「それはともかく、ちょっと聞いてくださいよー」
食堂に入ると、店の親父が厨房から顔を覗かせた。しかし見慣れない顔の人間が戸口のところに立っているのを確認し、一瞬奇妙な表情になった。それには構わず、ハルトは親父に声を掛ける。
「電話機を貸して欲しいんだが。金はちゃんと払う」
親父は慌てて頷いた。とっさに言葉が出てこないのだろうか、口は半開きのまま、何も言わずに店の奥を指差した。ハルトは示された先へと向かう。
食堂の中に人はまばらだった。しかしもうすぐ夕飯時だ。あと三十分ほどもすれば客でごった返すのだろう。
ここは軍事施設にあるような大食堂ではない。席数も十あるかないか位の小規模経営だ。しかしその分、内装や調度品、献立の表示などに親父のこだわりが見られた。
骨董風の座席の間を縫い、ハルトは電話機のある場所に辿り着く。
電話機の隣には大きな衝立があり、他の客からはこちらが見えないようになっていた。
らっぱ型の受話器を持ち上げて耳元に当てると、女性の電話交換手の声が聞こえた。ハルトは壁に備えられた送話器に向かって連絡先を告げる。
「第十三地区の、欧州陸軍地方司令部を頼む」
『少々お待ちください』
言葉遣いのわりには無愛想な声による対応の後、呼び出し音が流れた。
ほどなくして電話に出たのは、若い男の声。そこが第十三地区地方司令部であることを、機械的な口調でハルトに告げる。ハルトは用件のみを手短に伝えた。
「こちら、欧州陸軍第六地区所属、ハルト・シュタイナー少佐だ。ジョージ・ハラルドという男が、そこに配属されているはずだ。至急、呼び出してくれ」
その言葉に、相手は少し戸惑ったようだった。第六地区の少佐がわざわざ通常の電話回線を使用するなど、例を見ないことだ。しかし繋げと言われれば、繋がないわけにはいかない。
『ジョージ・ハラルドですね? 分かりました。少々お時間をいただく事になるかもしれませんが……』
「構わない」
受話器の向こうで、ツ、ツ、ツ、という単調な保留音が流れ始める。ハルトは受話器を電話台の上に置くと、自らの懐に手を伸ばした。煙草を取り出して口に銜え、火を点ける。一瞬だけ、ロウの「親切な」忠告が脳裏をよぎったが、敢えて無視した。ゆっくりと煙を吐き出しながら、ハラルドが出てくるのを待った。
ハラルドはハルトの元部下である。少佐ともなれば部下の数も並ではないが、ハルトにとってハラルドは、その中でも忘れがたい存在だ。
煙草の先端が五分の一ほど灰になったところで、受話器が音を立てた。がたっという、向こうで受話器を持ち上げた音、続いて、鼻にかかったような若い男の声が聞こえた。
『ただいま代わりました、ジョージ・ハラルド少尉です』
懐かしい声に、ハルトは思わず苦笑する。いつの間に少尉にまで昇格したのだろうか。二年前、ハルトの指揮下で動いていたときのハラルドはまだ上等兵だったのに。早いものである。
電話台の隣にあった灰皿で火をもみ消すと、ハルトも受話器を手にした。
「よぉ、ハラルド。オレだ、ハルト・シュタイナーだ」
『た……じゃなかった、シュタイナー少佐。お久しぶりッスねぇ。シュタイナーって人から電話だって聞いて、まさかとは思ったんスけど……。いやぁ、お互い、生きて終戦を迎えることができたみたいッスねぇ。死に損ないってやつ?』
相変わらず口が達者な男である。彼がにやにや笑いながらこちらの反応を窺っているのが、容易に想像できた。張り詰め続けていたハルトの神経が、少しだけほころぶ。ハラルドは更に自分のペースで話を続け、早速ぶつぶつと愚痴をこぼし始めた。文句を垂れるのはこの男の十八番だ。
『それはともかく、ちょっと聞いてくださいよー。十三地区の上官、ノリ悪いんッスよ! こないだなんか、上官の煙草にちょっとイタズラしただけで減給されたんッスよー。減給ッスよ、減給! 信じられます!?』
「一体どんなイタズラしたんだよ」
『こう……煙草の葉を全部こそぎ出して、代わりにティッシュを詰めてやっただけッス。すごいんッスよ、あれ。火を点けた途端、燃える燃える!』
「お前なぁ……。それ、オレでも張り倒してるぞ」
呆れ顔で呟くハルトに、ハラルドはすっとんきょうな声を上げる。
『えぇっ! まじッスか!? だって隊長、昔オレが隊長の煙草の箱にシガレットチョコを入れた時、大笑いしてくれたじゃないッスかー』
「度合いが全然違うだろ」
昔からハラルドは、ハルトのことを「隊長」と呼ぶ。当時ハルトが、彼らをまとめる小隊長を務めていたことに起因する。あれから二年が経ち、部隊編成を経てお互い行動を共にすることはなくなったが、ハラルドにとってハルトは、今でも「隊長」なのだろう。
昔の教え子と再会した教師というのは、こんな気持ちなのだろうか。二つしか歳の変わらない部下が、やけにかわいい存在に思えてくるから不思議だ。ハルトは無意識のうちに笑みをこぼした。しかしすぐに表情を改めると、まだ上官への悪態を吐つき続けるハラルドを制する。今日は世間話をするために電話をしたのではない。
「わかったわかった、お前の愚痴なら今度聞いてやる。本題に入らせてくれ」
その言葉に、ハラルドは不承不承、了解の意を示した。
「今日は、お前に頼みがあって連絡したんだ。お前、今は十三地区の所属になってるよな? 十三地区の、どこ担当だ?」
『どこって、首都周辺地域担当ッスけど』
「南部地域担当に、誰か知り合いはいるか? いたら、そいつを派遣して欲しい」
『南部地域ねぇ。いるにはいますけど、これまたどうして? 何かあったんッスか?』
「十三地区南部で一つの村が――恐らくはゲリラ集団に、襲撃された。犠牲者の数も多く、村そのものも焼け落ちている。山火事にならなかったのが不思議なくらいに、焼失規模は大きい」
電話回線の向こうで、ハラルドが息を呑むのが分かった。さすがに冗談で返してはこない。一変して口調が神妙になる。
『ゲリラってことは、民間人の仕業ですよね。戦争は終わったっていうのに、何てことしやがるんだ……ったく。で、生存者の数は? その人達、ちゃんと保護されたんッスか?』
「ああ。そのことについては心配ない。ちなみに生存者は、一人だけだ」
『一人!? 何なんッスか、それ! えらく徹底した襲撃の仕方ですね』
「どうも、村同士の確執が原因らしい。一応は地元の人間が問題を処理するつもりのようだが、どうも心許ない。それに襲撃を行った連中は、銃の横流しにも携わっている可能性がある。こればかりは地元の自警団にも手に負えないだろう。オレ自身、襲撃の背景について知りたいこともあるし、その方面について詳しい人間を派遣してくれ」
『なるほどね。状況は大体分かりました。隊長のご希望に添えそうな奴、心当たりあるんで、そいつに頼んでみるッス。もしそいつが無理なら、他の人間に掛け合ってみるし』
「ああ、頼む」
口調こそ軽いものの、ハラルドという男は非常に有能な部下だ。やると言ったことは必ず実行するし、適材の人物を寄越すと言えば必ずやその通りにしてくれるはずだ。
『えぇと、それで、そいつにはどこに行ってもらえばいいんッスか?』
問われ、ハルトはウラカという町の名称、その南部区域にある香辛料店のこと、そしてミトの名前を告げた。
「とりあえずその店に来てもらえればいい。後のことは、オレからそいつに直接説明するから」
『えぇっ!?』
「その方が話を進めやすいだろう」
『いや、そういうことを言ってるんじゃなくて…。ひょっとして隊長、今、十三地区にいるんッスか?』
ハラルドの困惑声に、ハルトはそうだと答えた。
『え、隊長の所属は第六地区でしょ!? なんで十三地区にいるんッスか? ってゆーか、そもそも何で隊長が、十三地区の襲撃事件に携わってるんッスか?』
「まぁ、色々と事情があってな。その辺のことも、今度また話す。それと、調べたいことがあるから、近いうちに首都に向かうつもりだ。オレが動きやすいようにしておいてくれ」
『はぁ!?』
ハルトが一方的に話を進めるので、ハラルドはますます混乱する。しかしやがて、受話器の向こうから呆れたような溜息が聞こえた。
『何だかよく分かんないけど、仰せの通りにいたします。とりあえず近日中に、首都まで来るってことッスよね。それまでには最っ高の食材を集め、最っ高の特製フルコースディナーをご用意して、少佐のお越しをお待ちしておりますよ』
ハラルドの物言いに、ハルトはくつくつと笑う。
「期待してるぞ、ハラルド少尉。襲撃事件についても、迅速な派遣を心掛けてくれ」
『任せてくださいよ。明日か明後日には誰か寄越します』
「頼む。じゃあ、また近いうちに」
『一年半ぶりの再会、楽しみにしてるッス』
受話器の向こうで再びハラルドがにやにやと笑っているのが分かった。ハルトも軽く笑うと、またな、と言って受話器を壁の鉤に戻した。
その瞬間、ハラルドとハルトを繋いでいた空間は途切れる。ハルトは自分がウラカの食堂にいたことを思い出す。店内には、ぽつぽつと客の姿が見え始めていた。窓の外も闇が降りつつある。
もういい加減、デュカスも目を覚ましているだろう。そろそろ帰るべきか。
逡巡したが、結局ハルトは食堂の座席に座った。調理場の親父に、一杯注文する。何となく、このままあの家に帰るのが億劫だった。ここで時間を潰してからでも遅くはないだろう。
懐から煙草を取り出すと、火を点ける。大きな溜息とともに、ハルトはゆっくりと煙を吐き出した。