5_23 ぬばたまの夢
「…………ッ!」
ソファの上で座った姿勢のまま目が覚めた。
夜中にマダマさまに薬を飲ませて一休みのつもりでソファにかけたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
そういえば丸二日近く眠っていなかったのだ。
眠りに落ちる自覚すらなかったのも無理はなかった。
(よりによってこんなときに!)
寝ている場合ではない。慌てて立ち上がろうとする。
<<ぎゃっ!>>
「おっとぉ!?」
立つ拍子に何か柔らかいものにつま先がめり込む感触がした。
目を落とすと、両足を投げ出すようにして絨毯に転がっていたタヌキが口を開けて悶絶していた。
<<いってぇ!>>
「ごめんなさい!」
<<な、何かあったのか!? 王子様はどうなった?>>
緊急事態に叩き起こされたと思ったらしい。
寝ぼけ眼でタヌキがよろよろと起き上がる。
そうだ。こんなことをしている場合ではない。
マダマさまの様子を確かめなくては……。
「マダマさ……」
ベッドの方に声をかけようとして、私は絶句した。
そこにあったのは、余りにも静かな光景だった。
いつの間にか夜が明け、カーテンの隙間からは透明な光が漏れている。
その光の筋が、ベッドに体重を預けて静かに横たわる少年の顔に降り注いでいた。
微動だにしないマダマさまの白い顔には何も浮かんでいなかった。
昨日の夜までは、頭痛と腹痛にずっとうなされてろくに寝付くこともできなかったはずだ。
不吉な予感に心臓を鷲づかみにされる。
もしかして、まさか、そんな。
うっかり居眠りしている間に全てが終わってしまっていたとしたら。
顔中に発疹が浮かんでいても血管が透けて見えそうな白い肌は美しかった。
寝乱れた銀色の髪が額にかかり、眼筋の通った鼻と優美な線を描く顎は大理石から削り出したように滑らかだ。
シミひとつないシーツの上に静かに横たわる少年が横たわる姿は絶対的な静を想起させずにはいられない。
この世を生きていくのには美し過ぎて、神様に嫉妬されたのではないか。
そんなバカが考えが頭をかすめるほどに完成された眺めだった。
『次に熱が出たら終わり』
タヌキの言葉が頭の中で何度も反響した。
「…………」
<<嘘だろ、そんな……>>
よろよろと足がもつれそうになりながら、ベッドの端にたどりつく。
膝から崩れ落ちて、ベッドの縁にしがみつくようにして枕元に近寄った。
<<ど、どうなってる!?>>
タヌキがベッドのシーツに爪を立てるようにして這い上がろうとしているが、手助けする気も起きなかった。
ただただまだ息をしているか確かめるのが怖くて仕方なかった。
産まれて初めて神様に祈る人の気持ちが理解できた気がした。
早鐘のような自分の心臓の音が耳障りで仕方がない。
何も聞こえず、苛立ちながら顔を近づけると。
「――――――」
花びらが開くように、長いまつ毛のついたまぶたがほころんだ時、思わず快哉を叫びそうになってしまった。
その下にある輝石を思わせる綺麗な瞳がきゅっと焦点を結んで、私を認めた。
「……不思議な夢を見ました」
部屋の天井に目をやりながら、静かにマダマさまは喋り始めた。
「木造でも石造りでもない建物の中で、すごくたくさんの人が急いでどこかに行こうとしてるんです」
「……」
「つられて同じ方へいくと、天井が開けた場所に出ました。みんなが大きな箱をいくつもつないだ、不思議な乗り物に乗ってるんです」
「……乗り物?」
「馬車でも船でもありませんでした。鉄の棒が敷いてあって、その上を自分の力で車輪を動かして進んで行くんです」
まだ熱に浮かされたような口調で少年は夢の世界を語った。
少年の言葉を噛み砕いて理解するのに時間がかかってしまう。
私とタヌキにはごく当たり前だが、少年には見る機会が一生ないであろう光景。
駅のホームのことを語っているのだ。
「すごくきれいで、風みたいに早くて、走り出すたび大きな音がして。目を丸くしてたら……」
すっと視線が動いて、私と目が合う。
「レセディが人混みの中にいたんです」
「私?」
少年は少し恥じらうようにうなずいた。
「あの、ボク、変なこと言いますね?」
「……どうぞ」
「夢の中のレセディは、今のレセディと全然見た目が違ったんです」
今度こそ私の心臓は止まりそうになった。
「黒髪で、背が低くて、眼鏡をかけてました。顔も格好も全然違ってて……」
「――――――ッ」
「でもボクはその人がレセディだって分かったんです。どうしてだか自分でもうまく説明できないけれど」
困ったようにマダマさまは眉をハの字にしたが、ついで思い出したように跳ね上げた。
「そうだ、タヌタヌもいたんです!」
<<俺!?>>
どうにかしてベッドのへりに頭を乗せたタヌキが目を丸くした。
「タヌタヌは痩せた男の人でした!」
<<!?>>
「着るものもくたびれてて、なんとなく寂しそうな雰囲気の……!」
喋りながらマダマさまの声はどんどんトーンが落ちていった。
目が覚めた瞬間には鮮明だったはずの夢の中の光景が、どんどんピントがぼけて輪郭が曖昧になっていくように。
自分が見た印象が確かなものか自信がなくなっていくようだった。
「夢の中のことですけれど、ボクおかしなこと言ってますよね」
「……そうかもね」
「でも見た瞬間に分かったんです。あれはレセディとタヌタヌだって」
強弁するかのようにマダマさまがまくしたてる。
「箱の乗り物の扉が開いて、二人は人混みに混ざって乗ってしまったんです」
そこまでしゃべって、マダマさまは少し悲しそうに長いまつ毛を伏せた。
「どうしようか迷っていると、大きなベルが鳴って、扉は閉じてしまいました」
「……」
「とても怖い思いがしました。なんだかそのままもう、二度とレセディとタヌタヌには会えなくなる気がして……」
マダマさまは眉を潜めて、ぐすんと鼻を鳴らした。
大きな眼の周りが赤くなって、もう少しで涙がこぼれそうなくらいだ。
「でも動けなかったんです。もどかしくて、やるせなくて。そのまま目が覚めました」
「……」
「何故だかとても悲しくて不思議な夢でした……」
目の前の少年の目が、はたと大きく開いた。
「レセディ?」
「……何?」
「……泣いてるんですか?」
言われて初めて、目の裏側と鼻の奥を突き抜ける熱の正体に気付いた。
歪む視界の中で少年の表情に陰りが混じる。
ああ、しまった。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。
マダマさまは動かせなかったはずの左手をシーツの間から引き抜くと、指先でそっと私の頬に触れてきた。
「……何がそんなに悲しいの?」
「バカね、悲しい訳ないでしょ?」
自分の手のひらで少年の細い指を包むようにつかみながら、なるべく声が震えないようにつとめた。
「マダマさま、よく聞いてね」
「……何を?」
「あなたが見たのは夢よ。ただの夢。私もタヌキも、ちゃんとここにいるわ」
そうだ。
もうただの夢だ。
マダマさまにとっても、タヌキにとっても、私にとっても。
今いるこの場所こそが唯一の現実なのだ。
「おかえりなさい、マダマさま」
自分でも意識しないうちに自然と体が動いていた。
すっと身を乗り出して、枕の上のマダマの額に唇を寄せる。
「――――――――――――ッ!?」
熱はもう下がったはずなのに、少年はひどく赤面した。




