リーズラーンにだけは嫁ぐな
「爺。私の負けよ。物騒な真似はやめて」
「姫……」
ライガンはペーパーナイフを机の上に置き、ファミル皇女のベッドにすがりついた。
そして、声を押し殺しつつ、肩を震わせて泣く。
ファミル皇女は漸く布団から目を覗かせ、ライガンの肩に「爺。ごめんね」と手を置いた。
「では、余は引き上げます」
レイはまだファミル皇女と言葉を交わすのは適切ではないと判断しているのだろう。
口元を引き締め、軽く一礼を残してドアに向かう。
レイの背中に当てられたファミル皇女の寂しそうな視線が印象的だった。
俺もこの場に自分が邪魔な気がして、「私も」と言ってベッドに背を向ける。
「あ……。ジャスパー様」
エリゼが俺を呼び止める。
部屋を出て行くレイを見送り、エリゼに視線を戻すと、エリゼはファミル皇女に何か耳打ちしている。
ファミル皇女はエリゼに向かって、しっかりと頷き、すがるように俺を見上げた。
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部屋には俺とファミル皇女の二人きりになった。
ファミル皇女が人払いをしたのだ。
ファミル皇女はベッドにいくつも枕を重ね、そこにもたれて背中を起こしている。
「私に何か御用でしょうか?」
俺はおずおずと訊ねた。
不安でいっぱいだ。
確かに、皇女に会わせてほしいとは言った。
しかし、それはエリゼが同席してのこと。
いきなり二人きりでファミル皇女と面と向かって本心を聞き出すということは想定していなかったし、初対面の俺に彼女もそんな大事なことは話せないだろう。
そして、嫌でも執務の間でレイに対して悪態をついた彼女の姿を思い起こしてしまう。
これから、陛下には直接言いにくい文句を俺にぶつけようとしているのだろうか。
異腹の双子とはこういうことも王の身代わりにならなければいけないのか。
「ありがとう」
ファミル皇女は軽く頭を下げた。
声には感謝の気持ちはあまり籠っていないようだが。
「どうされました?」
「私を助けてくれたのよね?エリゼに聞きました」
「ええ。まあ。私は大したことはしていませんが」
直接助けたのはコールマンで、俺は侍医を呼びに行っただけだ。
「でも。どうしましょう……」
ファミル皇女は途方に暮れたような目で窓の外を見る。「ジャスパー殿は、影武者として常に陛下と行動を共にされるとか」
「はい」
「リーズラーン王国の王室の方なのですか?」
「いえ、滅相もありません。斜陽貴族の次男坊です」
「そうですか」
ファミル皇女は憂いに満ちた顔を俺に向けた。
開いた唇が微かに震えている。「あの時、御簾の向こうで陛下と並んで座ってらっしゃった?」
「そうです」
「私を愚かな女だと思っていらっしゃるでしょう」
ファミル皇女の視線は隣の部屋に向けられている。
自分が首を吊った辺りだ。
「愚かだとは思っていませんが、……どういうお考えか、計り知れないと思っています」
俺は正直にそう言った。
愚かな人間に執務の間で他国の国王に向かってあれだけ堂々と意見することはできない。
しかし、どういう心理になるとあのような態度になるのか、俺にはさっぱり分からない。
計り知れない。
ファミル皇女はそう呟いて、「確かに」と小さく笑った。
「出発前。私はロイス四世陛下とお会いできるのをすごく楽しみにしてました」
ファミル皇女の頬に微かに朱が差す。
「そうなのですか」
では、どうしてその数日後にレイに対してあのような悪態をつくことになってしまったのか。
「先ほど、爺が言ってた通り、私は生まれたときには陛下のもとに嫁ぐと国内で決められてました。だから、私の心には将来の夫となる、まだ見ぬ陛下の御姿が常にあった。我が国の臣が陛下に謁見する都度、私はその臣に陛下がどのような御様子だったかを問い、そうやって心の中の陛下を少しずつ具体化してきたのです」
「陛下の肖像画でもあれば良かったですね」
「あるわ」
ファミル皇女は当たり前のように言った。「二年前の使節団に画家を一人潜り込ませたの。用具も一式持たせて、派遣中に陛下の肖像を描かせたのよ」
叱られるかしら、とファミル皇女は口元を緩めた。
ファミル皇女が笑ったのを初めて見た。
怖さは消えないが、少しだけ親しみが持てる。
「いかがでした?実際にご覧になって、その肖像は陛下と似ていましたか?」
「実際の方が素敵だったわ。絵には子どもっぽさがあったけど、二年前のものですしね」
「それはよろしかったです」
「だけど、それもこれももうおしまい」
ファミル皇女は両腕でバタンと布団を叩いた。「結婚は諦めるわ。私だったら、こんな女、嫌だもん」
「陛下はお優しいので、何とおっしゃるかは……」
そうですね、とはさすがに言えず、少し希望が持てるようなことを口にしてしまう。
「陛下がお優しくても、周りが反対するわ。こんな問題児、面倒くさいって」
「陛下とご結婚されたいのですか?」
「ズバッと訊いてくるわね」
ファミル皇女にギロッと睨まれる。
「あ。申し訳ありません」
俺は深く頭を下げて謝った。
喜怒哀楽の激しいこの皇女の取り扱いは難しい。
「そりゃ、今を時めくリーズラーン王国の若き国王陛下と結婚できるなんて、本当に限られた人だけですもの。誰かと結婚しなくちゃいけないんだったら、陛下と結婚したいわ。見た目もスマートだし」
「確かに」
「だけどね……」
ファミル皇女は両手で顔を覆った。「言われたのよ。リーズラーンにだけは嫁ぐなって」




