#1
愛車のワーゲンPOLOで中央道を西へ走る。今日は祖母の納骨式だ。長野の冬はしばれる。それでも暖房の効いた車内は、春のようにあたたかかった。
「タッキーのおばあちゃんって、どんな人だったの?」
助手席から妻の康子が聞いた。シートベルト越しに膨らんだ胸元を見るたび、童顔とのアンバランスさに初めて会った頃を思い出す。26歳。昨年4月、社会人入試で大学に入り直したばかりだ。学生結婚には両親も驚いたが、最後は笑って送り出してくれた。
「小さいころは、よく遊んでくれてさ。」
ハンドルを握りなおした。
「おじいちゃんのことがマジで大好きだった。だから俺にも、『一番愛する人と一緒になりなさい』って、よく言ってたんだ」
「お兄ちゃんと来たかったでしょ、わたしでごめんね」
「や、俺は今すごく幸せだよ。…ちょっと休憩しよっか」
タバコを吸う仕草をすると、康子は笑って俺の肩を軽く叩いた。
俺たちは、どこからどう見ても平穏な、ごく普通の夫婦に見えるはずだった。
諏訪湖サービスエリアの空気は、いつも澄んでいて好きだ。
「ミル挽き珈琲」のボタンを押すと、気の抜けたコーヒールンバが流れ始める。この自販機を見かけるとついつい買ってしまう。
珈琲を待つ間ふと顔を上げると、レストランから制服姿の警察官が何人か出てきた。霞が関に勤める身だが長野県警も悪くないな、とふと思う。
紙コップの珈琲を手に、少し離れたところから康子を眺める。
彼女は喫煙所の隅で、マルボロ・メンソールの煙を細く吐き出していた。どうして大学生というのは、そろいもそろってマルメンを吸いたがるんだろう。
スマホが短く震える。通知を見ると、思わず頬がゆるんだ。
「カレシ?」
振り返ると、康子がにっこり笑っている。いたずらが成功した子どもみたいな、その笑い方。東京で俺の帰りを待つひとも、まったく同じ顔をする。
「お前のにーちゃんだよ」
「やっぱり。」
康子はくすっと笑うと、ポケットからスマホを取り出した。
「わたしも聖子に電話しよ。諏訪湖の写真は送ったけど。」
そう言って、スマホを耳に当てながら少し離れて歩いていく。
「…もしもし?」
長野の冷たい空気に、珈琲の香りが優しく溶けていった。
再びPOLOを走らせると、車窓の景色は次第に白い山々に囲まれ、安曇野の、あの懐かしくも冷たい土の匂いが近づいてきた。
実家に着いたのは、ちょうど正午を回った頃だった。
年季の入った木造家屋の門柱には、黒ずんだ御影石の表札に「鈴木」と深く彫られている。
「おー、康子ちゃん!瀧!」
引き戸を開けた瞬間、すでに出来上がっている親戚のオジサンたちの野太い声とアルコール、出汁の匂いが混ざったなんとも言えない熱気が押し寄せてくる。ああ、法事に来た、と感じる。和室の長机には、大皿の仕出し料理と瓶ビールが並んでいた。
上着を脱いで挨拶をする康子の姿に、視線が一瞬で釘付けになるのが分かった。
黒い喪服は慎ましく肌を隠しているのに、その豊かな胸元だけは隠しきれない。それに加えてキュートな童顔だ。男たちが一斉に鼻の下を伸ばし、歓迎のトーンが2オクターブほど上がる。
「ほらほら、康子ちゃん、こっち座りな!瀧にはもったいないくらい綺麗な奥さんだわ、ガハハ!」
「ありがとうございます。おじさん、瓶ビール重たいでしょ。ハイ、わたしやります」
康子は笑顔のまま瓶を受け取り、空いたグラスを手際よく集めて回る。誰のグラスが減っているかまで、ちゃんと見えている。
「おっ、気が利くなあー!」
「康子ちゃん、こっちも!」
あっという間に座敷の中心は康子になっていた。
嬉しそうに甲斐甲斐しく動く康子を、俺は少し離れた席から眺める。ああいう立ち回りは、カラオケや居酒屋で何年も働いて身につけたものだ。本人は無意識なんだろうけど。
「タキおにいちゃん!」
「瀧くん!よく来たねー、運転疲れたでしょ?」
従妹やおばさんたちからは、昔からかわいがってもらっている。この容姿が、俺たちの「今の生活」においてどれほど役立っているか、親戚たちは知る由もない。
賑やかな昼食が終わり、午後になると、安曇野の厳しい冬の風が吹く墓地へと向かう。冷気で顔が痛い。
冬の灰色の空の下、お経が冷たい風に混ざって流れていく。お墓の蓋が開けられ、祖母の白い骨が最愛の人の隣へと収められていく。
ふと隣を見ると、祖母に会ったこともないはずの康子の目が、少しだけ潤んでいた。彼女は黙ったまま、祖父と祖母の名が並ぶ墓石を見つめている。「一番愛する人と一緒になりなさい」。車の中で話した祖母の言葉が、不意によみがえった。
「タッキー、お線香」
甘く、少しハスキーな声が冬の空気に溶ける。康子は俺から線香を受け取ると、自前のライターで火をつけた。風に揺れるちいさな煙を、両手でそっと包むように供える。
「おばあちゃん」
心の中で静かに呼びかける。
「俺、一番愛する人と、ちゃんと一緒に生きてるよ」
その言葉に嘘はひとつもない。書類の上では夫婦でも、俺たちが人生を懸けて守りたい人は、別にいる。東京のマンションで帰りを待つひとたち。
祖母は最愛の人の隣で眠ることができた。俺たちはその未来を選ぶことすら許されていない。だから俺たちは、「鈴木」という同じ姓を名乗った。愛する人たちが、それぞれの人生を守り抜けるように。
安曇野のしばれる風が、線香の煙を空へさらっていく。
その煙を見送りながら、俺たちはこれからも、誰にも疑われない夫婦として生きていく。




