伝説前夜2
アッシュは、どこかおかしい。
我が子の異変に気づいたのは、アッシュが六歳を過ぎた頃からだった。
今から思えば、その前から奇妙に賢い子ではあったと思う。
いえ、賢いと思うよりも、手がかからない、というか。風邪もひかなければ、怪我もして来ない、そんな子だった。
わたしとダビドは、良い名前のおかげかもしれない、なんて笑ったものだけれど、一度も記憶にないともなれば、流石におかしい。
同年代の子供達と遊ぶにしても、喧嘩をしている子がいると報せに走るのはいつもあの子であって、喧嘩をしたと泣きながら帰って来ることはなかった。
マイカちゃんが水辺で遊んでいて溺れかけた時に、アッシュがすぐに気づいて事なきを得たと、ユイカ様から厚くお礼を言われたこともある。
今年初めて参加した山菜取りでも、はぐれて面倒をかけなかったどころか、はぐれそうになる子を何人も引き止めたという。
そういえば、村の男子なら一度はやってしまう――ダビドもその昔はやったことのある――警報鐘を叩く悪戯も、アッシュだけは関わっていない。
不思議なことだ。まるで子供らしくない。
けれど、忙しい農村生活では、「手のかからない、とてもいい子」という子供自慢で片付けてしまっていた。
そんな今までの見ようとしてこなかったアッシュのおかしなところに、とうとう、出くわしてしまった。
暗い夜、得体の知れないお化けと目が合ってしまったかのように。
「アッシュ……ティーレ君のことなんだけれど」
「あ、うん。元気になった?」
風邪をひいて寝込んでいた友達の名前に、アッシュは嬉しそうに笑った。
その後に、不吉なことが続くなんて、思ってもいない顔。
「それが、その……ティーレ君はね……」
「うん? どうしたの、母さん?」
「もう、一緒には遊べないの。さっき、息を引き取って……その、死んでしまったそうよ」
言わなければよかった。
そんなことはできないのに、どうせすぐにアッシュも知ることなのに、ついそう思ってしまった。
それほど、アッシュが目の前で浮かべた表情は、痛いものだった。
剣で斬られたとしても、これほど痛いものかというほど。
慌てて、アッシュを抱きしめる。
そうしないと、わたしの息子は冷たくなってしまいそうだった。
「なんで?」
抱きしめたアッシュが、苦しそうに呟く。
「風邪をひいていたでしょう? それが、治らなくて……」
「風邪? 風邪で? だって、風邪なんて……」
そこで、声が途切れる。
泣き声もしない静けさが、逆に不安になる。
この子は、大丈夫だろうか。恐る恐る顔を覗きこめば、アッシュはただ呆然としていた。
まるで人形のように表情がない。
「アッシュ? 大丈夫?」
揺さぶると、表情が少しだけ戻った。
「え? あ、うん……大丈夫、だけど……。風邪……?」
「そう、風邪がひどくなってね。その、母さんも、なんて言っていいかわからないけれど……珍しくもないことだから、気をしっかりもって」
「珍しくない? なんで? 風邪なんて、簡単に……なおら、ないの?」
「そう、そうね。簡単では、ないの。お薬は手に入るけど、効かないことも多いし……」
「なんで?」
再び、アッシュの表情が落ちた。
「そういう、ものなの。この村では、そういう……」
「なんで?」
繰り返し問いかけるアッシュの目は、井戸よりも深い穴が穿たれたように見える。
その奥に、凍てついた気持ちが渦巻いているような、そんな目。
そうか。この子は、今ようやく、死というものをきちんと理解できるようになったのだろう。
わたしはどうだったろうか。
いくつから、死というものをきちんと理解していただろう。
そして、いくつから、死と折り合いをつけられただろう。
思い出せない。はっきりと区別がつかない、というべきか。
いつからか、そういうものなのだと受け入れてしまっていたもの。だから、この子に上手く教えてあげられない。
情けない。
この子の母親なのに、この子の苦しい悩みを取り去ってあげられないなんて。
「アッシュ、心配ないわ。大丈夫よ、これからは少しずつよくなるわ。村長さんも、ユイカ様もがんばっていらっしゃるし」
ああ、でも、今年の冬もきっとこの子は死を目にすることになる。来年も、再来年も。
その度に、この子の目は、冷たい気持ちをその奥に貯め込んでしまうのだろうか。
この目は、どれくらいの気持ちを貯めこめる?
これから先もたくさん待ち受ける死を、しっかりと留めておけるだろうか。
時々いるのだ。
先に死んだ誰かに、誘われるように死の淵を覗きこんでしまう人が。
妻を失った夫であったり、子を失った親であったり、友達を失ってしまった子であったり。
「ああ、アッシュ。大丈夫、あなたは大丈夫よ」
抱きしめて、背に手を這わせ、子の温もりを確かめる。
大丈夫。絶対に、大丈夫よ。
あなたの名前は、アッシュなのだから。
どんな冷たいものでも、あなたの奥にある温もりは、決して奪えない。
****
その日から、アッシュは少しずつ、変わっていった。
例えば、そう、言葉遣い。
元々乱暴な言葉遣いをする子ではなかったけれど、困惑してしまうほど丁寧になった。
「母さん、今日の分の麦、ここに置いておきますね」
「え、ええ、ありがとう、アッシュ」
「どういたしまして。他にお手伝いが必要なければ、ご飯の準備を手伝いますよ?」
「大丈夫、大丈夫よ。お外で遊んでいらっしゃい」
普通の子なら――ついこの前までのアッシュもそうであったように――はしゃぐだろう言葉にも、アッシュの態度は変わらない。
「そうですか。では、少し広場の方へ行ってきますね」
お手伝いをしてくれていた時と変わらぬ笑顔のまま、家を出ていく。
その足取りが重く、笑顔が薄皮一枚の作り物に見えたのは、わたしが考えすぎているせいだろうか。
「大丈夫かしら……」
「そんなに心配か?」
わたしの呟きを、鍬の手入れをしていたダビドが拾ってくれる。
「ええ、だって、この前までと態度が全然違うもの」
「確かに、様子は変わったけど……なんつーかこう、格好つけたくて難しい言葉を使う時とか、あるじゃねえか。そういう感じ、で説明がつかねえか?」
「そう、そうね……」
そう言われれば、思い当たる節はある。
旅の芸人が来た時や、領都からお偉い人が来た時なんか、その態度や言葉遣いをちょっと真似して、なんとなく自分が特別な人に近づいた気分を味わう。
そういう遊びのようなもの。
今までも流行ったことがあったし、わたし自身、上品なユイカ様に憧れて、その言葉遣いに影響されたところはあると思う。
「ティーレ君のことがあって、大人にならなくちゃいけない、とかそういう刺激を受けたのかしら」
「そうじゃねえかと思うけどな。俺も親父が怪我して働けなくなった時に、急に真面目になった、なんて言われた覚えがある」
「あぁ、そんなこともあったわね」
思い出した記憶は、少しだけ笑わせてくれる。
畑仕事に身が入っていないと叱られていたダビドが、朝一番から畑に顔を見せるようになって、「ああ、この人も立派な男になったのね」と意識させられた。
「笑うことねえだろ」
「だって、いい思い出だったから」
「俺は仲間や家族からさんざんからかわれたんだがな……」
あら、その直後に結婚の話が持ち上がった、いい思い出はないのかしら?
でも、そうね。ダビドの言う通りかもしれない。
今のアッシュは、人生において避けられない死と、初めて正面から向き合ってしまった。
だから、大きな変化が、あの子の中で起こったのだろう。
突然知ってしまった恐いものから身を守るため、今まで以上に良い子として振る舞う。
そうすれば、きっと恐いものから親や神様が守ってくれる。そんなところだろうか。
でも――
「やっぱり心配か」
ダビドの言葉に、溜息で答えてしまう。
「あの子の目が、ね」
「俺が見たところ、そんな変な感じはしないんだが……気にしすぎじゃないか?」
「そうだと、いいんだけど」
どうしても、あの日の暗く冷たいあの子の目が忘れられない。
そのせいか、今も笑顔の裏側にあの目があるような気がする。
気にしすぎ。そうかもしれない。
でも――。
そう、でも、と思ってしまう。
「わかった。俺も注意して見てみるから、そんなに心配するな」
「あなた……ありがとう」
「なに、俺はアッシュの父親で、シェバの旦那だ。これぐらいは当たり前だろ」
ダビドは胸を張って笑った後、とりあえず、と言った。
「細かいことを悩んでる時は、体を動かすのが一番だろ。畑の小石拾いでも手伝わせるか。考えるバカより働くバカってやつだな、ははは!」
ダビド。それ、意味がわかって言ってるの?
いい意味では使われない言葉よ。




