22.焼き菓子と冬の空
女神の祝祭日翌日。朝からイーグルトン公爵家では大量の焼き菓子が焼かれ、屋敷中が甘い香りに包まれていた。
昨夜は祝祭日ということで家族で御馳走を囲み、ほとんどの使用人たちには休日、もしくは早い時間での帰宅が言い渡された。家族がいないものや家族とともに住み込んでいる者たちにはイーグルトン公爵家が御馳走を用意し、イーグルトン公爵家もまたひとつの家族のように女神の祝祭日を祝った。
その翌日ということで、ある者は二日酔いの頭を抱え、ある者は食べ過ぎで重い体を抱えての厨房作業となったのだが、朝から張り切って準備を進める大切な主家の姫様のため、誰もが微笑ましい思いで働いた。
「お嬢様、こちらの焼き菓子が冷めたようですが、こちらの袋で個包装でよろしいですか?」
「ええ、それはピンクのリボンにしてちょうだい。そちらのよく似た形の塩味のものは全て青のリボンにしてね」
グローリアは指示を出しながら自分も一緒になって焼き菓子を包んでいた。今年は誰に会えるか分からないが、初めての六人での騎士団訪問だ。友人たちにも渡せるよう、色々な焼き菓子を詰めた大きめの袋も五つ、用意していく。いつも通りの甘さ控えめの焼き菓子と塩味の焼き菓子だ。
「お嬢様、そろそろお着替えをなさらないとお時間でございますよ」
グローリア付きの侍女、ユーニスがちらりと懐中時計を見てグローリアに声を掛けた。ユーニスはグローリアが十歳の頃から側に居てくれる侍女だ。元々子爵家の令嬢なのだが、十三の年でグローリアの侍女候補としてイーグルトン公爵家へとやってきた。幸いグローリアとは気が合ったため今は専属侍女としてグローリアに仕えている。
「もうそんな時間?仕方ないわ、あとはお願いね」
エプロンを外し振り向いたグローリアに、厨房でせわしなく動き回っていた者たちは皆いちど手を止め「承知しました」「お任せください!」と誰もが笑顔でグローリアを見送ってくれた。
そのまま急いで部屋へ戻ると、待ち構えていた侍女たちにグローリアは手早く準備を施されていく。元より素材のままで美しいグローリアは濃い化粧も無理なヘアメイクもいらない。豪奢なフリルも愛らしいリボンももちろんグローリアを引き立てるが、グローリアは必要でない限りはそれらを好まない。
侍女たちも心得たもので、自慢の姫様の素材が何よりも引き立つよう薄く化粧を施し、風が吹いても邪魔にならないよう髪をゆるくハーフアップにし、動きやすいようシンプルなドレスにヒールの低い靴が用意された。
「控えめには致しましたが…本日は第三王子殿下もティンバーレイク公女様もご一緒ですし、もう少し飾られてもよろしかったのでは?」
全体のバランスを姿見で確認しながらユーニスが乱れが無いか確認していく。
「駄目よ。あまり豪華にするともしもセオドアに会えた時に怖がらせてしまうわ」
「あの熊騎士様ですか?あの大きさであの怯えようは知らない方たちから見れば逆に恐ろく感じられそうですよね。確かに脅かさないのがよろしいでしょう」
王宮へ行くときはユーニスを連れて行くことにしている。普段は使用人の控室で待たせているのだが、所用があって共に騎士棟へ行き初めてセオドアに遭遇した時、ユーニスはぴくりと眉を動かして数秒固まった後に「無害ですね」と呟いた。そんなユーニスの値踏みするような視線に、セオドアは気の毒にも完全に直立不動で固まっていた。
「ええ、わたくしもセオドアに怖がられるのは悲しいわ。会えるかどうかも分からないけれど」
今日の一行はほぼセオドア見学ツアーと言っても良いので会える前提で準備をせねばならない。
「お会いできるとよろしいですね」
「ええ、久しぶりに会いたいわ」
最近はだいぶドロシアとサリーには慣れてきてそれなりに立ち話をしてくれるようになったが、今日は更にきらきらしい雲の上の三人が追加だ。万が一の時はグローリアがどうにか逃がしてやらねばならないだろう。
まるで臆病な野生の子うさぎでも扱っている気分だ。どう見ても熊なのに。
「………あのおふたりにも、会いたいわ」
艶やかな漆黒と煌めく白金。できることなら焼き菓子を直接、グローリアの手から渡したい。
「きっと会えますよ」
微笑み頷く背の高い専属侍女に、グローリアも頷いた。
「そうよね、今日はきっと良い日になるわ」
程なくして焼き菓子を包み終わったと厨房から知らせが入った。ユーニスがちらりと懐中時計を確認すると「良いタイミングですね」と用意されていたグローリアのふわふわとしたケープを手に取った。
「ユーニス、あなたもしっかり着こむのよ。何だか雪が降りそうだもの」
ケープを着け、襟巻を着け、手袋を着ける。高価な銀狐の毛皮をあしらった防寒具たちはどれもふわふわとグローリアを包み込む。
「問題ございません。私にはこれがありますので」
ユーニスが自分のコートを羽織りマフラーを巻くと、グローリアに見せるように両手をひらひらと胸の前で振って見せた。その手にあるのはグローリアと同じく銀狐の毛皮をあしらった柔らかな羊革の手袋だ。
「あら、使ってくれるのね」
「当然です、家宝でございますから」
女神の祝祭日には家族やそれに等しいほど大切に思う者同士で小さな贈り物を贈り合う。ユーニスの手を温めるその手袋は、ちょうど昨日、グローリアがユーニスに贈ったものだった。
イーグルトン公爵家では女神の祝祭の日、使用人に公爵家から小さな贈り物が贈られる。さすがに全て公爵家の者が選ぶことはできないので、執事なら執事長、メイドならメイド長、料理人なら料理長と、それぞれの職場の長が予算の中でそれぞれへの贈り物を選ぶ。
ユーニスはグローリアの専属侍女。家からの贈り物は侍女長が選ぶのだが、グローリアはそれ以外にもグローリア個人の資産から毎年ユーニスへ贈り物を贈っている。常にグローリアと共に居てくれる大切な姉のような人として………立場上、決して口には出せないけれど。
「大げさね」
ふふ、と笑うとグローリアも自分の耳たぶにそっと手を添えた。そこに光るのは白銀の雪の結晶。普段使いにちょうどいい大きさのシンプルな装飾の中心に光るのはひと粒の小さなエメラルド、ユーニスの瞳の色だ。
「行きましょう、皆様をお待たせするわけにはいかないわ」
すっと、控えていた侍女たちが頭を下げた。ユーニスも頭を下げると扉を開きグローリアの前を歩く。
玄関ホールへ降りればすでに焼き菓子を詰めた籠が六つ。大きな四つは御者がグローリアの代わりに通用口から鍛錬場へ運び込み、小ぶりなひとつはグローリアが手ずから持って鍛錬場を訪問する。そうしてもうひとつ、少し装飾の違う豪華な籠には友人たちへ、焼き菓子と、そこにそっと忍ばせた女神の祝祭の贈り物が入っている。
「行ってまいりますわ」
「楽しんでいらっしゃいね」
夜遅くまで飲んでいたらしい父と次兄は昼を過ぎた今もまだ夢の中。長兄は婚約者の家へ向かったらしい。母だけが見送りに出てグローリアの頬にそっと口づけてくれた。おっとりと微笑む母に、グローリアも口づけを返し微笑んだ。
玄関を出れば身を刺すような寒さがグローリアの肩をきゅっと竦ませた。吐く息が白い。見上げれば、空は薄っすらと淡い灰色に覆われている。
「もう少しもってくれるかしら」
―――どうか、せめて焼き菓子を渡すまで。
グローリアは小さく女神に祈ると馬車に乗り込み、そうして小さなくしゃみをした。




