第29話 人がいるだけで
二回目の試験では、人を作業線の外へ出し、機械だけを動かした。空の運搬ベルトへ標準重量の金属箱を載せ、ロボットアームに通常の作業動作を繰り返させる。
騒音と振動は、実際の交代より大きかった。壁面振動回収装置の出力も正常に上がる。だが問題の灰色の残差は、ほとんど動かなかった。むしろロボットアームの消費電力で、純出力が少し下がった。
「機械運動仮説を除外」
美緒が言った。
坂本が画面を指した。
「熱は? 人間が十人消えただろ」
美緒は温風機を入れ、作業線の温度を前回の試験と同じに合わせた。温度センサーが同じ値を示しても、残差は戻らない。
「単純な室温も除外」
玲華は空の作業場を歩いた。工具、ベルト、壁面の全装置は正常に動いている。それなのに、出力一つだけが空いている。銀眼の電力視野では、床下のごく弱い流れが途切れていた。
「人を一人だけ入れてみよう」
坂本が言った。
「実験設計から承認を取り直して」
「俺が入る」
坂本はすでに表示線の内側へ歩いていた。美緒は機械をすべて停止し、安全ロックを掛ける。坂本は歩かず、中央へ立っているだけだった。灰色の残差に変化はない。
「手を動かして」
美緒が言った。
坂本は工具を持ち、ボルトを締める動きを繰り返した。古い左腕のモーターが鳴り、呼吸が速くなる。数秒後、残差がごく僅かに上がった。
「義手から電力が漏れたのかも」
玲華が即座に言った。
坂本は義手の電源を切り、右手だけで同じ動作をした。数値はさらに小さいが、それでも反応する。止まると下がった。
黒鉄が現場へ入ってきた。試験が承認範囲を越えたという報告を受けていた。
「即興実験を中止しろ」
坂本は表示線の外へ出た。
「機械じゃなく、人が動くと上がります」
「一人の微細な変化で結論を出すな」
「なら何人必要だ? 十人? 百人? 下層全部か?」
黒鉄の視線が冷たくなる。玲華が二人の間へ入った。
「次は非作業空間を見る。人が動かなくても反応するか」
美緒は作業線の残差記録を三か所へ保存した。機械が作った振動と熱を除いても残った小さな変化。証拠と呼ぶには足りないが、偶然として捨てるには繰り返されていた。
坂本は表示線の外へ出た後も、左肩の震えが長く止まらなかった。義手の電源を入れ直すのに三度失敗した。微細出力一つを確かめるため、自分の神経を使った代価は画面へ記録されない。玲華は医療状態も試験原本へ含めた。
坂本の自発的参加も別の印で残した。承認範囲を外れた試験が有効な証拠として誇張されないよう、手続き上の欠陥まで原本へ入れた。
次の試験場所には、機械がほとんどない避難所が選ばれた。人がいるだけで同じ反応が生まれるのか。確かめる番だった。
非作業空間として選ばれたのは、停電時に使われた第44避難所だった。昼間は空いており、夜の交代前には住民百人ほどが休憩する。機械設備は換気と照明だけだった。
美緒が壁面回収線を独立計測器へつないだ。避難所が空の間、灰色の残差はほぼゼロ。人が入り始めると、室温より先に微細出力が上昇した。
「温度上昇は、まだ〇・一度です」
美緒が言った。
人々は座って食事を取り、濡れた作業服を乾かし、互いの負傷を確かめた。激しい運動はない。それでも人数が増えるたび、出力は階段状に高くなった。
玲華は銀眼で壁を走査した。一般断熱材の内側へ、髪より細い金属繊維が密に敷かれている。公開図面には「環境回収網」とだけ表示された層だった。
「廃熱回収装置では?」
黒鉄が訊いた。
美緒は壁表面と室内空気の温度差を計算した。
「一部はそうです。ただし現在の出力の半分しか説明できません」
坂本は床近くへ携帯センサーを当てた。人が座る場所の周囲で、弱い振動と電位変化が同時に検出される。心拍や筋肉運動のような小さな信号だった。壁面繊維はそれを一つずつ集め、補助経路へ送っていた。
避難所住民の一人が、計測機器を見て訊いた。
「暖房の故障ですか?」
玲華は隠さず答えた。
「壁がどんなエネルギーを回収しているか、確認中です。今のところ危険を示す証拠はありません」
「私たちの体温も持っていくんですか?」
「生活廃熱を再利用する設備は、すべての階層にあります」
答えは事実だった。上層の空調も、人と機材が生んだ熱を回収する。問題は、下層壁面の回収密度が三倍以上高く、公開図面より多くの層を持つことだった。
住民は不安そうにしながらも、その場を離れなかった。外はもっと寒く、次の交代まで休める場所もここしかない。調査へ同意するかと訊いても、現実の選択にはならない。
玲華は追加センサーの装着を止め、既存の環境数値だけを受け取った。身体へ装置を貼らなくても、壁がすでにあらゆる変化を読んでいる。
一人の老人が眠ると、その周囲の微細出力が下がった。隣の人が毛布を掛けようと動くと、また少し上がる。
美緒は数値を見て言った。
「環境回収網は、生活熱より多くのものを受け取っています」
比較のため上層避難室の図面を開くと、環境回収網の密度は下層の三分の一だった。上層にも廃熱と振動の回収装置はあるが、銀色誘導層の表示がない。建築時期の違いか、階層別設計なのか。確認するには実際の壁を開ける必要があった。
玲華は避難所の使用を止めなかった。現時点で危険が確認されていないのに休憩場所を奪えば、調査自体が新たな負担になるからだ。
何を、どれほど受け取るのかはまだわからない。だが下層の壁は、人間の存在を単なる温度以上の電力値へ変えていた。
玲華は、人間へ新しい装置をつけないとは言った。だが自分の身体まで除外するとは言っていない。
避難所が空になると、玲華は壁の前へ立った。美緒には心拍と筋活動だけを測定させ、管理者端子は接続しなかった。
「歩くところから始めて」
玲華が言った。
美緒は試験記録を開きながらも、同意していない顔だった。
「神経炎症が残っています。医療承認なしに負荷を上げた場合、中止します」
玲華がゆっくり避難所を往復すると、灰色の残差が僅かに上昇した。止まると約2秒遅れて下がる。腕を上げて反復動作をすると、反応幅が大きくなった。心拍と筋活動のどちらを追っているのかは、区別できない。
坂本は義手の電源を完全に切り、比較センサーを見た。
「壁が、人間一人の動きまで拾い食いしてる」
「表現を正確に」
美緒が言った。
「微細エネルギーを回収しています」
玲華は次にシナプスグローブを入れた。外部装置へは接続せず、指の神経補助だけを作動させる。グローブが微細な誘導信号を送ると、構造バッテリーの残差が短く跳ねた。
「もう一度」
玲華が言った。
二度目の信号でも、同じ反応が出た。心拍も体温もほとんど変化していない。
黒鉄が扉を開けて入ってきた。玲華の手のグローブから切り、電源モジュールを抜き取る。
「試験終了だ」
「二回、同じ値が出た」
「お前の神経機器と管理者規格が、壁面へ干渉した可能性がある」
「だから、もっと確かめなきゃ」
「証拠を得るために自分の身体を計測機器として使うのは、確認ではなく汚染だ」
玲華は電源モジュールを取り戻そうとしたが、黒鉄のイリジウムの手は動かなかった。三年前の現場で、玲華が倒れるまで管理者端子を放さなかった記憶を、二人とも持っている。
「他の人にやらせたわけじゃない」
「それで許可になるわけではない。自分が選びさえすれば全部問題ないと思う癖から直せ」
坂本が珍しく黒鉄の側についた。
「今度は、そいつが正しい。原本はもう取った」
玲華は二人を交互に見た。自分が止めると決めるより前に、仲間たちが試験を終わらせた。不愉快だった。だが他人の選択を代行することの問題を語ってきたのは、玲華自身だった。
美緒は残差とグローブ信号の時間差を保存した。
「神経誘導と構造バッテリーの間に相関の可能性。因果は未確定」
試験後、玲華の左視野には残像が残り、指先の感覚が一時的に遅れた。医療数値では軽微な反応だったが、華蓮の患者記録にある症状と方向は同じだ。玲華はその類似性も別項目へ残し、自ら診断を受けた。
試験を中止した時刻も、自分が同意を撤回したものとして記録した。仲間に止められた事実だけを残せば、次は最後まで耐えられるという解釈を許すかもしれない。
画面には人間の心拍、筋肉、神経補助信号が、電力曲線と並んだ。玲華はそれ以上試さず、不完全な証拠を受け入れた。
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