5_21 決断
キニーネ入りのボウルと砂糖水を入れたポットを携えて、マダマ様の病室に入った。
中には様子を見るためにメイドが1人だけいた。
「……失礼します」
目で外してくれるように頼むと、しずしずと頭を下げて退出していった。
「えーと、これ全部で一日分だから……」
<<5分の1にして2,3時間ごとに飲ませよう。何度も言うけど過剰摂取に気を付けて>>
と言われても、計量カップもなしに液体を等分するのはなかなか難事だった。
テーブルの上でボウルとポットを手に格闘すること数分間。
目分量でより分けて、どうにか一回分の量を確保する。
「……誰かいるんですか?」
ごそごそしている間に物音で起こしてしまったらしい。
ベッドのシーツが衣擦れする音に続いて、マダマさまのかすれた声がした。
「……レセディ?」
「マダマさま」
薬を注いだカップを持って、ベッドサイドに近寄る。
「どう、気分は?」
努めて明るい声を出した。
枕とシーツに完全に体重を預けたまま、マダマさまは重たげなまぶたの下の眼だけを動かしてこちらを見た。
つい数日前までは獲れたての果物のように瑞々しかったはずの肌は乾いて、色も土気色になってしまっている。
死相というのはこういうものかもしれない。
そう思うとぞっと背筋が震える気がした。
「……何も感じません」
ぽつりと返される。
強がりではないことは声の口調で分かったが、弱々しい声は少年の体力が尽きつつあることを物語っていた。
「ただ、ひどく疲れました」
<<低血糖を起こしてるんだ。マラリアの典型的な症状だ>>
タヌキの説明にうっかり反応しないよう気をつけながら、少年のそばに近寄った。
「あんなに高い熱が出てたんですもの、しんどかったでしょう」
私の声までが震えないか不安で仕方なかったが、辛うじて明るい声を維持できた。
「何か起きたんですか?」
私は、少年が訳も分からずに倒れた理由を聞かれたのだと思った。
一瞬だけ思慮を巡らして、なるべく刺激しない言い方をひねり出した。
「また熱が出たのよ。それで内臓が弱って貧血を起こしたの。病気が治った訳じゃなかったのよ」
「そうじゃなくて」
マダマは枕の上で首を振ろうとしたが、わずかにあごを左右させることしかできなかった。
「タヌタヌと一緒にどこに行ってたんですか?」
少年の声には、わずかに責めるような調子が含まれていた。
「……薬を取りに行ってたの」
一日かけてローワーガードルの植物園まで行ったとは言わなかった。言えば気を遣わせるだけだ。
「ごめんなさい。一刻を争う事態だったから」
昏睡していたとはいえ、何も言わずに出て行ったことが少年の心を傷付けてしまったらしい。
「ううん、良いんです」
「え?」
「ひょっとしてレセディたちも病気になったのかと思ったから」
本当に安堵したようにマダマさまは口元をゆるませた。
「―――――――――――」
この子には嘘もごまかしも無意味だ。
頭の中で一番冷静な部分が、直感をそう言葉にした。
「マダマさま、良く聞いてね」
もう少しで息がかかりそうなくらいに顔を近づける。
「このままじゃ、あなた本当に死んじゃうわよ」
<<おい!?>>
ベッドの端にしがみついていたタヌキが歯を剥くのを手で制する。
「体の血管中に寄生虫がいるの。そいつらのせいで今度熱が出たらもう終わり。助からないわ」
「……キセイチュウ?」
「すごく小さな虫よ。目に見えないくらい。虫を殺すために薬を飲まなきゃいけないの」
『微生物』という概念のない世界に育ったマダマさまが、私の説明で納得してくれるか確証はなかった。
が、少年は笑ったりいぶかしんだりせずに耳を傾けてくれた。
薬、という単語に反応して私が手にしたカップへ焦点の合わない視線が移る。
「でも、この薬が強過ぎて体にも有害なの」
「…………」
「もしかしたら薬のせいで死んじゃうかもしれない」
<<おい、相手は子供だぞ! そんなこと言って良いのか!?>>
タヌキが何か泡を食っているようだが、どうでも良い。
私は目の前の消え行く命に対して真摯に訴えることだけを考えていた。
「でも飲まないと確実に死ぬわ。……ごめんなさい、私にはこれ以上いい方法が思いつけなかった」
全部正直に話した。
もう腹案もプランも何も残ってはいない。
ここでマダマさまが薬を口にするのを拒否すればもう終わりだ。
マダマさまが宙を見上げて何かを考える間、私はじりじりと時が過ぎるのを待った。
「レセディ」
「なに?」
マダマさまが口を開いた時、思わず焦れて前のめりになってしまった。
「薬を飲む代わりに、お願いがあるんです」
「……何かしら?」
「もうどこにも行かないで」
初めて少年の瞳に哀切の色が浮かんだ。
これまでどんな高熱にうなされようと、恨み言もこぼさず苦痛も口にしなかった少年が初めて見せた弱みだった。
「友達が一人もいないで死ぬのだけは、やだ……」
即諾なんてできなかった。
自分でも気づいていないだろうが、マダマさまが言っている願いはある意味で恐ろしく残酷だった。
最悪の時には私の判断で彼が死ぬというのに、その時を最後まで見届けろというのだ。
「――――――ッ」
多分今までの人生で一番……、一つ前の現代日本でOLをやっていた人生を含めてもやっぱり一番悩んだ。
言葉通りの意味で少年の命をこの手に握ることになる決断だ。
物語のヒロインでもなければ、正義の主人公でもない私にはとてもじゃないが思い切って果断を下すことなどできなかった。
決め手になったのは、理屈でもなければ感情でもなかった。
「……」
すがるような少年の目を改めて見た時、反射的に私はうなずいていた。
せめてこの子の願いを叶えてあげたいと、薬を差し出した後になって思った。
マダマは唇を尖らせて、ちびちびと薬を飲んだ。
砂糖水で薄めても苦さをごまかしきることはできなかったらしく、時折飲みづらそうに顔を歪ませたり、むせたりして長い時間がかかった。
それでもマダマさまは最後まで薬を飲み切った。
――――――あとは忍耐の時間だった。
薬が効くのが先か。
寄生虫が再び高熱を引き起こすのが先か。
私たちには待つ以外の選択肢はなかった。
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耐えるだけの時間がいつまでも経って。
マダマさまはずっと静かにしていた。
眠っているのか、目を閉じて体力の消耗を避けているのか私には分からなかった。
いつの間にか夕方になっていた。
病室の窓を思い切り赤く染まった夕日が覗いていた。
(まぶしくてつらいでしょう)
ベッドにまで夕日が差し込んでくる段になって、慌てて立ち上がった。
気の利かなさに軽く自己嫌悪を覚えつつ、カーテンを閉めようと立ち上がった瞬間。
「……もう夜になったんですか?」
「え?」
「誰か明かりをつけて……」
血の色をした日の光を頭から浴びながら、マダマさまはもぞもぞと頭を動かす。
夕日をまともに浴びているのに、胡乱に開いたままのその目に細めたりまぶしがったりする様子は全くなかった。
「……ッ!」
鉛を飲み込んだように、嫌な予感がずしんと腹の底へ落ちてきた。
「レセディ? タヌタヌ? どこ……?」
「マダマさま、ここよ! ちゃんといるわよ、分かる?」
慌てて少年の手を取る。
瞬時に握り返してきた細い指からは、はっきりと不安が伝わってきた。
「見えない」
「……何言ってるの?」
「何も見えないんです……!」
少年はかすかに唇を震わせた。
前回更新分のタヌタヌのセリフで「キニーネは無味無臭」などと言ってましたが正しくは「無色無臭」でした!
お詫びして訂正します!
次回は明日追加します。




