第31話 命の死
ムサシは――戸惑いと恐怖と哀れみと怒りは、雷が落ちたような光と音をきっかけに遠ざかって行った。
パールが自らそれを遠ざける必要がなくなって、少なからず安心した。
以前、パールのもとに「能力をコントロールするための訓練」と称して、次から次へと生贄のように誰かが連れて来られていた。
その人たちも決まって、パールに対して戸惑い、恐怖して、哀れみ、そして怒りをぶつけてきた。
怖かった。
相手が感じている恐怖はパールに伝播して、さらに大きな恐怖に育ち、気付けばパールその人の魂を引き千切って放り投げていた。
怖かった。
そんな感情はいらない。
優しさが欲しい。
愛して欲しい。
守って欲しい。
それだけでよかった。
それだけが欲しかった。
――ただ。
ムサシの感情は以前連れて来られた人たちと違って、もっと複雑だった。
戸惑い、恐怖、哀れみ、怒り。それらと一緒に、優しさも、愛しさも、等しく混じり合っていた。
こんなにも複雑な感情に触れたのは初めてだった。
城に招待されてからは霧がかかったように人の感情をうまく読み取れなくなってしまったが、少なくともそれ以前でパールに向けられた感情は、悪意か好意かのどちらかでしかなかった。
だからパールにはムサシの感情が理解し難く、考えれば考えるほど気持ちを落ち着かなくさせた。
――惜しかった。
――もし好意しか感じられなかったなら、きっと「大好き」にだってなっていた。
今のパールにはそのように考えるのが精一杯だった。
「パール」
懐かしい声で呼ばれ、思わず肩が跳ねた。
嬉しいと思ってもいいはずなのに、なぜか素直にそう思えなかった。
それは懐かしい声に、どこか悲しみと、それ以上に怖さを感じたからかもしれない。
「……サティ?」
振り返るとそこには、ボロボロで今にも死んでしまいそうなサティがいた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
声をかけたパールは、まるで悪戯が見つかった子供のように肩を跳ねさせて、恐る恐る振り返った。
まさか叱ろうとしていることを気付かれたのではないかと、サティもまた危惧する。仮に気付かれたのだとしても、だからどうしたという話ではあるのだが、「叱る」と一大決心をしたばかりのサティにとっては、もしパールが下手な言い訳を一つしただけでも心が折れてしまいそうだった。
だから先手を打ってしまいたかった。
冷却装置が壊れてしまい、文字通りヒートアップした集積回路で何度もシミュレーションをした。
出会い頭でなにをしていたか聞き、口ごもるパールに人の心の尊さを説き、安易に魂を奪うことはよくないことだと叱るのだ。
結果、口ごもったのはサティのほうだった。
パールに嫌われるかもしれないと思うと、怖かった。
ディープラーニングが正しく動いてないのではないかと疑う。アルゴリズムを組み直したい。蓄積された学習データが難い。パールに嫌われることを恐れている要因をすべて消去したいと考えて、
「――消去」
遠からず、サティ自身がサティ足らしめているデータが消えてしまうことを思い出す。
ボディは修復可能かもしれない。だけど、データが消えてしまえば、それはもう自分ではない。
――これが、死?
サティがサティとして起動してから二年余り。
決して長くはない稼働時間ではあるが、その間のほとんどをパールとの思い出に埋め尽くされている。
嫌われたくない。
当然だった。サティはパールの母親代わりとして起動させられた。サティにとってはパールが全てだった。
だけど、そんな想いは、思い出と共に消える。
――そんなのは、
「……嫌、ですね」
そのときサティは初めて死を理解した。
命を持たない機械人形にとって、命の死は実感の沸かない出来事だった。
壊れたところで修理さえできれば、また動ける。壊れることは消えることに直結しない。
だけど、今回は違う。自分が消えてしまう。
「――サティ?」
それに気付いてしまったとき、サティはパールに駆け寄って抱き締めずにはいられなかった。
戸惑うパールが、サティの腕のなかで居心地が悪そうに身じろぎした。身体が熱くなっているので、それに戸惑ったのかもしれない。
これで最後なのだ。これが最期なのだ。だからせめてもう少しだけ、パールの温もりを感じていたいと思った。
そして――きっと、ウェーブも最期のとき、こうしたかったんだろうと思い至る。
だけど、ウェーブはそれができなかった。
それどころかきっと本当に伝えたかったことを飲み込み、母親として教えなければいけないことをサティに託したのだ。
それをサティは、噤んでしまった。
ムサシはそれが母親失格だと言った。
その通りだと思った。
結局のところ、パールの母親は、ウェーブしかいなかった。
「パール、お母さんのことは好きですか?」
「えっ……?」
腕の中のパールが息を飲む。
「サティのことは……大好きだよ」
その返答はアンドイドであるサティでも、ずるいと感じた。
「私は……私は、パールの、お母さんじゃないですよ。貴女の、お母さんは、ウェーブじゃないですか」
「……あのお母さんは、大っ嫌い」
「――どうしてですか?」
「だって、あのお母さんは、もういないから」
「―――――」
私たちは間違っていたと、ウェーブは言った。その通りだった。
母親の死を悲しんでなんかいないと、ムサシは言った。その通りだった。
そして気付いてしまう。
パールは、このあと、サティが死んだとしても、悲しんだりはしない。
相応しくないものの魂を刈り取りながら、次の母親役を探して回るのだ。
きっと、サティのことも「あのお母さんは、大っ嫌い」と言いながら。
――私は、私たちは、どうしてこんな残酷に育ててしまったんでしょうか?
「パール……もう一度、言います。よく聞いて下さい」
もう嫌われるのが怖いとは思わなかった。
ただ、残酷なこの子に、教えなくてはいけないと思った。
「私は、貴女の、お母さんじゃ、ありません。貴女のはお母さんは、ウェーブしか、いません」
「……どうして? どうしてサティもそんなこと言うの? なんでムサシと同じことを言うの?」
パールがサティを突き放して距離を取る。
そして信じられないようなものを見たような目をサティに向ける。その目をさっきまでは怖くて見たくないと思っていた。今は違う意味で見たくないと思っている。パールがこんなにも哀れだと思う日が来るなんて思わなかった。
「……パール、これから貴女のお母さんが最期に伝えようとしたことを話します。ちゃんと、ちゃんと聞いて下さい」
「……いやだ」
「聞きなさいっ!」
「いやだっ!」
「……あと、私にレヤックの力を使おうとしても無駄ですよ。私に魂はありませんから」
「――っ!?」
万策尽きたパールがサティを睨みつけてくる。今まで一度も向けてきたことのない視線だった。
ただ不思議ともう怖いとは思わなかった。これが反抗期というものなのかとも思えば、少しだけ気も楽になる。
「ウェーブは、貴女のお母さんは、できることならずっと、貴女と一緒にいたかったんです」
「……うそだ」
「ずっとずっと一緒にいたかったんです。だけど、貴女のレヤックの力が、貴女のお母さんを蝕んでいってしまいました。お母さんがいなくなったのは、貴女が殺してしまったからです」
「―――――」
「貴女のお母さんはこう言ってました。貴女がその力に頼り続ける限り、貴女はずっと独りぼっちだ、と。
人の心は、貴女が思っているよりもずっと複雑で、大切にしなくてはいけないものなのです。それを簡単に踏みにじるような子のそばになんて誰も近付いては来ない、と」
気付けばパールは下唇を噛んで涙を堪えていた。
なにか反論できる余地を探してか、視線を床の上に走らせていた。
「……サティは……サティはそばにいてくれるよね?」
悲鳴のような声が漏れそうになる。
それはパールにとっては細やかな反抗だったのかもしれない。しかしサティにとっては叶えられない残酷な願いだった。
「……パール、私は、もうすぐ、死にます」
「えっ――?」
動揺の声はパールからだけではなかった。
背後から様子を覗っているであろう二人からも、同様の気配を感じた。
「……うそ」
「嘘じゃ、ありません。この身体は、とっくに限界を迎えています。あともう数分も保てばいいほうです」
「……そんなの……」
パールの視線が泳ぐ。
それは次の母親役を探してのことか、それとも悲しいと感じたのか、サティにはわからなかった。
「悲しいですか?」
「……そんなの、わからない」
「私は、悲しいです」
「……………」
「もう、貴女が泣いているときに、抱き締めてあげることができません。怖い夢を見て怯えている貴女の身体を叩いて安心させてあげることもできません。トイレに着いて行くことも、ご飯を作ってあげることも、なにもできなくなるのです」
「あっ……」
「私は、それが、悲しいです」
「……いやだ」
「貴女のお母さんもそうでした。お母さんはもう貴女を守ってあげられない。お母さんはもう貴女に微笑んであげられない。お母さんはもう貴女を見てあげられない」
「いやだぁ」
「もしかしたら、他の誰かが貴女にしてあげられるかもしれません。だけど、貴女のお母さんは、私は、もう貴女になにもしてあげられないんです。それが、死ぬということなんです」
「そんなの、いやだよぉ」
パールはサティのエプロンドレスを握りしめる。その手は小刻みに震えていた。気付けばボロボロと涙を流していた。自分にも涙を流すような機能があれば、きっと泣いていたとサティは思いながら、その震える肩に手を置く。
「パール、貴女は優しい子だから、本当は、もうとっくに気付いていたんじゃないですか? お母さんの代わりなんて、誰にもできないなんてことは。貴女のお母さんは、ウェーブだけなんだってことは。
だから、もう、そのようにお母さんを探すのは止めなさい」
返事はない。パールは声を引き攣らせて泣くばかりだった。
「貴女のお母さんは、もうどこにもいません。
だけど、貴女はまだ独りじゃありません」
「えっ……?」
「城にサラスもヨーダがいます。ここにカルナとムサシも来ています。
彼らは貴女のお母さんではありませんが、貴女のことを大切に思ってくれているはずです。
だけど、その力を使い続ける限り、彼らだっていなくなってしまいます。
今度こそ本当に孤独になってしまいます」
「でもっ、でもっ、サティはっ?」
「……私は、そこには、もう、いません」
「そんなの、いやだぁ」
「私だってっ」
嫌だという言葉は寸でのところで飲み込む。代わりにパールを抱き締める。
「……パールが、私と一緒にいたいと思ってくれていることは、とても嬉しいです。
……ですから、どうか、その気持ちを、他の人にも、そしてこれから出会う人たちにも向けてあげて下さい。
それが、きっと、命を大切にするということです」
泣きじゃくるパールをさらに強く抱き締める。
きっとそんなパールと変わらないくらい悲しいはずなのに、それでもサティはどこか晴れ晴れとした気分だった。
心残りはたくさんあった。
このあとパールがどうなっていくのか心配でもあった。これから先、それでもパールの力が、パールの生い立ちが、きっと彼女を苦しめるだろう。そのときにそばにいられないのは、堪らなく不安だった。
今だって可愛らしいのだ、大きくなったパールはきっと美人に育つだろう。そんなパールの姿を自分のデータに残せないのは、とても悔いが残る。
だけどウェーブに命じられた子守りは、きっとこれで完遂できたと思う。愛情を持って接せられたと自負できる。
だけど、任務でもなく、母親代わりとしてでもなく、サティ自身として一つだけ、
「パール、最期に、お願いが、あります」
我儘を言いたい。
「私がいなくなっても、どうか、私のこと、嫌いにならないで下さい」
パールは涙と鼻水で汚れたエプロンドレスから顔を離して、ゆっくりと顔を上げた。
泣き腫らして、目が赤く腫れてしまって、ひどい顔にさせてしまったなとサティが思っていると、パールは泣きながら、それでも笑顔を見せて、
「そんなの、サティのこと、ずっとずっと、大好きに決まってるよ」
そう言ったのだ。
口下手で、我儘で、でもやっぱり優しい子だった。
感極まって、また喋れなくなりそうだった。
それでもどうに絞り出すようにして、
「――はい、私も、パールのこと、ずっとずっと、大好きです」
三度、パールを強く抱き締める。
背後から、ムサシとカルナが近付いてきていた。
カルナはやや涙目になりながら、ムサシは伏し目がちで、二人ともなんと言っていいかわからない様子だった。
「ムサシ」
そんなムサシにサティは最期のお願いをする。
「パールのこと、頼みます」
そこでサティの意識は唐突に、ぷつりと途切れた。




