。


舟が見えたのか、二人とも水のほうを向いていた。


ノエが一歩、岸へ出た。


イナはその場に立ち、俺の顔を見ている。


舟を寄せ、荷を下ろす。


俺はハセへ礼を言った。


ハセは舟を押さえたまま、小さく手を上げた。


俺が岸へ上がると、ノエが言った。


「決まった?」


俺は首を振った。


「あと、一つ」


「保証人」


イナが俺の袖に触れた。


まだ少し、湿っていた。


昨日の雨を、確かめるようだった。


ノエが、俺とイナを見た。


「誰に、頼む」


すぐには、誰の口も開かなかった。


俺は二人を見た。


「三人で、決める」


イナが頷いた。


ノエも頷いた。


三人で、荷を持って、岸を上がった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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