6_1 嵐のあとで
それからが大変だった。
『マダマさまが峠を越した』
そう私が知らせるなり、病室には邸中の人間がどっと押し寄せてきた。
「ちょっとちょっと、静かに! まだ完全に治ったのかは分からないのよ!? 薬もしばらく量減らして飲み続けないとだし……!」
「マダマ―――! 良かったのう!」
慌てて制止する私をガン無視して、この家の主人である大公夫人がベッドの上に飛び込んでいった。
「えらいぞ、よう頑張った! おまえは強い子じゃ!」
「叔母上……」
「今晩は一緒に寝るからな!」
「やです」
「ほおずりさせろ! ペロペロさせろ! チューさせろ、チュー!!」
「絶対嫌です」
舐めんばかりの勢いでくっついてこようとする大公夫人を、マダマさまはすっかり自由に動くようになった腕で押しのけた。
「殿下……」
「ベリルもご苦労でした」
「でんかぁ……! うわぁぁぁ……!」
ベリルは対面するなり顔中をくしゃくしゃにしてしまった。
衛士として自分を抑えつけるよう訓練を受けてきた彼女だが、心のフタから感情が漏れ出してきたらしい。
直立したままベソをかかれてマダマさまも面喰ってしまう。
流石にこれには背中をさすって慰めるしかなかった。
「良い、マダマさま。何本?」
「2本と5本です」
「ちゃんと見えてるわね」
マダマさまの顔の両側で私が伸ばした指を数えさせるテストに、正確な答えを返してきた。
「見えなくなったのが何だったのかしら、ってくらい急に良くなったわね」
「不思議です」
「でもまだ体の中に虫が残ってるかもしれないから、薬は少しずつ飲むわよ」
タヌキが言うにはキニーネでは血管の中にいるマラリア原虫は殺せても、内臓の中で休眠状態の原虫は殺せないのだそうだ。
良く分からない生態だが、念のためぶりかえさないように薬を飲み続けるのには賛成だ。
とりあえず昨日の半分の量に薄めたキニーネを渡す。
マダマさまはじっと薬の入ったカップに目を落とした。
「……あの、やっぱり薬は飲まないとダメですか?」
「どうしたの、何か問題ある? もしかしてまだどこか辛い?」
「この薬、にがくて嫌いなんです」
「飲みなさい」
「はい……」
まったくこのかわいい生き物め。
抱きしめてやろうか?
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その後。
マダマさまはすごい勢いで健康を取り戻していった。
次の日には発疹は薄くなり、肌も色艶がよみがえった。
脾臓が腫れたせいでぽっこりとふくらんでいたお腹も、驚くほど急速に元に戻っていった。
「まるで妊婦さんね」
笑いながら、急に伸び縮みした皮膚がひび割れないように薬用クリームを塗ってやる。
マダマさまは恥ずかしそうに唇を尖らせた。
「治ったはずなのにまだ患者みたいです」
「無理しちゃダメよ。体力も落ちてるし、大人しくしてなさい。今度こそご褒美持ってきてあげるわ」
「ご褒美?」
「お菓子にマシュマロ持ってきてあげてたのよ。無駄になったけど……。いいわ、作り直してきたげる」
「お菓子?」
甘味に飢えているマダマさまは食いついてきた。
そういえば綿菓子が食べたくて家を抜け出すくらいの甘党なのだ。
「ゼラチンがあるんだからマシュマロの他にもムースも作れるわね。牛乳と卵があればプリンだって作れるし、フレンチトーストもおしゃれだし。フルーツたくさん乗せたパンケーキも良いわね」
未知のスイーツの名前を列挙されて、マダマ様はらんらんと両目を輝かせた。
「それってどんなお菓子ですか!?」
「慌てなくても元気になったら全部持ってきてあげるわよ」
「ぜ、全部!?」
マダマさまは思わず口元を押さえた。よだれが垂れそうになったらしい。
<<…………>>
私がかけた椅子の足元で、餌皿の中に頭を突っ込んでいたタヌキがふいに顔を上げた。
ペット用としてはぜいたく過ぎるやわらかく茹でた鶏肉に舌鼓を打っていたのが、何か思いついたらしい。
<<なぁなぁ>>
(なに、どうしたの?)
<<当たり前のように俺たちずっとここにいるけどさ、家に帰らなくて良いのかな?>>
「あっ」
――――――しまった。忘れていた。
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慌ただしく馬車を用意してもらう。
『とりあえず一旦帰ってきますから!』と、あいさつもそこそこに屋敷を辞去した。
「えーと、もう何日帰ってなかったっけ私たち!?」
<<確かマシュマロ作ってもってきてそれ以来ずっとだから……3日間?>>
「おぉ……もぅ……」
せめて使いの者を出してもらって連絡くらいしておけばよかった。
失踪したと思われていてもおかしくはない。
因業親父の怒り心頭になった顔が目に浮かぶようだ。
「王子様の命を救ったって言えば許してもらえるかしら……?」
<<それでも外泊するなら連絡しろってこっぴどく怒られるんじゃないかな>>
「ああ、こういう時に限ってそんな正しい理由で叱ってくるなんてずるいわ!」
歯噛みしていると、あっという間に馬車は我が家に到着して車止めに止まった。
「おお、レセディ! 帰って来たか!!」
「げっ!」
馬車を下りようとしたところで、従者も連れずに父親が玄関から走って飛び出してきた。
肝が冷える思いがした。
これは相当怒髪天をついているぞ……!
「あのね、お父様。これにはマリアナ海溝よりも深い事情があるの。実はマダマさまは悪質な寄生性微生物による原虫感染症にかかっていて……」
「親王殿下のところに行っていたのか!」
「ええ、そう! そうなの! やむにやまれぬ事情で!」
「ではあの話は聞いたか!?」
「……あの話?」
私は首をひねった。
どうも父親は怒っているというのとは違うらしい。
どちらかというと何かにひどく慌てて取り乱しているようだ。
「知らんのか、今朝王宮から公示があっただろう!」
「えーと、ごめんなさい。全然分かんないわ」
ただでさえマダマさまのことで頭がいっぱいだった上に世事に疎い私だ。
おまけに浮世離れした大公夫人の屋敷の中では最新ニュースに触れる機会さえなかった。
「ああ、どうしておまえはそう……! いや、今はそれどころじゃない」
叱る時間も惜しい、とばかりにもどかしげに父親は早口で言ってきた。
「親王殿下のご領地が決まったのだ!」
「りょ、領地?」
そういえば誕生パーティーのときに、カリナンが言っていた気がする。
マダマさまももうすぐ公爵になって領地が与えられるとかなんとか。
本人が病気で臥せっている間にも、知らぬところでその話が進行していたらしい。
「はぁ……。あのマダマさまが領主様ねぇ……。でもまあいつか決まることだし、そんなに大慌てしなくても」
「場所はどこだと思う!」
余裕というものをかなぐり捨てた形相で父親は叫んだ。
「とんでもないことになったぞ!」




