伝説前夜3
「馬、美味しかったですね」
村で最後の農耕馬が倒れた日、その肉を村の皆で集まって食べた後に、アッシュがそう言ってお腹を撫でてみせる。
珍しい、お道化た仕草だ。
他の子達と比べると、とても落ち着いて食べていたけれど、やはりこの子にとっても馬肉は美味しかったようだ。
ダビドの方がよほどがっついて食べていたのが、少し恥ずかしい。
「そうね。最後までお世話になったわね」
「代わりの馬は、来ないのでしょうか」
「難しいんじゃないかしら。馬の世話がきちんとできる人ももういないし」
「そうですか」
答えたアッシュの声色が、少し違う。
そっと横目でアッシュの顔を見ると、やはり――暗い穴のような目をしていた。
あれから注意していたけれど、わたしの気のせいではなく、この子はこんな暗い目をするようになっていた。
使っている鍬が、木ではなく鉄製にできないのかと聞かれた時。
畑の土について、タイヒだとかノウヤクだとかがないのかと聞かれた時。
わたしやダビドが、できない、わからないと答えると、アッシュはひどく傷つくようだった。
「次にお肉が食べられるのは、猟師のがんばり次第ですね」
それでも、アッシュはなにがどう痛むのかを口にしない。
そればかりか、笑みの形を作って誤魔化してしまう。
あどけない顔で笑うアッシュの目が、一段と冷たくなっている気がした。
膝を突いて、アッシュを抱きしめる。
「母さん? いきなりどうしました」
「アッシュが寒そうだったから、抱きしめたくなっただけよ」
「そんなことありませんけど……まあ、もう日も暮れましたし、風はちょっと冷たいですね」
「ええ、本当にそうね。さ、アッシュは早くベッドに行きなさい。わたしはお父さんが帰って来るのを待っているから」
「深酒をして帰って来なければいいですね」
アッシュを先に寝かせて、付き合いでお酒を飲んで帰って来たダビドに、さっき見たアッシュの目のことを相談する。
「そうか、やっぱりおかしいか」
「そうなのよ。強がらずに泣いてくれた方が、いい気がするんだけど」
「無理にでも笑っている奴にそんなこと言っても、聞きはしねえだろうよ。意地を張るに決まってらぁ」
やっぱりそうよね。ベッドの方に視線を送って、溜息を漏らす。
「酒の席で、よそから見たアッシュのことを聞いてみたんだけどよ」
「あ、どうだった?」
「問題にはなってねえみたいだな。外だと普通らしい……言葉遣いは変だって話だけど、まあ前から大人びた奴だったし、賢そうでいいじゃねえかって言われたよ」
「外だと普通、なのね?」
「変わり者ではあるけど、心配されてるってわけじゃねえ」
アッシュの異変に気づくのは、わたし達みたいにずっと一緒にいる人くらいみたい。
確かに、わたしだって注意しているから気づけるような、少しの時間だけの変化だもの。
我慢しているのだろう。
あの年でそんなことを、と我が子の健気さに感動するべきか、親として頼られていないことを情けないと思うべきか。
いえ、あの子は利口な子だから、親にも遠慮しているんだわ。
こちらの方から声をかけてあげないと。でも、あの子は一体、なにを悩んでいるのかしら。
そもそもそれがよくわからない。
「やっぱり、村での生活が嫌なのかしら」
「まあ、都市に比べると物も人もないし、貧乏だからなぁ……。あいつくらいの年頃なら、確かに嫌だろうよ」
「ダビドもそう思う?」
自分もそうだったから、とダビドは頷く。
「俺だって、若い頃はそんな村の生活が嫌で、仲間とつるんで遊び回ってたからな」
「ダビドが言うと説得力があるわね……」
あなたは、それで両親にかなり叱られて育ったものね。
若い頃というより、ついこの前まで、という気がするけれど。
「退屈な畑仕事とかが嫌で、逃げ出してサボって、んで親父に叱られたっけなぁ。家族に飯を食わせるのが一人前の男の仕事だ、って何度言われたことか」
今ではそれもいい思い出なのか、ダビドの表情は柔らかい。
「俺が親父と話をするってのは、叱られる時ばっかりだったな。その辺、アッシュは叱るところがなくて、俺としては寂しいくらいなんだが……」
朝に畑仕事を手伝わずに叱られ、昼に服を汚して叱られ、夕の門限を破って叱られ……それが毎日だったダビドと比べたら、アッシュは確かに叱るところがない。
あの子は、暗い目はするけれど、お仕事の手伝いはサボらないもの。
しかも、かなり手際がいい。比べる相手が悪いわ。
「アッシュに悪さをそそのかさないで頂戴よ?」
「べ、別に悪さをして欲しいってわけじゃねえよ。ただこう、どう話しかけたもんかと思ってさ……。俺の親父のイメージと言ったら、叱ってばかりだからしょうがねえだろ」
「普通に話しかけたらいいじゃない。叱る気満々の父親なんて、避けられて当然だわ」
そんなだから、アッシュもあなたとあまり話さないようになるのよ。
正直なところ、あなたと話す時はアッシュの方が気を遣って話題を振っているのよ?
「今日のご飯も美味しかったですね」なんて、頷くか首を振るだけで答えられるように話しかけていたりして。しかも、あなたは「そうでもない」とかにべもない。
わたしの料理に不満があるのかしら。
アッシュの方が素敵な夫に見えるくらいなんだから。
「う、ううん……わ、わかった。もっとちゃんと話してみるよ」
「お願いするわね?」
「とりあえず、そうだな。畑仕事に連れ出して、体を動かしながらならなんとか……。あ、これならおまけに収穫も増えて、飯もよくなるな。いいと思わねえ?」
「ええ、いいと思うわ。がんばって、あなた」
そうわたしが笑うと、ダビドもほっとしたように笑う。
そして、そんなわたし達の会話をあざ笑うように、外では雨が降り出した。
「おいおい、明日の仕事を張り切るぞって気持ちになったってのに……。朝には止んでてくれよ」
ダビドの呟きをかき消すように、雨音はどんどん強くなっていく。
それと同時に、夜の冷たさも強くなる。暗がりが、悪意を持っているかのように。
「この様子だと、まだ寒くなるわ。あなた、もう寝ましょう」
先にベッドに入ったアッシュが心配だわ。
農家がベッドに使う布なんて薄っぺらいもの。家族で身を寄せ合って、きちんと抱いて寝てあげないと、風邪をひいてしまう。
それから数日、雨は止まなかった。
****
結局、アッシュがなにを悩んでいるのか、それすらわからないまま、ただ月日だけが過ぎてしまった。
あの子はもう八歳になっていた。
村の同世代の女の子達から注目されるほど賢い子として知られるようになり、母親としては誇らしい反面、少し妬ける。父親のダビドはお酒が入るととても妬いていた。
そしてあの子は相変わらず、時々暗い目をする。
特に、誰かが亡くなった時に、あの子の目はぞっとするほど暗く、霜より凍てついた眼差しになる。
まるで、亡くなった人の冷たさが、あの子に乗り移っているみたい。
不安になる。
あの子は、どれくらい冷たさに耐えられるだろう。灰に埋められた炭火は、一晩は持つ。
でも、ずっとは持たない。
だから、わたしはあの子を抱きしめる。
また、この子は一段と冷たいものにさらされられるのだから。
「アッシュ……シャムちゃんのことなんだけれど」
アッシュを抱きしめて背中を撫でながら、わたしはそう切り出した。
ある日突然頬がはれて、ここ数日寝込んでいた子の名前。
アッシュより少し年下で、少し恥ずかしがり屋だったから、やんちゃな他の男の子達から守ってくれるアッシュによく懐いていた。
もう少し年を取ったら、アッシュの後をついて歩く意味が変わっていたかもしれない子だ。
その子のことについて、話をしなければいけない。当然のことだけど、口が重くなる。
それだけで、アッシュはなんの話か――いい話か、そうでないのかまで、悟ったようだった。
「そうですか、シャムさんが……うん」
穏やかとさえ言える、ゆったりとした口調。あどけない顔に張り付いた、小さな笑み。
子供らしくないけれど、手のかからない可愛い我が子の、いつもの姿。
けれど、その目が、子供特有の大きな目が、井戸よりも深い穴を穿たれたような目が――ごぽりと、溜まりに溜まっていたものを溢れさせそうに見える。
「ありがとうございます、母さん。後は言わなくて大丈夫ですよ、きちんとわかりましたから」
自分に懐いていた友達ともう二度と会えない。
そんな恐ろしい報せに、落ち着き払った態度で、この子はわたしを気遣ってくる。
嫌な報せをしてくれて、ありがとう、なんて無理に微笑んで。
「アッシュ、そんなこと、わたしの前ではしなくていいのよ。あなたの母さんなんだから」
「はい? そんなこと、とは?」
「我慢、しているんじゃない? 泣きたかったら、泣いてもいいのよ。今は誰もいない、母さんと二人だけなんだから、ね?」
我慢をしなくていいと、むしろわたしが泣きそうな気持ちで伝える。
アッシュからの返事は、「ありがとうございます」という拒絶だった。
「大丈夫ですよ。もちろん、シャムさんのことは残念で、悲しいですけれど」
変わらぬ笑み。落ち着いた口調。
でも、暗い目の奥には、今にも溢れそうな苦しみが見えた。
「泣いても、シャムさんは帰って来ませんから。ティーレ君も、オーサス君も、ミルネさんも……」
名前。名前。名前。
いくつも、いくつも、名前がアッシュの唇から溢れだす。
初め、それが誰の名前なのか、すぐにはわからなかった。
だって、だってそれは、すでに死んだ人達の名前だ。呼ばれることのなくなった、聞くことのなくなった、使われなくなった名前。
覚えていたってつらい名前だから、亡骸の灰を土に埋めるように隠してしまうもの。
わたし達が自分のために忘れてしまうものを、それをこの子は――あの暗い目の奥に、ずっと仕舞いこんでいたのだ。
火の消えた、後は冷めるだけの死者の灰を、ずっと、ずっと。
胸が詰まる。
大きな、とても大きな感情が、胸の奥に転がり込んで、声も、息も止めてしまう。
あまりにもその感情が大きすぎて、死んでしまいそうだった。
そんなことはやめてしまいなさいと、冷たい怒りが湧いたような気がする。けれど、それと同じくらい、死者の名を覚えているという行いに、有難い温もりを感じた。
そんな苦しくつらいことを、しなくてもいいことをしてくれているなんて、それはまるで……。
――まるで、神様みたい。




