82.大人の男性
「こちらこそありがとう、セオドア。大切にしますわ、本当に…」
グローリアはもう一度手の中の紫のテディ・フロッグを見た。のんびりとした表情にグローリアの眉尻が下がる。この子はエメと名付けようとグローリアは仄かに微笑んだ。
よぎった濃紫の面影にまたも思考に沈み込みそうな頭をゆるゆると横に振ると、グローリアはちらりとサリーを振り返った。サリーもまたじっと茶色のテディ・ベアを見つめている。茶色はサリーの色でもあるが、セオドアの髪の色でもある。サリーはテディ・ベアに何を思っているのだろう。
「サリー」
グローリアが静かに呼びかけると、サリーは驚いたようにびくりと肩を揺らし、目を見開いてグローリアを見た。グローリアが微笑み頷くと、フォルカーも微笑みながらサリーへ「どうぞ」籠を差し出した。
「あ……!」
サリーの顔が一気に朱に染まる。セオドアに先を越されてしまいグローリアもしばし忘れかけていたが、サリーも今日の一番の目的を思い出したらしい。ほんの少し逡巡すると、サリーは覚悟を決めたように籠から箱を取り出し前に出た。代わりに、グローリアは二歩下がる。モニカたちもすっと後ろに下がった。
「あああ、あの!セオドア卿!!」
「ははは、はい!?」
半年前と全く同じやり取りに、グローリアはうっかり笑いそうになり、慌ててきゅっと唇を引き結んだ。あの時はとても険しい顔をしていたサリーだったが、今日のサリーは口元に笑みを浮かべて真っ直ぐにセオドアを見上げている。首元から耳まで見事に真っ赤だが。
「あの……こ、こちらを……!」
「はい、えと……あの?」
サリーが一歩前に出ると箱をずいっと差し出した。セオドアが箱を凝視して固まっている。
「あ、の。こちら、皆様と一緒に作ったのです!焼き菓子です!!ぜひ、セオドア卿に食べていただきたくて…!!」
半年前にハンカチを渡した時と似たようなやり取りだがほんの少しだけ違う。ほんの少し、だがとても大きな違いだったようだ。
セオドアはじっとサリーを見つめると、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「俺がもらってよろしいのですか?」
「っ!はい!!セオドア卿に、食べていただきたいです!!」
「そう、ですか。俺に、ですね……」
セオドアがためらいがちに大きな手を伸ばし、壊れ物に触れるようにそっと箱を受け取った。宝物のように大切そうに箱を撫でるセオドアは、もうグローリアが受け取れと促さなくてもちゃんとサリーの気持ちを受け取ってくれる。その様子にグローリアの心が温かくなると同時に、またどこかが小さく痛みを訴えた。
「ありがとうございます、サリー様」
どもることなく礼を言うと、セオドアはつぶらな黒の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「私こそ、ありがとうございますセオドア卿!テディ・ベア、大切にしますね!!」
両手で包んだテディ・ベアを口元に当てにっこりと、朱に染まった両の頬にえくぼを浮かべてサリーが幸せそうに笑う。その笑顔にセオドアがまた笑みを深めて「はい」と頷いた。
「ちょっと、グローリア。いつの間に進展してたの?」
「わたくしも少々驚いておりますのよ」
今日もこそこそと開いた扇の裏でやり取りをする。グローリアも本当に驚いたのだ。王宮に来なかったこの一ヶ月の間にふたりの間にいったいどんな心境の変化があったのだろう。たとえそれがどんな変化でも決して悪いものでは無いはずだ。
「これならわたくし、父を通して後見しても良いと思いますのよ」
「あら、うちも声を掛けておこうかしら?公爵家二家からの推薦ならば誰も文句は言えなくてよ」
「あー、あのさ、一応ふたりにも了承は取ってからにしようね?」
今度はベルトルトも軽く止めはするが勝手に進めるなとは言わない。フォルカーもドロシアもはっきりと分かるほど嬉しそうににこにこと微笑んでいる。
「あら、分かっておりますわ。ふたりが望まぬことをするつもりは全くありませんことよ」
「そうね、できる限りの手助けはするってだけよ。今も、これからもね」
扇越しににっこりと笑ったグローリアにモニカもまたにっこりと笑った。黒くない笑みのはずなのに「だから怖いんだよね…」とベルトルトが苦笑した。「心外だわ!」とモニカが拗ねたふりをしている。
「今の王国において最強の布陣ですね。私も安心です」
完全に心は兄なのだろう、フォルカーもうんうんと珍しいほど機嫌よく頷いた。
そんなグローリアたちのひそひそ話も、お互いにだけ耳を傾けているサリーにもセオドアにも全く聞こえている様子が無い。
半年前には続かなかったサリーとセオドアの会話は、今はグローリアたちがこちらでひそひそと話している間もたどたどしくも続いている。その内きっとと思ってはいたが、この分だとグローリアたちが予測していたよりもかなり進みが早いかもしれない。
すっかり失念していたが、セオドアはグローリアたちよりもずっと年上の大人の男性だったのだ。
ふと、グローリアの心に影が差した。ちくりちくりとまた胸が痛みだす。痛みから目を背ければまた別の感情が持ち上がる。
大切な友人ふたりの進展はとても嬉しいのだ。嬉しいはずなのになぜかグローリアは一抹の寂しさを覚える。何だか置いて行かれるような、そんな切なさを覚えてしまうのだ。
けれどグローリアはこの感情をもう知っている。これはそう、ベルトルトにモニカがとられたような気がしたときにも感じた切なさだ。
大切だからこそ感じてしまう思い。時折現れてはグローリアを悩ませるけれど、それよりもずっと強く友の幸せを喜べると今のグローリアは知っている。きっとサリーとセオドアのことも同じように見守ることができるはずだ。
微笑ましくふたりを見守っていると、頬を染め恥ずかしそうはにかむセオドアとサリーの向こう。鍛錬場の奥から鍛錬着のアレクシアがひとり、歩いてきた。グローリアがはっとして反射的にそちらへと視線をやるとぱちりと目が合った。アレクシアの口が「グローリア様」と動いたように見えた。




