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Blond's and X  作者: 川咲弐号
3章  本気を教えてあげようじゃないか
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10

     ◆ ◆ ◆ ◆


 どんなに騒がしい一日でも、心に不安を抱える時でも、夜は来る。

 夜は静寂を連れてくる。不安に満ちた心に冷たいものを注ぎ入れ、不安が一層増す。

 それは、ジェーンにとっても例外ではなかったようだ。

 昨夜と同じく、アトリとベッドを共用し眠りについていたジェーンは、スッと静かに瞼を開く。時計の針が動く音だけがする部屋で、衣擦れの音をさせながら身を捩る。


「寒っ……。んんぅ~…………まだ二時」


 ベッドの中から時計を確認し、むくりと体を起こす。捲れた掛布団の中には、アトリの姿がなかった。

 こんな時間に子どもが起きている事を不思議に思ったのか、ジェーンは顔を顰めつつアトリが使っていたはずの隣の枕を手で触る。


「……冷たい」


 ジェーンはパジャマの上に、ベッドの側に置いてあったカーディガンを羽織ると、音を立てないように気をつけて部屋を出る。

 ジェーンが眠りにつく前は、オフィス兼リビングダイニングの部屋で、キールがソファで寝ていた。元々この相談所にキール用のベッドというものはなく、いつもソファをベッド代わりにしているという。住み始めて大分経っているようだが、それなのに家主のベッドがないのは単純に置くスペースがないからだ。

 昨夜もキールはソファに掛布団だけ持ち込んで寝ていたが、今日は夕食に飲んだエールで潰れて寝てしまったところに、後で掛布団を掛けてやったぐらいぐっすりだ。食事を共にし、エールを持ち込んだ張本人であるハリソンは、見た目には全く酔いを感じさせず余裕で皿洗いまで手伝っていた。

 そのハリソンはビルの一階、自身の部屋に戻っているはずだが――


「…………声?」


 ジェーンは廊下で立ち止まる。

 アトリの寝室を出ると短い廊下、対面が浴室、右手側が過去の依頼資料等がある保管室、そして左手側がオフィス兼リビングダイニング。玄関はその部屋直通なので、誰かが来ればキールが気づくはずだが、泥酔し熟睡している今のキールではそれも疑わしい。

 声は二つし、一人は恐らくアトリ、もう一つは低い男性のものだった。狭い家なので廊下に立っていれば、扉越しとはいえそれなりに音は聞こえてくる。

 声のする方――オフィス兼リビングダイニングの部屋の前で、ジェーンは扉に耳を当てる。


「やっぱりハリソンさんの声よね……」


 口の中で呟いた。予感が確信に変わり、更に耳をそばだてる。

 はっきりとではないが、理解出来る程度には聞き取れる。


「――痛く……はないよな」


 そう言ったのはハリソンだ。それを受けてアトリは「ん」とだけ答えるが、その声は眠そうだった。


「眠いのは分かるが、もうすぐ包帯巻き直し終るから頑張れ」


 アトリの声はしなかった。あるいは無言で頷いたのかもしれない。

 それからそんなに経たない内に、


「よし、出来た。アトリ、もういい――って、寝てるか」


 ハリソンの苦笑する声が聞こえた。微かだがアトリの寝息も。

 ジェーンはそっと扉を開く。

 テーブルに置かれた電気ランタンが、暗い部屋を仄かに照らす部屋の中。

 最初に目に飛び込んできたのは、ソファに大の字でずり落ちそうになりながら眠るキール。鼾をかいていないので死んでいるようにも見えるが、絶妙なバランスで落ちない器用な寝方だ。

 そして、キールが寝ているのと向かいのソファ、ジェーンからは後ろ姿が見える形で座っていたのはハリソンとアトリ。正確には座るハリソンの肩に、寝てしまったアトリがもたれ掛っている。

 ジェーンはキール達を起こさないように足音を忍ばせて、ハリソンの背中に声を掛けて近づく。


「アトリちゃん、ベッドに運びますか?」

「…………」

「ハリソンさん? 寝ちゃいましたか?」


 ジェーンはソファの背もたれから乗り出し、ハリソンの顔を覗き込む。ぱっちりと眼を開いているハリソンと目が合った。


「お? オベールさんか。どうした、眠れないのか?」


 何事もなかったように微笑み掛けてくるハリソンに、ジェーンはじっと視線を送る。ハリソンも目を逸らさず、ジェーンの言葉を待っている。


「……見当違いかもしれませんが、一つ訊いていいですか?」

「おうよ。言ってみな」


 子ども扱いされているのか、柔らかい声音で言われた。実際四十代らしいハリソンとは年齢差がかなりあるが、だからといってはぐらかされる事はされたくないというように、気持ちだけでも負けないように真剣な眼差しを向け、


「ハリソンさん――――耳が悪いですよね?」


 そう訊ねた。

 ハリソンは即答しない。表情に変化もない。

 それでもジェーンがじっと言葉を待っていると、


「どうしてそう思ったんだ?」


 質問を質問で返された。

 ジェーンはソファの背もたれを掴んでいる手元に視線を落とし、その情景を思い出すように言葉を紡いでいく。


「昼間、私が声を掛けた時にハリソンさんは返事をしませんでした。アトリちゃんに腕を引かれてようやく振り向いていたので、その時から違和感はありました。それに今さっき、私が覗き込むまで気づいていなかったようなので、もしかして耳が聴こえにくいのかな……と」

「はあ~、なるほどな。これでも悟られないよう気をつけてたつもりだったんだが、馴染みの顔が揃ってたから油断してたかな。あるいは、オベールさんが鋭いのか。今の説明も納得出来るもので良かったし、はっきり物を言う芯の強さといい、君、刑事に向いてるかもな」

「あまり嬉しくないです……。私、今回の事であまり警察を良く思わなくなったので」


 失望の溜め息を吐くジェーンに、ハリソンは「はは」と困り笑いを浮かべる。


「ただ、惜しいな。及第点ではあるが、それでは満点はあげられない」

「間違っていましたか?」

「俺は、難聴ではなく失聴――完全に聴こえてないんだ」


 その言葉とは裏腹に、ハリソンの顔は穏やかだった。

 寧ろ心を乱したのはジェーンの方で、驚きのあまり大きな声を出し掛けたところを、慌てて口を押えて無理矢理に押し込めた。ここには寝ている人が二人もいる事を、すんでに思い出したようだ。

 ジェーンは口を押えたまま目を見張る。


「え? だって、そんな……。今日一日、今だって会話出来ているじゃないですか」

「オベールさんは『読話』というのを知っているか? あるいは、『読唇術』と言った方が耳に馴染みがあるかもしれないが。俺の場合は、口の動きや表情から読み取る観察眼に加えて、相手の人物像を鑑みつつ、刑事時代に培った推理力をフル回転させて、やっと会話を成立させているようなもんだ。……なんて格好つけて言ったが、要は『この人ならこう考えるかな』と想像で補っているという事だな。だから相手の顔を見ないと会話にならない。ちなみに、今オベールさんがなんて言ったのかは全然分からなかった」


 ハリソンに指を差されて、口を手で覆っていた事を思い出したと顔に出る。

 ジェーンは手を離し、僅かに暗い表情を浮かべると、心持ちスピードを落として喋る。


「キール達は、当然その事を知っているんですよね。あの警部さんもですか?」

「俺の耳が聴こえなくなったのが、まだ刑事だった頃だからな。自分から言った事はないし、警部殿から問い詰められた事もないが、当時のあの様子だと分かってて黙ってたようだな」

「ハリソンさんが刑事を辞めたのって、聴覚の事があったからですか? そもそも、どうして耳が――……すみません。突っ込んだ事を訊き過ぎました」


 途中で失速し、ジェーンが項垂れる。

 そんなジェーンを横目に、ハリソンは肩に寄りかかるアトリを動かし、自身の膝に倒して寝かせる。


「気にする事はないさ。問題ある事なら、流したり話を逸らしたりして答えないだけだから」

「はい……」


 ジェーンの沈んだ返事を耳でなく目で聞いてから、ハリソンが首に手を当て、唸りながら考え始める。少ししてからジェーンの方を向く。


「そうだな。――夕飯の時の様子を見るに、オベールさんはキールの味覚の事を知ってるようだが」

「はい、ダスティさんから聞いて。精神疾患の一種なんじゃないかって言っていました」

「精神疾患か。なるほど、あながち間違ってもいないな。それなら、オベールさん。アトリについてはどうだ?」


 問われて、ジェーンは首を横に振る。揺れる長い黒髪が空しく鳴る。


「ですが、アトリちゃんにも何かあると思ってはいました。綺麗な見た目の事を抜きにしても普通の子とは違う、とても不思議で……少し恐い子と感じます」


 ジェーンの率直な感想に、ハリソンがどこか嬉しそうな顔をした。寝ているアトリの頭を撫で、落ち着いた温かみのある声で話す。


「――このアヴァルという島は、何かが欠けた人間が暮らす箱庭だ」

「箱庭……。キールが言っていました。『人間の可能性を見られている』って」

「こいつ、そんな事まで話したのか」


 間抜けな顔で対面のソファに寝るキールを、ハリソンの呆れた視線が刺す。そんな事とは露知らず、暢気に「むにゃむにゃ」とベタな寝言を言っている。


「欠けているから補おうとする。それが、人間が進化する伸び代になると考えた輩がいたわけだ。そんな中で俺が聴覚を、キールが味覚を失っているように、アトリも失ってるものがある。考えによっては、俺やキールよりも過酷なもの――――触覚を」

「触覚……ですか?」

「こうして髪に触れても頭を撫でても、アトリは何も感じない。今揺さぶったとしても起こせないだろうな。それとは別に察知能力が高いから、そういう意味では飛び起きる可能性もあるが」


 話を聞いて、ジェーンが「あ」と声を上げる。


「そういえば、アトリちゃんの肩が濡れてハンカチで拭こうとしたら、ひどく驚かれた事があります。あれはそういう事だったんですね。でもキールはともかく、ハリソンさんより過酷というのは……。条件だけ考えれば、耳が聴こえない方が生活するのに辛いと思いますけど」

「――まだ子どものアトリが、これから経験するであろう感情を受けずに成長すると考えるたらどうだ? 親に抱き締められる安らぎも感じず、友達と肩を組みハイタッチする楽しみも感じず、恋人と手を繋ぎキスをする幸せも感じず、子どもを抱き指を握ってくる愛しさも感じず。温もりを感じないというのは、他との齟齬が生まれ、人の心に寄り添えないという事でもあるわけだ」

「そんな……」


 周囲に恵まれ、エリザベスという大切な恋人がいるジェーンには、その大きさが分かる。掛け替えのないものというのは、確かに存在するという事が。

 アトリは子どもにしては考え方が大人びていて、頭のいい子という印象はあった。だがそれでいて、どこか淡泊であったのも確かだった。

 ハリソンは、アトリの額に掛かる髪をそっと除ける。


「そんな中にも救いはある。これでも昔よりマシになった方だからな。欠けた部分は俺達で補えるところは補う。触覚を与える事は出来ないが、俺もキールもアトリを一人の人間として尊重してる。アトリも人並みに文句を口にするようになったし――痛みを感じないのをいい事に、無茶をするようになったのはいただけないがな。痛みがない分人間が本来持っている力を発揮出来るが、痛覚は安全装置でもあるからな」

「痛みも感じない……。あの、その手の怪我をした時、アトリちゃん凄く感情を昂らせていたんです。警察に対して、特別な思いでもあるんですか?」


 ジェーンの視線を真っ直ぐ受けていたハリソンは、不意に明後日の方を向く。

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