5_22 黒内障
「マダマさま!」
窓辺を離れて、慌ててベッドのそばへかけよる。
まぶたを目いっぱい開いてうろたえていたマダマさまが、突然ぐるりと眼球をこちらに向けた。
「!?」
「あ、あれ? 今度は見えます」
本人にも訳が分からないといった様子だ。
おそるおそる手をかざしてみて、私から見て反対側のマダマさまの目前でパタパタと振ってみる。
「?」
マダマさまは鼻がつまめそうな距離にある私の手の存在に全く気づいていないようだった。
「視野が狭くなってる……?」
「シヤ?」
「……目で見える範囲が半分くらいになってます」
<<黒内障だ!>>
ベッドの足元でタヌキが色めき立った。
<<視野障害が起きてる>>
(……薬のせい?)
<<キニーネの副作用が出たんだ、投薬は中止! すぐに生理食塩水をたっぷり飲ませろ!>>
タヌキは興奮したように前足を躍らせて、メイドが作ったのであろう生理食塩水入りのポットが置かれたサイドテーブルへ近づいた。
<<尿を出させて少しでもキニーネを排出させるんだ!>>
「ダメよ!」
目の前でマダマさまが驚くのが分かったが、構っている余裕はない。
「まだ一日分の半分も飲んでないわ!」
<<そんなこと言ってる場合か、マラリアの前にキニーネで死んじまうぞ!>>
タヌキがどんなに歯を剥いても、その声はマダマ様には全く聞こえていないようなのが幸いだった。
<<下手をすれば急性腎不全を起こすんだぞ!>>
「……」
<<そうなったら体外に排出できずに肝臓だけでキニーネを分解しなくちゃならなくなる、処理能力を超えたらあっという間に中毒だ!>>
「……ってことは、腎臓が機能してる間は死なずに済むってことね?」
言質を取られたタヌキは口を開いたまま固まった。
<<ちょ、待て! そんな単純な問題じゃ……!>>
「良い、マダマさま? 目が見えづらくなったのは薬のせいなの」
「……」
「でもまだ血液の中にいる寄生虫を殺せたかは分からないわ。だから薬を飲み続けて」
「だ、大丈夫なんですか?」
「ええ。危なくなったら私が判断して止めるわ」
ベッドにもたれかかるようにしてうなずいたのは、なるべく自信満々に見えるようにというのが半分。
もう半分は震えそうになるヒザを少年に見られるわけにはいかなかったからだ。
自信なんか、あるはずがない。
急にぜんそくになったように息がしづらい。
気を抜くとこの場から逃げ出したいという弱気の虫が起き出してきそうだ。
しかし今は虚勢を張るしかない。
こうなったら足を止めて、病気との殴り合いだ。
タヌキが口やかましく何かを言ってくるが全部無視した。
なるべくたっぷりの砂糖水で薬を薄めて、少年に飲ませる。
「……頭が痛くなってきました」
「それも薬のせいね」
「なんだか肌もかゆいです……!」
頭痛を訴えたマダマさまが、もぞもぞと肩口あたりを枕にこすり付け始める。
寝巻の首元から除くその白い皮膚には、いつのまにか赤いブツブツがびっしりと浮かび上がっていた。
発疹だった。
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マダマさまが本格的な副作用を訴えだしてから数時間が経った。
何度目かの嘔吐をして、洗面器にほとんど水のような胃の中身を吐き出した少年の口をゆすがせていると。
「おぬしは一体何をしておるんじゃ!?」
入室してきた大公夫人は、苛立たし気に絨毯を踏み鳴らした。
「下手をすれば前より悪くなっておるではないか!」
大公夫人の言うことにも一理ある。
今や顔中にびっしりと広がった発疹に加え、頭痛にめまい、腹痛に吐き気まで症状は及んでいる。
「……熱は前ほど高くないし、発疹も今日初めて出ました。マラリアの症状じゃありません」
「薬を与えたせいではないのか!」
「マラリアを治すためです」
「じゃが苦しそうじゃぞ!?」
大公夫人が扇子で差し示す先で、マダマがうわごとを漏らすように唇をぱくぱくとさせた。
だが、ひゅうひゅうと吐息が漏れるだけだ。
喉がかすれて、もう上手く声を上げることもできなくなったのだ。
「これが治療じゃと言うのか!?」
「そうです、必要なことなんです」
「まだ続ける気か! もうやめてくれ! 見ておられん!」
怒りを通り越して、大公夫人の声には哀願めいたものまで含まれ出した。
「これで病が治らんかったらどうする!?」
「……」
「ただ苦しみを増やすだけではないか! せ、せめて最後くらい楽に……」
「そんなことは百も承知でやってるんです!!」
頭の深奥でぱっと火のようなものが灯るのが分かった。
神経に電気が駆け巡り、感情が全身の血肉で沸騰する。
権力も、身分差も、肉親というつながりも、全部頭の中から吹き飛んでしまった。
「安楽に死なせたりなんかするもんですか! 冗談じゃないわ! 目が見えなくなっても顔中がブツブツだらけになっても死ぬよりはマシなはずでしょ!?」
「……」
結婚もしていない伯爵家の小娘が、王国最大の所領を持つ大貴族を相手に頭ごなしに怒鳴り散らす。
この世界にはありえない、あってはならない事態だ。
大公夫人と部屋中のメイドたち、タヌキまでもが表情筋を凍り付かせる。
構うものか。
死にかけの命を救うためなら何だってやってやる。
自分でも不思議なくらいに据わった腹のまま、猛る感情をそのままぶちまけた。
「これはね、ケンカなのよ! 病気とのケンカ!! 相手が弱みを見せるまで下がったら絶対ダメ! そんなことしたら自分から負けを認めるようなもんよ!!」
「えっ、えぇ……?」
「私はこの子を守るってもう決めたの。 邪魔するつもりならタダじゃおかないわよ!? 黙って見てられないならすぐに出て行きなさい!」
言い切ってドアを指差す。
「…………!」
しばらくの間、ふぅふぅという私自身の息だけが部屋の中で聞こえていた。
興奮しきっていた血潮から徐々に熱が引いていき、頭も冷静さを取り戻してくる。
スポットライトが暗闇の中から徐々に輪郭を浮かび上がらせるように、恐怖と後悔が形となって這い上がって来た。
(やっちゃった……!!)
婚期を逃した行き遅れだとか、悪役令嬢だとか、そんなのとはもうレベルが違う。
これはもうこの世界では、公になったら社会的に抹殺されても文句の言えないレベルのアウトマナーだ。
白昼堂々大統領をぶん殴ったのに等しい。
頭の中が漂白される。
絶望が黒雲の形を取って頭の周りを覆いだしたかのように、目の前が真っ暗になった。
「……」
大公夫人は丸い大きな眼で私の方を見上げていたが、しばらくしてぽつんと言った。
「…………分かった」
「えっ」
「全部そなたに任せる。思うようにせよ」
論理や筋道をすっ飛ばして、何かが心のひだに触れたらしい。
嘘のように素直な顔で大公夫人はうなずいた。
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――――――そして。
マダマさまの高熱の周期が現れる、48時間目を迎えた。




