夫婦喧嘩(冷戦)
【灰の底 アッシュの断章】
近頃、慎ましい我が家に冷たい風が吹きまくっている。
いや、勘違いしないで欲しい。物理的なそれではない。
秋が近くなったとはいえ、まだ残暑を感じる今日この頃、図々しい隙間風とて押しかけてごめんよと暑気を置いていく。
我が家に発生した冷たい風の発生源は、なんと母上である。
あの温厚温和で私の勉強にも理解のある徳の高い母上が、真冬の寒冷前線並みの寒風発生源になるなんて、これは史上稀に見る異常事態である。
ただ、その原因は功徳の足らない父上なんで、まあ、因果応報と言っていいだろう。
「あれ、シェバ? 俺のスープは?」
高徳の母上に対し、不徳の父上が食卓の不備を訴えている。
察しろ、バカ父。
いつもは一家三人そろってから食べ始めるのに、今日はあなたが席につく前にさっさと食べ始めているでしょうに。
母上は激怒モードである、控えろ。
「アッシュ、スープのお代わり、いる?」
私に尋ねる母上のご尊顔には、麗しい微笑みがある。
父上の問いかけを綺麗さっぱり無視していることを考えなければ、朝食を彩る一輪の花のようだ。
「ありがとうございます。美味しい料理をいつも作ってくれる母さんに感謝をこめて、自分でお代わりしに行きますね」
「まあ、ありがとう。アッシュはいつも優しくて素敵ね。旦那様にしたいわ」
お花が咲くほどご機嫌の母上の背に、不機嫌の氷雪が見える。
すごいですね、一人の人間に春と冬が同居している。
私はその冬側には絶対に行きたくない。生存率小数点以下ですよ。ポイント・オブ・ノーリターンだ。
しかし、我が父は、世間一般で言うところの風邪をひかないタイプである。
「シェバ? 俺のスープは?」
氷雪原に自ら飛びこむ姿はもうなんかあれです、頼むから黙れと殴り倒したくなる。
幸い、我が母上は高徳者である。
子供の前で怒鳴り散らすような教育に悪いことはせず、張り付けた笑顔で配偶者を睨んだ。
言葉はない。ただ、親指で竈の方を指さす。
スープに不足している塩分を補うような塩対応である。
事ここに至れば、私も必死の形相を浮かべざるを得ない。
夫婦喧嘩を回避すべく、ヤバイ、大人しくしろ、これ以上火薬庫でバーベキューするな、と焼き殺さんばかりの熱量でアイコンタクトする。
二人分の寒暖差の激しい感情を受けて、風邪をひかないタイプの父上も察するものがあったのか、渋々と自分でスープを取りに行った。
その唇を尖らせた不満顔を見た母上が、舌打ちを堪えた表情をしている。
小心者の私は、顔が引きつるのを必死に堪えるばかりである。
日常の楽しみである食事の時間が、中々の苦行と化した。私の徳の高さも上がってしまいそうだ。
徳を積んだ結果、聖人として祀られると今後の活動に支障が出そうなため、徳を下げるべく我が家の状況を他者に漏らすことにした。
場所は神聖なる教会、相手はマイカ嬢。
つまり、お友達との勉強会で、休憩代わりの愚痴である。
家庭での疲れはお外で友達に癒してもらうべしとどこかの聖典にも書いてある。
酒飲みの聖典だったかな?
「というわけで、母さんと父さんが喧嘩寸前……いえ、あれもう実質喧嘩ですよね」
これまでは母上が「あなたいい加減にしてよ」と匂わせていたのだが、父上がこれを華麗に全スルー、今朝とうとう「怒ってるからね!」と宣言するに至ったのだ。
まあ、その宣言が朝食セルフサービスだった辺り、母上は本当に優しい。
「父さんも今朝の一件で自覚したので、今夜辺りから激化しそうですね」
何故なら、父上はなんで母上が怒っているかさっぱり気づいていないから、和睦交渉が成立するはずもない。
よって、第三者の仲介が入るまで戦況は激化の一途を辿るでしょう……。
暗澹たる世相を伝えると、しっかりと聞いてくれるマイカ嬢もそわそわと頷く。
「そ、そうなんだ。シェバおばさんとダビドおじさん、いつも仲良いのに……喧嘩もするんだね?」
「おおむね父さんが悪いです」
あの人、鈍感すぎるんですよ。
自分が風邪ひいたことくらい気づいて欲しい。
「そうなの? ええと、アッシュ君は、シェバおばさんが怒ってる理由、知ってるの?」
もちろん知っているので、試しにマイカ嬢の手を見せてもらう。
「手? いいけど……あたしの手がどうかしたの?」
「ええ、アロエ軟膏の効果が出ているのか、すべすべになりましたね」
「ふぇ!? あ、そ、そそ、そうだね! たぶん、きっと、ぜったい、アッシュくんのおくすりのおかげだよ! まちがいない!」
「やはり、手の荒れが治ると気分もいいものですよね?」
「も、もっちろんだよ! え、ええっと、よければ、さ、さわってみる? このまえみたいに、じ、じっけんのあれをたしかめるとか、なんかほら、そういう……」
「いいのですか? では、失礼します」
マイカ嬢から許可をくれたので、ありがたく触って確認をさせてもらう。
うん、ささくれもひび割れも少なくて、とても触り心地がいい。
「うん、とても綺麗な手ですね」
「あっ、あっ、あり、ありが、とぉ……」
すべすべお手々に対して、誰でもできるくらいの簡単なコメントをすると、マイカ嬢は真っ赤になって照れてくれた。
マイカ嬢もわかってくれただろう。
そう、我が家の父に足りないのは、これなのである。
「うちの母さんも、マイカさんと一緒なんですよ」
「う、うん。……うん?」
「アロエ軟膏を使って、母さんの手も綺麗になりました。嬉しそうに自分の手を眺めている姿を、一日に何度も見ています」
マイカ嬢も、わざわざ私に手が見える角度で、髪をいじったり、本に手を置いたりしてアピールしていた。
美容へのこだわりの、可愛らしい発露だ。紳士たる者、これに気づいて褒めてあげねばならぬ。
「あの面倒臭い上に鈍感な父は、未だに母さんの手が綺麗になったと褒めていないのです」
「それは……それはよくないね」
とってもよくないと繰り返すマイカ嬢の目が、ちょっとほの暗いものを湛えている。
「私は何度も褒めているのですが、父さんが褒めないことには母さんが満足するはずないんですよ」
「おじさんとおばさん、仲良いもんね」
そうなのである。なんだかんだあの二人は仲良しさんである。
その大半は、母上の面倒見のよさと我慢強さと満天母性に由来している気がするけれど……。
「手が綺麗になったことを褒めて欲しい妻と、それにさっぱり気づかない鈍感夫の夫婦喧嘩に巻きこまれるなんて、私はどんな悪いことをしたのでしょうか?」
「お、お薬を作って、とっても偉いと、あたしは思うなぁ……?」
ありがとう、マイカ嬢。
世の中は理不尽ということですね。
よし、理不尽には屈しない主義を発動しよう。
「というわけなので、父さんは母さんの手が綺麗になったことを褒めるべきです」
麦畑で父上を捕まえてお説教タイムである。
これに対し、父上の第一声が「なんだそれくらい」だったことから、この説教タイムは面倒臭いことがわかりきっている。
「なんだそれくらいとはなんですか。母さんにとってはとても大事なことなんですよ。少なくとも朝食のスープを用意しないくらいには大事なことなんです」
「なんで手を褒めないくらいであんな目に……」
こら風邪ひかないタイプの父上、あれは食卓に空皿が用意されていただけまだマシな方ですからね。
これ以上悪化すると、父上の分の食事がない、ってところまでいきますよ。
「大体、いくら父さんがアレでも、母さんの手の変化には気づいていたでしょう?」
「当たり前だろ。お前のなんか変なの使ってから……アレってなんだよ?」
アレはアレですよ。
鈍感とかデリカシーがないとか、そういうそっち系のアレです。
「気づいていたなら、それをそのまま言ってあげてください。それで平和は訪れます」
「そのまま言うって…………お前な、親のやることに指図するなんて、生意気だぞ」
なに赤くなってるのこの人。
私にそんな照れ顔からのツンデレを見せたってトキメキもロマンティックも始まりませんよ。
それをあなたの妻の前でやったら、朝みたいな冷戦勃発しないでしょうがこのポンコツ野郎。ていうか結婚何年も経っているのに、妻を褒める自分を想像しただけでそんなに赤くなっちゃうとかどんだけ初心なんですか。
夫婦二人はまだまだ恋人ですか?
わあ、お若いですねー。
あーもーなにもかもが馬鹿馬鹿しくなって来た。
「父さんが母さんの手に見惚れて褒めちぎっていたと私が嘘八百を並べ立てるのと、父さんが自分の口から母さんを褒めるの、どっちにします?」
「……そうか、アッシュから伝えてもらうって手もあるのか」
「なお、私に言わせた場合、父さんのことを一生ヘタレ扱いしますからね。後この話をバラまきます」
穏便に選択を迫った後、母上の機嫌が直るまで三日ほどかかった。
我が父は村で一番のヘタレに違いない。




