第24話 暴走Ⅰ
助けが来たという事実に喜ぶ暇も与えられずなにが起きたのか、武蔵ははっきり見ていた。
完全に倒したと――それこそ人間で考えればどう見ても死んでいるとしか思えない状態だったメイドが、まるでカエルの跳躍のように跳ねたかと思うと、サティの横っ腹に仕返しとばかりに刀を突き差していた。
その刀はサティの脇腹を斜めに突き、刃先は身体を貫通して肩から飛び出していた。
「――ひぃ」
あまりにも凄惨な姿に、引き攣った声が漏れたのだと思った。
しかしそれは武蔵の背後から聞こえた。
武蔵の位置からもそれが見えていたということ、彼女の目にもそれは見えていたということだ。
「――サティ……?」
パールがサティのほうに手を伸ばす。まるで目の前の出来事が信じられず、触って確かめようとするような素振りだった。
しかしその手はサティに届くことはなく、サティがガシャガシャと金属音を立てながら崩れ落ちた。
血のようなどす黒いオイルが辺りに広がる。
「意外とあっけなかったわね。ご苦労様」
そんなサティを見下ろし、一緒に倒れ伏して今度こそ完全に沈黙したメイドに労いをかけながら、ウェーブが現れた。
「あら?」
ウェーブは武蔵を一瞥して、怪訝そうな声を上げる。
「貴方、どうしてここに? てっきりあの女が連れてったと思ってたのだけど」
あの女という言葉に和服姿の女性の姿が頭に浮かんだが、それも一瞬で掻き消えた。
今はサティのことのほうが気がかりだった。
俯せになったサティは一切動かない。
刀が突き刺さったままになっている部分からは止めどなくオイルが流れ出ている。
どう見ても無事ではないことしか窺えない。
「サティっ!! サティっ!! サティっ!!」
パールが倒れれたサティに飛びついて、必死になって呼びかける。
「ああ、パール、そんなに悲観しなくても大丈夫よ。今まで辛い思いをさせてしまったかもしれないけれど、お母さん、これからはずっと一緒にいてあげるからね」
「……どうして?」
「うん?」
「どうしていまさらお母さんなんて言うの!?」
「どういうこと? お母さんは、ずっとパールのお母さんだったじゃない」
「……ちがう。あんたなんかお母さんじゃない」
「……パール?」
武蔵には二人がどんな親子関係にあったかわからない。
ただその会話には、なにか決定的に噛み合っていないものを感じた。
母子の愛情のすれ違いなんて些細なものではなく、狂気染みた感情の齟齬。気持ち悪い感情の発露をウェーブからも、そしてパールからも感じた。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
――なんだこれ?
肌が粟立つ。寒気が止まらない。酸欠を起こしている。
嘔吐感が胃袋ではなく胸からやってくる。
口に手を突っ込まれて内臓を無理やり引っ張られているような不快感に武蔵は膝を崩す。
何かが起きている。でも何が起きているかわからない。
目に見えている変化は見つからないのに、身体だけが変調を来たしている。
パールがゆっくりと立ち上がる。
愛らしい顔は憎悪のそれに塗りたくり、母親を睨みつける。
「サティが、ずっと、わたしのお母さんだった」
「……パー、ル? 貴女、まさか……」
「あんたなんかっ、お母さんじゃない!!」
それと同時に武蔵も変調もピークに達する。
パールの叫びが耳を打つと同時に、武蔵は込み上げる吐き気を抑えることができずに激しく吐瀉する。
いや、吐瀉だけに収まらない。全身の穴という穴から何かが噴き出す感覚に襲われる。
身体を支えることができずに倒れ込み、全身がひきつけを起こす。
辺りでも異変が起き始める。
オオオオオォォォォォォォォ――
パールの叫びに反応するかのように、廊下の奥から獣のうねりのようなものが響いたか思うと、程なくしてゾンビの大群が猛スビートでやってきた。
今までの緩慢な動きとは打って変わって、それこそ突如として生き返ったのではないかと思えるほど俊敏さでウェーブ目掛けて突進してきた。
「パールっ!! どうしてっ!?」
ウェーブは先陣を切ってやってきたゾンビを一体、二体と袈裟斬りにして、
「止まりなさい!!」
続くゾンビに対して強い口調で言い放つ。
しかしその言葉を無視して、ゾンビ達は次々にウェーブに襲い掛かる。
「どうして――!? なっ!?」
再び出た疑問符はさらに押し寄せるゾンビの群れによってウェーブごと流されてしまう。
気付けば廊下にはどこからやってきたのかと思うほどの大量のゾンビで埋め尽くされていた。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
パールにもさらなる異変が起こる。
ゾンビが集まるごとに苦悶の声を上げていたパールのそれは、ここに至って金切り声に変わっていた。
目は血走り、肩口まで伸びた髪を振り乱す。明らかに苦しみ足掻く姿は誰が見ても悲惨さを感じずにいられない。
もっとも、それを見る者がいればであるが。
武蔵の痙攣はいよいよ危険水域に達し、それはまるで陸に上げられた魚のようであった。
意識を保っているのがもはや奇跡に近かったが、それは武蔵にとって不幸でしかなかった。
気が狂いそうなほどの嫌悪感。いっそ殺して欲しいとさえ願った。
しかし吐き気が、悪寒が、ありとあらゆる不快感が武蔵の意識を繋いでいた。
何かに縋りたくて、自由が利かない身体を圧して、必死に両手を伸ばす。
その腕を、誰かが掴んで引き寄せた。
白く霞む視界の先に、エプロンドレスが翻った。
「……サ、ティ?」
サティが懸命に武蔵の身体を引きずって歩く。
パールがいる部屋から、ゾンビで埋め尽くされた廊下へ。
パールが苦しそうにのた打ち回っているのが視界の隅に映る。
あのままにしておけないという気持ちが辛うじて、武蔵の腕を動かす。
パールになんとか手を差し出す。
しかしパールがそれに気付くこともなく、サティと武蔵はパールをその部屋に置き去りにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「そろそろ治りましたか?」
「ええ、まだ耳鳴りがひどいし、目の前がチカチカしてるけど、動くくらいならなんとかなるわ」
「それはよかったです」
ニコニコと本当によかったという表情を浮かべるサキに、カルナは恥辱心でいっぱいになる。
攻撃を仕掛けた相手に逆襲された上、助けられる。これほど屈辱的なことはない。
無駄死にのほうがまだいいくらいだった。
「本当にごめんなさいね。スタングレネードが飛んできたものだから、ついつい反射的に蹴り返してしまいました。わたくしってばはしたない」
「お願いだから黙ってもらえる? それ以上この話をされると、自分で自分を殺したくなるわ」
「あらあら、あまり気に病まないで下さい。人間、死にたくなるようなときもあるでしょうけれども、後で思い返せばそれもいい思い出だと思えるようになりますよ」
「……あんた、なんであたしのこと助けたわけ?」
「人を助けるのに理由が必要なのですか?」
「少なくとも敵を助けるのには理由が必要だと思うけど?」
「貴女とわたくしは敵同士なのですか?」
奥歯がギリギリと鳴った。
長年宿敵だと思っていた連中に全く相手にもされていなかった事実に、カルナは悔しさが込み上げきたのだ。
「……あんたたちは……あんたたちが、あたしたちから奪った人の数は、敵対するのに十分よ!」
「それに関しては言い訳のしようもありません。わたくしたちはいずれ償うべきでしょう」
「白々しい! だったらいますぐに消えてくれればいい!!」
「……そうですね……それができれば、こんなことをしなくて済むのですが……」
初めて言い淀み建物のほうを見つめるサキ。いや、それは建物を通り越して、どこか遠くを見ているようだった。どこか悩みを抱えているようだった。
カルナは戸惑わずにいられなかった。
仮にも敵のトップで、大勢の人が大勢の人を失った原因を作った張本人で、誰からも恨まれてしかるべき人物がそんな簡単に弱味を見せて欲しくなんてない。そんな人間らしいところを見せて欲しくなんてない。
彼女らはいつだって理解不能で、意味不明で、そして化け物だからこそ恨むべき対象だった。
それが彼女らも悩んだり悔んだりすると知ったら、もしかしたら分かり合えるんじゃないかなんて邪なことを考えてしまう。
それはカルナにとっては考えたくもないことで、だからカルナはそのとき感じた戸惑いを感じなかったことにした。
「死体の動きがおかしいですね」
サキの言葉に我に返り、建物を見た。
サキの言う通り遠目からでもそれはわかった。
今まで緩慢に歩くだけだった動く死体たちは、突如として建物の奥へと走り出していた。
普通の人間に戻ったとも言い難い。
カルナの目についた一体は、急激な動きに腐った身体が耐えられず、腕を一本置き忘れていた。それになんら気にした様子もなく、動く死体は一目散に建物の奥へと消えていった。
「……あれは、ウェーブさんの? でも、彼女はもう……だとすると……」
ぶつぶつとなにかを考えるように独り言を呟いていたサキは、なにかに辿り着いたように微笑んでカルナに向き直った。
「カルナさん、わたくしはこれで失礼させて頂きます。できれば貴女もここから立ち去ったほうがいいですよ。あそこは本当の意味で地獄になりました。生きている人間が踏み入れられるような場所ではありません」
「どういうことよ?」
「見ての通りですよ。死体が蠢くあの場所が地獄以外のなにに見えますか?」
やたら暴れ回る動く死体たちを、カルナは気分の悪くなる思いを抑えて直視する。
サティは「50体以上」と記述していたが、あちらこちらの廊下を犇めき合いながら、目に付く他の死体達を殴り、噛み付き、引き裂いているのを見るに、百体は優に超えているのではないかと思った。
「さっきまで、あんなんじゃなかったのに……」
「パールさんが地獄の蓋を開けたのでしょう」
「パールが?」
「それが彼女に与えられた加護です。知りませんでしたか?」
「黒呪術師――っ!」
曰く、彼らには決して近付いてはならない。彼らは疫病や災害を撒き散らす。悪霊を遣い人を呪う。魂を弄び、肉体は永遠の操り人形とする。
魔王に次いで、この国に生きる者なら誰もが忌避する者として知られている存在だ。
――それが、パール?
「彼女はまだ力の制御が出来ていません。あれだけの屍を使役しようとすれば、暴走するのは当たり前です。本来ならパールさんがああなるまえに、母親であるウェーブさんが抑えなくていけなかったのですが……彼女ももう亡くなってしまいました。パールさんを止められる人は誰もいません。きっと死ぬまで傍にある魂を吸い上げ続ける魔女となるでしょう。だから早く逃げたほうがいいですよ」
「ちょっと待ちなさい!」
疑問が頭を過り、早々に踵を返そうするサキにカルナは呼び止める。
「母親のウェーブなら抑えられるんでしょ。彼女あの中にいるんじゃないの? なんで死んだなんてわかるのよ?」
「わかるもなにも、彼女はもう一年も前に亡くなりました。他ならぬパールさんに殺されたのですよ」
「え?」
――パールが、母親を殺した? 一年も前に?
それは信じがたいと思う部分あり、しかしパールが黒呪術師と聞かされた今ならあり得なくもないと思う部分もあった。
ただそれ以上にサティとの話が噛み合わないことに違和感を感じた。
サティはウェーブの存在を最大限警戒していた。サティはウェーブが死んでいることを知らなかったということになる。もし仮にパールが母親を殺していたのであれば、サティが知らないなんてことがあるのだろうか?
「……武蔵くん?」
「えっ?」
不意にサキが呟いた言葉に思考を一時中断させられる。
サキは建物をほうを見て目を丸くしていた。
「驚きました。てっきりもう逃げ延びたか、そうでなければ死んでいるかと思ったのですが」
カルナは慌てて遠眼鏡を取り出して、建物の窓を一つずつ確認する。
――いた。
建物の最上階で、恐らく必死に逃げて来たのだろう、重い足取りで移動している彼の姿を捉えた。
背中にはエプロンドレスの女性を背負っていた。顔が見えなかったがサティで間違いないだろう。
なにがどうなってああなってしまったのかわからないが、だけど危機的状況であることは間違いない。
すぐに助けにいかなくては。
「待ちなさい」
思わず駆けだそうとするカルナに、今度はサキが呼び止めた。
まさか呼び止められると思わなかったので驚いてつんのめるカルナに対して、しかし呼び止めたサキは何事か言うか言うまいか悩んでいる様子だった。そして、
「……彼が、もし彼が“あの人”に出会ってしまったら、新しい災いの火種になります。それはわたくしたちにとっても、貴方方にとっもてです。ですから、厳重に保護しておくか、それができないようでしたら、ここで殺して下さい」
「……なにそれ? あんたにそんなこと言われる筋合いはないわ」
「そう……ですね。確かに、これはわたくしの問題ですものね」
サキは不安そうに服の裾を握っていた。
魔王の嫁と呼ばれる人物のあまりにも脆そうな一面に、カルナは一度押し隠した戸惑いがぶり返すのを感じた。
最早これ以上の会話をするつもりなく、サキを置いて、急いで武蔵たちの元へと走り出した。
それはある意味、逃げるようでもあった。




