陽下の花6
【シナモンの祭壇 グレンの断章】
「皆、いい知らせよ。アッシュが目を覚ましたわ!」
アッシュが領主館に担ぎこまれてから数日、領主館の方がにぎやかになったことにケイが気づき、レイナがリイン寮監にたずねた結果が、この答えだった。
レイナには珍しい、大きな声と大きな笑顔が、どれほどめでたい知らせかを物語っている。
レイナをお姉様と呼んでいるレイナ派(サイアスの言)が、滅多に見られない彼女の姿に見惚れているほどだ。
勉強会に参加している面々も、ほっとした顔を見合わせてから、喜びの声をあげる。
軍子会の仲間の無事を祝う気持ちは当然のことだが、中でもアッシュは存在感が大きい。
そもそも、あいつがいなければ勉強会自体なかった――とマイカが散々言っているので、勉強会参加者は、今回のアッシュの負傷にひどく動揺していた。
たちまち騒然となったロビーに、今日ばかりは寮監のお叱りの声もない。
「よかった。アッシュのおやつがまた食べられるんだな」
「あれ美味しいよね。ほんとによかったわ」
「ヤック料理長の方が美味しいとは思うけど、味付けが違って楽しい」
「わかる。あー、またパンケーキ作ってくれないかな? ターニャのパンケーキ」
「パンケーキも食べたいけど、クッキーも食べたいな。次に出た時に塗ろうと思ってジャム用意してたんだ」
……アッシュの生還は、とても喜ばれているな、本当に。
できれば、もうちょっと食欲は隠してもいいとは思うが、これもまあアッシュの人徳というものか。
自業自得という言葉も思いついたが、俺ぐらいは本音を隠しておいてもいいだろう。
似たようなことを考えたのか、レイナの笑みが苦笑に変わっていた。
「はいはい、あなた達がお腹を空かせているのはよくわかったわ。でも、アッシュが大怪我したことには変わりはないから、しばらくは我慢しなさいね」
食べ物に執心していた連中も、レイナの注意には声をそろえて返事をする。
一応、冗談だったのだろう。ただ、本音がたっぷりと混じっていただけで。
「それと、グレン。ちょっと手伝いを頼めるかしら」
「俺か? 構わないぞ」
レイナに声をかけられ、力仕事だろうか、と確認する。
「ええ。本をたくさん、アッシュに届けるのよ。マイカが、アッシュの静養にはそれが必要だって言うから」
「本を?」
確かに、アッシュはいつも本を読んでいる印象があるが、怪我から目を覚ましてすぐ必要なのか?
「わたしも、グレンと同じ意見よ」
ただし、とレイナは困った風に、しかしそれとわかるほど嬉しそうに苦笑する。
「相手がアッシュだもの。アッシュのことでマイカが言うなら、間違いないわ。アッシュとマイカだもの」
レイナの表情に、胸を突かれた心地になる。
どこか、俺のよく知る感情に近いものが、レイナの苦笑に浮かんでいる。
その感情も水が乾くように消えて、レイナの整った顔の中、切れ長の目が俺を気づかわしそうに見つめる。
「グレンには厳しいことを言うかもしれないけれど、あの二人は特別よ。空に輝く太陽と、太陽を追いかけ続ける月のようだわ。猿神様が世界樹の頂上から手を伸ばしたところで、届かないような光でしょう?」
そこまで行って、レイナはもう一度苦笑を浮かべた。
「わたしはもう諦めてしまったわ」
最後の一言で、気づいた。
あれは、二人の関係に自分が届かないことを知っている笑い方だ。
俺が、マイカに憧れながら、アッシュを見て抱く感情。
*****
「マイカさん、とても暇なのですが」
「そうだね。今レイナちゃんが本を持って来てくれるから」
領主館の客室のドアから、そんな会話が漏れ聞こえてくる。
俺がレイナを見ると、ほらね、という風に肩をすくめられた。
確かに、アッシュの静養には本が必要なのかもしれない。大人しくさせる、という一点で。
「いえ、お手数をおかけ頂かなくとも、それくらい自分で取りに行きますが」
担ぎこまれた時から寝込んでいた割に、元気の良いことを言っている。
思いの外、軽傷なのか?
「動かないで。いいから動かないで、そこで寝てて。今だって傷は痛むんでしょ?」
「ええ、まあ、割とひどく痛いですけど――」
痛いのか!
「これくらい本さえあれば気になりませんし」
そして気にならないのか!
「すごい会話だな。意味がわからない……」
「そうね、これはマイカも苦労するわ。――お待たせ、マイカ」
これはあまり待たせてはならない、とレイナがドアを開けて声をかけると、恐い顔でアッシュを見つめていたマイカが、籠城戦で援軍を見つけたような顔になった。
「レイナちゃん! それにグレン君も! ありがとう! ほら、アッシュ君、本が来たよ~」
マイカの輝くような笑顔が向けられた先、ベッドの上、大きな枕を背もたれにして上半身を起こしたアッシュは、どこからどう見ても重傷だった。
少し頬がこけたように見えるし、血が流れすぎたのか顔色も悪い。
上半身が右肩を中心に包帯でぐるぐる巻きになっているのは、大袈裟でもなんでもないのだろう。
「すみません、お二人とも。お手数をおかけしてしまって、恐縮です」
そんなアッシュが、手を伸ばしている。
俺が抱えて来た本の山に向かって、早くそれを寄越せと態度で言っている。
絶対におかしいぞ、この重傷患者。
死にそうな見た目の割に、全然死にそうにない。
アッシュの異常さに戸惑っているうちに、マイカがさっと動いて俺が抱えた本の一番上を手に取る。
マイカが取った本は、アッシュが伸ばした手に渡される。
「はい、とりあえずこれ。ページめくれる?」
「ちょっと傷口が痛いくらいですから問題なく」
「それは大問題です」
マイカが、妙に張り切った声でアッシュを遮り、いそいそと看病用の椅子から、ベッドの上、アッシュの隣に腰を移す。
「あたしがめくってあげるから、アッシュ君はじっとしてるんだよ? いい?」
仲睦まじいというか、情が伝わって来る甲斐甲斐しさに、レイナが俺の顔色をうかがってくる。
大丈夫だ。ちょっと気分が沈むだけだ。ベッドに潜りこみたい程度だから問題ないだろう。
胸が痛いが死にはすまい。
「贅沢な読書ですね。……メモが取りたくなったら?」
「え? あ、うーん……」
マイカの視線がレイナを見る。
「ダメよ。他にやることがあるんだから」
「じゃあ、グレン君とか……」
「グレンはもっとダメよ。やめてあげなさい。……そう、軍子会の勉強があるんだから」
レイナの言う通りだ。そうしてもらえると助かる。
初恋の相手が目の前で別な男と触れ合うのを見ていろというのは、流石に血反吐をぶちまけそうだ。
俺だって見苦しくないように気持ちを抑えつけるので精一杯なんだ。
「だよね。しょうがない。アーサー君を呼ぼう。二人とも、ちょっとアッシュ君を見張ってて、動こうとしたりしたら押さえつけてね!」
「まるで私が我慢のきかない幼児みたいではないですか」
アッシュが自分の扱いに物申すのを、マイカは無視して疾風のように駆け抜けていく。
あと、マイカがいなくなって早々に自分でページをめくろうとしているから、傍目にもマイカの心配の方が当たっているだろう。
「アッシュ、マイカがああ言ったんだから、じっとしていて。ページならマイカが来るまでならわたしがめくってあげるから……」
「いえいえそんなお手数を……ちょっと痛いくらいですから」
だから、痛いからダメなんだろう。
一体なにがアッシュを駆り立てるのか。
結局レイナが呆れた顔をしながらページをめくりに行った。
レイナ派の男達が見たら歯ぎしりしそうな光景だ。
マイカ派はさっき歯ぎしりした。
「なあ、アッシュよ」
呼びかけると、一瞬で本に没頭しかけていたアッシュの顔がこちらを見る。
「怪我をして傷が痛む時くらい休んだ方が良いと思うのだが、どうしてそこまでして本を読もうとするんだ?」
それも、俺が読もうとすると頭痛がしそうなくらい難しい本。
レイナの指示通りに神殿から借りて来たが、俺にはチンプンカンプンだったぞ。
「う~ん……本を読むのは私のライフワークですからね。私にとって呼吸みたいなものです。グレンさんだって、息を止めていたら死ぬほど苦しいでしょう? それに比べたら、この程度の傷が痛むくらいなんてことないです」
そういうものか、確かに息を止めているのは死ぬほど苦しいな。と納得しかけたが、いやいやおかしい。
「俺がしている呼吸は、そんなに難しくない」
そんなに――と、アッシュが包帯の比較的巻かれていない方の手で持つ本を指さす。
「そんなことはありませんよ。今生きてしている呼吸に比べれば、この本の複雑さ程度なんて簡単なものです」
「呼吸なんて、誰に習わなくたってできるじゃないか」
だが、その本は軍子会で勉強したってまだ読めない。
どちらが難しいかなんてわかりきっている。
「そうですね。人はそういう風に進化して来ましたから、素晴らしいことだと思います」
呼吸の簡単さは、アッシュも認めるところらしい。
「ですが、その気があれば、このくらいは読めるようになります。そう思うより先に死んでしまう人の多い今世では、それは生きることより簡単なことです」
アッシュのその言葉に、もう思い出すこともなくなっていた妹が見えた気がした。
「生きて呼吸をすることは、そう簡単なことではありませんよ。多くの幸運と、たくさんの人の力がなければ、人は生きていけませんから」
「そうか。そうだな。ようやく、アッシュの言っていることが少しわかった気がする」
アッシュのすごさが、また少しわかった気がする。
こいつは、とてつもなく真剣だ。
今生きていること、呼吸の一つにさえ、とても真剣なんだ。
自分が、騎士を夢見て剣を振る時、果たしてここまで真剣だったろうか。
アッシュが本を手にして、ページをめくる時ほど、俺は剣の一振りに気持ちをこめられていただろうか。
負けていられない。
負けたくない。
俺も、もっと真剣に向き合わなければ。
今生きている、自分自身に、真剣に。
そうでなければ、とても手が届きそうにないような存在が、すぐそこにいるのだから。




