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第7話 盗まれた名前

垂直移動路のエレベーターは止まっていたが、ケーブルは動いていた。


断電派の連絡員三人が、エレベーターの屋根へ整備用昇降機を固定している。腰には盗まれた物理キーが下がっていた。赤い位置灯が闇を切り裂き、上方へ遠ざかる。


玲華は反対側のケーブルへ磁気リングを掛けた。


「昇降機の速度、秒速六メートル」


黒鉄が計算した。


「整備梯子では追いつけない」


「向こうの釣合い重りを使う」


玲華は停止したエレベーター脇の手動ブレーキを指した。ブレーキを外せば、釣合い重りが落下して反対側の点検足場を引き上げる。速度を制御できなければ、天井の緩衝器へ激突する。


「制動回路は死んでいる」


「あなたの腕でケーブルの摩擦を抑えて」


黒鉄はイリジウムの掌を見た。外装にはチタン扉を押した時の長い傷が残っている。


「許容荷重を超えると言わなかったか」


「交換可能な部品なんでしょう」


黒鉄はそれ以上問わず、足場へ乗った。玲華が手動ブレーキの安全ピンを抜く。


釣合い重りが落下した。


点検足場が上へ跳ねた。急加速が玲華の膝を押し潰す。黒鉄は片手で手すりを掴み、イリジウムの手で流れるケーブルを包んだ。金属の摩擦音と共に、速度がわずかに落ちる。


上方の連絡員が二人を見つけた。一人がケーブル切断器を取り出す。


「上から三本目の固定線」


玲華が銃を上げた。揺れる足場の上で銀眼が弾道を計算する。切断器がケーブルへ触れる前に、玲華はその柄を撃ち抜いた。工具が闇の底へ落ちていく。


別の連絡員が小さな筒を投げた。黒鉄がイリジウムの腕で弾く。筒は壁に当たり、磁性粉を撒き散らした。玲華のグローブと足場のリングが、一瞬で壁側へ引かれる。


「吸着攪乱剤」


黒鉄が玲華の安全索を掴んだ。足場が斜めに傾く。


玲華はグローブの電源を切り、身体を回転させた。磁力を失った手で近くの整備梯子を掴む。黒鉄も足場を捨て、同じ梯子へ移った。


点検足場は速度を失わないまま上へ飛び、天井の緩衝器へ衝突した。金属片が雨のように降り注ぐ。


断電派の昇降機は二区間上で止まった。連絡員たちが水平通路へ飛び込む。


玲華は梯子を上った。


「キーはまだ三人目が持っている」


加速の反動で右膝が痺れ、首の後ろの端子から新しい血が滲んだ。黒鉄の左腕も摩擦熱で赤く焼けている。互いの損傷を確認しても、止まろうとは言わなかった。キーを逃せば、下でようやく回復させた換気も長くは保たない。


「逃走路は一つだ」


黒鉄が後を追った。


坂本の声が回線へ入る。


「一つじゃない。その階は旧配給台帳室につながっています。図面から消された扉が、もう一つある」


「なぜ分かる?」


「消されたものは専門ですから」


玲華は通路の縁を掴み、身体を引き上げた。前方で紙束が舞っている。電子台帳ではない。印刷された名前の一覧だった。連絡員たちは逃げながらも、紙を捨てまいと拾い集めていた。


彼らが守っているのは、キーだけではなかった。


坂本は、台帳から削除された部分より、残された部分の方が異様だと考えた。


下層工房の画面には数千人分の住民記録が並んでいた。断電派の侵入後、寄与債務の数値はきれいに消えている。移送承認印も消えた。だが名前、生年月日、家族関係は別ファイルへ複製されていた。


破壊だけが目的なら、すべて消す方が速い。


「点数を消して、人間を残す」


坂本が呟いた。


無骨な左手がキーボードの上で痙攣した。神経接続を下げても、耳の後ろには白色雑音が残っている。義手の手首を開き、過熱した配線を一本抜いた。感覚フィードバックが弱まる代わりに、二本の小指が動かなくなった。


台帳には移送待ちが三百十二人いた。行き先は全員が矯正労働区だが、配属区画は空欄だった。公式網では正常な人員移動として処理されている。原本を復旧するほど、不自然な空欄が増えた。


坂本は過去の失踪届網を重ねた。フィルターが小さな差を雑音としてまとめようとする。若い頃、通信量を節約するため自分で作った方式だった。些細な損失を平均値の下へ押し込むコード。


彼はフィルターを切った。


移送後に住所が途切れた名前が、画面へ溢れ出した。


「くそっ」


別の動力設備や秘密収容区画を示す痕跡はない。死亡届もない。人間は行政上移動したが、新しい区画には到着していなかった。断電派が探しているのも、その空白区間らしい。


その時、別の侵入信号が監視網をかすめた。保安隊の追跡プログラムだ。黒鉄が不法接続元を逆算している。


坂本は即座に経路を三つへ分けた。一つは排水ポンプ、もう一つは空の広告板、最後は壊れた葬送記録サーバーへ送る。


黒鉄の声が開放回線から入った。


「坂本。回避を続けるほど、強制遮断の可能性が上がる」


「遮断すれば、台帳原本も一緒に飛びます」


「だからまだ放置している」


「お慈悲ですか」


「損失計算だ」


坂本は鼻で笑った。


「その計算表に、移送後に消えた三百十二人も入っていますか?」


沈黙が返った。


玲華が先に尋ねた。


「消えたという根拠は?」


「新住所なし。死亡届なし。配給記録なし。移送承認だけがあって、到着記録がない」


「断電派が隠した可能性は?」


「ある。管理組織が空欄を作った可能性もある。だから原本が要るんです」


坂本は断電派が複製した名前一覧の転送経路を捉えた。信号は旧配給台帳室の下、公式地図にない狭い保管庫へ向かっている。


彼は座標を玲華へ送った。


「連絡員が持っている紙は、移送者の索引です。捕まえられるなら紙から確保して。電子資料は、また誰かが消すかもしれない」


「人が先よ」


「分かってる。だから紙と言った。腕を切り落とせとは言ってません」


回線が切れた後、坂本は画面上の名前を見つめた。三百十二行の中に、知っている名前が二つあった。


どちらも整備事故の後、二度と工房へ戻らなかった者だった。


水平通路の終端で、連絡員の一人が遅れた。


紙の名簿を懐へ入れ、崩れた手すりを跳び越える。反対側の足場までは三メートル。最初の一歩は届いたが、錆びた固定軸が体重に耐えられなかった。


足場が下へ折れた。


玲華は射撃姿勢を解いて走った。連絡員は片手でケーブルを掴み、宙にぶら下がっている。もう片方の手には物理キーがあった。上方の仲間が戻って手を伸ばしたが、距離が届かない。


「キーを投げろ!」


仲間が叫んだ。


連絡員が腕を上げる。今その手首を撃てば、キーを確保できる。だが衝撃で男がケーブルを放す可能性が高かった。


その下には、下層の非常灯すら見えない。


玲華は拳銃を収め、床へ伏せた。


「右手を出して」


連絡員が仮面越しに睨みつける。


「助けたら逮捕するんだろ」


「生きていれば」


「脅しか?」


「順番よ」


ケーブルが一本ずつ切れていく。男は一瞬ためらい、キーを口へくわえて右手を伸ばした。玲華が手首を掴んだ瞬間、体重が肩を引き抜こうとした。


黒鉄が背後から玲華の腰の安全索を握った。イリジウムの腕が手すりの支柱へ巻きつく。


「引け」


二人で連絡員を引き上げた。男が足場へ倒れ込んだ瞬間、上方の仲間が小さなナイフを投げた。刃が物理キーの吊り紐を切る。キーは床を滑り、排水溝の隙間へ落ちた。


玲華が手を伸ばしたが届かない。赤い位置灯が下の闇へ消えた。


連絡員はその隙を逃さなかった。ポケットから灰色の粉を撒き、脇の通路へ転がり込む。黒鉄は銃を上げたが、射線上に玲華がいた。煙が晴れた時、男は姿を消していた。


床には、懐から抜け落ちた紙が一枚だけ残っていた。


黒鉄が玲華の手首を調べた。連絡員の体重を支えた部分に、赤い痣が急速に広がっている。


「骨折の可能性」


「指は動く」


玲華は五本の指を一度握り、開いた。痛みはあるが機能は残っている。医療支援要請を拒まず、優先順位を下げて登録した。自分の身体の損傷も原本から除かないという条件に含まれていた。


玲華は紙を広げた。十二人の名前と移送日が記されている。住所の横には短い手書きの印があった。


確保。治療必要。子供同伴。拒否。


名簿の末尾には南結衣と、その母親の名前もあった。二人の横には『確保』と記されている。


黒鉄が紙を読んだ。


「人間を分類する方式が違うだけだ」


「少なくとも点数はない」


「本人の同意も確認できない」


玲華は紙を証拠袋へ入れた。二人の言葉は、どちらも正しかった。


回線から坂本が尋ねた。


「キー、逃しましたね?」


「連絡員を生かした」


「分かってます。位置信号は落下中に消え、生体信号は脇の通路へ移ったから」


「責めたいなら責めて」


「いいえ。紙は?」


「十二人」


坂本のキーを叩く音が再び速くなった。


「それで十分です。名前を照合すれば次の目的地を探せる」


玲華は連絡員が消えた通路を見た。助けた人間は逃げ、捕らえるべきキーは失った。それでも、台帳から消されかけた十二人の名前は手元に残った。


玲華はその結果を失敗とは呼ばなかった。


紙の名簿にある住所は、すべて第六下層エレベーター周辺へ集中していた。


桐生は地図を確認するとすぐに言った。


「六基のエレベーターをすべて封鎖すれば、連絡員を閉じ込められます」


黒鉄が予想人数を表示した。エレベーター区画に残る住民は四百人余り。封鎖の影響は大きいが、断電派が上層の台帳サーバーへ移動することは防げる。


「全面封鎖」


黒鉄が決定した。


玲華は地図を拡大した。


「第六下層で換気可能な避難路は、エレベーター通路だけよ」


「整備階段がある」


「三年前の火災後に閉鎖された。今、四百人を階段へ押し込めば、圧死の危険が高い」


「封鎖しなければ、断電派が物理キーで中継層を開く」


「区画を分けて。人を先に二層下へ移し、空いたエレベーターから施錠する」


桐生が計算した。


「最低15分必要です」


黒鉄は首を振った。


「キー信号は9分後に中継層へ到達する」


「8分でやる」


玲華の言葉に桐生が彼女を見た。


「四百人です」


「エレベーターは動かさない。各層の乗り場にいる人だけ、防火扉の外へ出す。移動は水平方向」


黒鉄が指で地図をなぞった。


「7分目から残った扉を閉じる」


「8分」


「その差が人を救う根拠は?」


「第六下層の高齢者居住棟から防火扉まで、平均移動時間は7分20秒。最後の一人を確認するのに40秒」


玲華の銀眼に、農業区の調査で得た避難資料が浮かんだ。要約版には平均5分と記されていたが、実際の歩行記録は違った。


黒鉄が桐生へ言った。


「8分後に全面封鎖。遅延責任は私の名で残せ」


玲華が付け加えた。


「7分30秒で残る人数を報告して。数だけでなく位置も」


命令が下ると、停止した乗り場に住民の足音が広がった。保安隊は銃ではなく、懐中電灯と誘導棒を持った。桐生は自ら最も遠い居住棟へ走る。


黒鉄と玲華は中央制御盤の前に残った。封鎖ボタンの脇で時間が減っていく。


「お前の計算が誤っていれば、キーを逃す」


黒鉄が言った。


「あなたの計算が誤っていれば、人を閉じ込める」


「だから時間を決めた」


「だから最後まで数えるのよ」


6分が過ぎた時、最初の報告が入った。北側乗り場、無人。西側、二十三人移動中。南側診療所で患者搬送に遅延。


7分30秒。


桐生の息を切らした声が聞こえた。


「診療所前に六人。酸素装置のため速度が上がりません」


黒鉄の手が封鎖盤の上で止まった。


玲華は画面上の点を見た。六つの点が防火扉へ向かって動いている。


15秒。


最後の点が扉を越えた。


「封鎖」


玲華が言った。


黒鉄がボタンを押す。六基のエレベーターの防火扉が同時に閉まった。同じ瞬間、物理キー信号が直上の中継層で停止した。断電派の連絡員はエレベーターの外へ出られなかった。


8分は人を救い、道も塞いだ。


だが南側診療所の補助電力値が、突然半分へ落ちた。


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