6_8 歎願
誰がこの少年に、寒村の窮状など訴えたのか。
まさかベリルや大公夫人であるまい。
ましてや自分の目でオズエンデンドの住民の生活を見てきたなどありえるはずもない。
私が思わず椅子から腰を浮かせてしまったのを見て、マダマさまは少し迷ってから答えた。
「本人たちからです」
「……本人?」
マダマさまはベッドの縁から降りると、自分の机に近づいた。
小さな鍵を取り出して引き出しを開ける。
中からでてきたのは紙の束だった。
大きさも色も不揃いで、王族が使うような高級紙とはまるで似ても似つかない安価で粗雑なものばかりだ。
「……もしかしてそれ、手紙?」
「昨日まとめて届きました」
「だ、誰から……?」
聞くまでもないことを私は口にしてしまった。
「現地で何年も救貧活動をしている司祭様が、手紙をまとめて嘆願書と一緒に送ってくださったんです」
マダマさまは50通近くはある手紙の束を小さな手で抱えると、私に手渡してきた。
慌ててざっと目を通す。
中身は筆跡も文字の大きさも、使っているインクまで全てばらばらだった。
中には紙が用意できなかったのか、鹿か何かの革に直接書いたものまであった。
『します、歓迎』
『公爵領になって嬉しい』
『心待ちにして、来てくれる日を楽しみにしている』
『こうしゃくさま、ばんざい』
まともな教育を受けていないのか文字はへたくそで、単語は間違いだらけ。
文法も怪しいものばかり。
もちろん書式や装丁のルールなど守っているはずもない。
なのに妙に引き寄せられる、無視することを許さない力があった。
なまの人間の感情が書きつけられたものの迫力とでもいうのだろうか。
「これ、まさか全部オズエンデンドから……?」
「はい」
「か、官報で告示されてからたったの10日でしょう? 郵送にかかる時間を考えると、ずいぶんたくさんの人が慌てて書いて送ってきたのね……」
「違います。全住民の中で字を書ける人間がこれだけしかいないんです」
絶句する私に、マダマさまは最後の一通の手紙を差し出してきた。
今度も同じように安い紙を使っていたが、流麗な大人の字だった。
書式も守りつつ、紙の中にびっしりと細かく文字が詰まっている。
「司祭さまの嘆願書です。全部ボクが知らないことでした」
中に何が書かれているかは、マダマの痛切な表情で察せられた。
「オズエンデンドの領民は王国で一番ひどい生活をしているって」
「……」
「今の住民の中で少なくない割合の人は、刑期を終えても他に行くあてのない人だったり、その子孫たちだったり、そのせいで周囲の領邦からも差別されているんだそうです」
現代日本とは違うのだ。
監獄を出ても移動して暮らしぶりを立てる自信のない人間はその地でなんとか生きる術を見つける他ない。
そんな当たり前のことにも気付かなかった。
「みんな刑務所しか知らないから、領民の生活に援助するどころか誰も知ろうとはしないって苦境が書いてありました」
「……それが理由?」
マダマさまは小さくうなずいた。
「ひ、人助けのためだけに、国中で一番貧しくて何もないところに行くの?」
「はい」
気取りも、照れも、自己演出もなく、素直にマダマさまはうなずいた。
なんて純真で邪念のない、そして幼稚な願いだろう。
そんな食うや食わずの生活をしている人間たちの中に、12歳の子供が行って何ができるというのだ。
借り暮らしで財産を持っている訳でもない。
産業や事業を起こせる人間とコネがあるわけでもない。
数年もしないうちに現実に打ちのめされ、目の前で救えなかった人間の姿に絶望し、心はくず折れてしまうことだろう。
私にはそれがはっきりと分かった。
いや、数年もいらないだろう。
そんな貧しい領民たちから得られる税収などスズメの涙に違いない。
領主とは名ばかりの極寒の過酷な生活に、目の前の華奢な少年が耐えられる体力を備えているとはどうしても思えなかった。
病にかかって倒れるのがオチだ。
目で伝わってしまったらしい。
マダマさまは強がるでもなく、ぼそりと言った。
「分かってます。ボクが行っても、多分大したことはろくにできません」
「じゃあ、何故!?」
「何もできないかもしれないけれど、ボクが行くだけで何かになるんなら行ってあげたいんです」
頬も耳も赤く染めながら、マダマさまは熱を込めて言った。
「レセディがボクを助けてくれたみたいに」
「わ、私?」
「レセディみたいに、困っている人のために損得抜きで尽くせる人になりたいから……」
途切れ途切れに喋る少年を前にして、羞恥で首筋を焼かれる思いがした。
違う、勘違いだ。
私は見ず知らずの人間から手紙が届いただけで、身一つで飛び込めるほど殊勝な人間ではない。
マダマさまを助けるために骨を折ったのは、それまでに好感を持って見捨てるにしのびなかっただけなのだ。
(言わなきゃ、勘違いだって……)
だが結局、訂正の言葉は私の口からは出なかった。
この薄幸な少年の中にわずかにでもすがれる信念が芽生えたのなら、それを潰してしまうのは忍びない気がした。
「……本当に良いの?」
代わりに出てきたのは、自分でも意外なくらい力のない問いかけだった。
「後ろめたい気持ちとか、後悔はない? 少しも?」
暗い感情や打算を持った人間が救いに来ても、住民は不幸になるだけだろう。
子供にするのには辛い問いかけかもしれないが、確かめておかねばならない。
「……後ろめたい気持ちなら、あります」
長いまつ毛の生えた目を伏せながら、マダマさまは言った。
「なに?」
「レセディに恩返しでしてあげられることが、僕に残ってないことです」
衝動的に出かかった言葉を、辛うじて両手で口元を押さえて止めた。
『自分に恩を感じるのなら、雪と氷で閉ざされた僻地へ行くのを止めてくれ』
そう言えばこの義理堅い少年は、きっと悩みながらも応じてくれるだろう。
そしてわずかな領民を救わなかったと悔やみ続けるのだ。
この繊細な心にとって、その時間は塗炭の苦しみに違いなかった。
「それだけが残念です」
私が逡巡している間に結論は出てしまった。
心から詫びられてはそれ以上重ねる言葉もなかった。
あとは部屋には寂しさの混じった沈黙だけが残った。




