煉理の火翼24
マイカ嬢の試合観戦も終えて、再び治療室で白衣をまとった私に、今大会最大の事件が飛びこんで来た。
担架で担ぎこまれて来たのは、脂汗をびっしり浮かべたセウス・アルゴス卿だ。
ネプトン男爵領の爽快な武人が、男臭い顔を苦悶に歪めている。
運び込まれてきたアルゴス卿を一目見た室内の医療従事者達は、思わず一歩退いたようだった。
それは、アルゴス卿にまとわりつくおぞましい死神を幻視してしまった反応だ。
アルゴス卿の患部、右腕からは、折れた骨が突き出している。
開放骨折――今世の医療技術では致死率が八割を超える、厄介な外傷である。
そのことを、負傷した本人も良く理解しているようだった。武人は、蒼ざめながら気丈な声を搾り出す。
「治療を頼みたい。骨を戻すのが難しいようであれば、この腕をたたっ切っても構わん。墓の下に入れられるよりは、片腕で生きながらえた方が我が主君の役に立てる」
男気溢れる依頼に、医療従事者達はぐっと唇を噛み締める。
それは、悔しさを噛み締めた表情だった。
武人の覚悟の見事なこと、感動するより他ない。
だが、そんな人物を治療し、助けることができるという自信が、中々湧いてこないのだ。
折れて飛び出た骨を戻すにしても、腕を切り落として傷をふさぐにしても、どちらも避けられない激痛が問題になる。
麻酔がない外科手術では、患者がいくら我慢強かろうとじっとしていられる範囲の刺激では済まない。
当然、患者は痛みにもがく。もがけばもがくほど、治療は長引き、出血は増大し、黴菌に感染する危険が高まる。
結果、患者の生存率は低い。
そんな危険な手術が、果たして自分の手に負えるのか。
医療従事者達は、重い不安に絡め取られて呻く。
ところで、最初から一歩も退かなかった人物もいる。それも二名。
その二名は、退くどころか、ずいずいと患者のアルゴス卿に接近していた。
アルゴス卿の右腕を心臓より高い位置にあげさせつつ、脇の下の大きな血管を押さえて止血した二人は、患部の詳細な診察を始めている。
「ふむ、骨の断面から察するに、折れ方が綺麗だ。体内に骨片などが散乱した可能性は少ないと見えるが……フェネクス卿はどうか」
「ルススさんの診断に同感ですね。もし、骨片が体内にあったとしてもわずかでしょう。それに、骨が皮膚を突き破る時も、神経や太い血管は避けられたようですね。ほら、出血がもう大人しくなりました」
「うむ、これは僥倖と言える」
「ええ、手術の準備をしましょう」
一歩も退かなかったのは、つい最近麻酔を手に入れた私とルスス氏の、死体解剖経験者二名である。
死神なんて怖くない。
とりあえず、止血をきちんとしておいて、これ以上の出血を避ける。
流石に輸血ができるような設備はないし、血液型を判断する機材もない。血は、今アルゴス卿の体内を流れるものが全てである。
でも、いざとなったら食塩水で代用することはできるかもしれない。塩分濃度はどれくらいでしたっけ。
「ひとまずはこれで良し。アルゴス卿、これから手術をしますから、別室に移動しましょう。それと、これを口に当てながら呼吸していてください」
私がアルゴス卿に手渡したのは、フラスコ型のガラス瓶である。
丸底の部分には、綿が入れられている。
「フェネクス卿、これは一体……?」
「中に、液体状の薬が入っていまして」
薬の名前はジエチルエーテルと言います。
「う、うむ?」
「それを綿が吸うと、空気中に薬が混ざりやすくなります」
表面積が増えるから揮発しやすくなるの。
「その薬を吸うと、段々と感覚がなくなるはずです」
「感覚……?」
「一時的に、痛みにかなり鈍くなるか、感じなくなるでしょう」
医療従事者達の間からは、まさか、という声が聞かれたが、患者の方は得体のしれないものに感じられたのか、ガラス瓶を不安そうに眺める。
気持ちはわかる。
こちらとしても、今回持ち出したのが初めてなので、どれくらい麻酔の効き目があるのかわかっていない。
「不安になられるのはわかります。この薬は、つい先日に開発したばかりで、まだ誰にも使用していないものです」
「そんな、真新しいものなのか? 道理で聞いたことがないと思ったが……しかし、その、大丈夫なのだろうか」
「大丈夫です」
私は、力強く断言する。
本当は初めての試みに、こんな断定はしたくないのだが、とにかく今は、多少誇張しても信じてもらうしかない。
アルゴス卿と違って、こちらは前世らしき記憶と、古代文明の文献で多少弱くても効果があることはわかっている。
このまま何も処置をせずに腕を切り開くよりはマシだ。
「アルゴス卿が日々鍛錬を続けてこの体を作ったように、私達も日々調査をした結果、この薬を開発しました。古代文明の文献によれば、これは安全な薬です」
中毒性のない貴重な麻酔であることは確かだ。
まあ、ちょっと後遺症として吐き気や頭痛がするらしいですけどね。
「どうか私達を信じて頂けませんか。絶対に助けるとは、申し上げられません。ですが、絶対に裏切らないとは、お約束します」
麻酔薬を使用した外科手術の貴重な例として、今後の医学の発展に役立てて見せる。
アルゴス卿に万一の時があれば、ネプトン男爵領に報いることで誠意としたい。この麻酔の情報をいち早く提供しても良い。
「それは……つまり、某が死んだとしても、それは我が領の役に立ったということで、良いのか」
「もちろんです、確約します」
独断専行をゲントウ氏からは怒られるかもしれないけれど、私はこれも断言する。
「不覚にも命にかかわる負傷をした武人にとって、これ以上ない提案だ。少なくとも無駄死にはしない……が、本当に良いのか?」
「ネプトン男爵領とは、今後も良いお付き合いになりそうですし……」
それに、アルゴス卿なら、難なく生還するという予感がするんですよね。
「私、アルゴス卿のことを信じていますからね」
負傷した右腕を始めとして、アルゴス卿の鋼のような肉体を眺めて、私は微笑む。
うん、実に健康的な体だ。
よほど気を遣って鍛えなければこうはならない。食べ物にも気を遣っていると見た。
「日々の鍛練に耐え抜いた強靭な肉体を見れば、この程度の負傷で死ぬような柔な人物でないことが良くわかります」
絶対体力抜群ですよ。
消耗が激しい手術も平気な顔で持ちこたえてくれるに違いない。
「某を、信じるとな……」
「ええ、アルゴス卿だって、ご自分の体に自信があるでしょう? どんな敵にも立ち向かえると」
「ふっ、それを、敗戦直後の某に言うのか」
しまった。負けていたのか。
この二択クイズ、重傷なんだからそりゃ負けた方が確率高いのは当たり前だ。
これはやらかした。
「でも、死んでいません」
てんやわんやを始めた内心に暗幕をぶっかけ、私はできるだけなんてことない顔で続ける。
「我が領において、勝利よりももてはやされるもの、それが敗北の上の生還です」
咄嗟に思いついた言葉を、直感に従って並べ立てる。
止まらないことが大事だ。なんとなくいい話に持って行って、丸く収まったように見せるのだ。
「勝利した者が生還することと、敗北した者が生還すること。どちらがより難しいか、アルゴス卿ならばおわかりでしょう」
「それは、確かに、後者だろうが……」
「ええ、ですから、難しいことを成し遂げた者を、我が領では褒め称えるのです」
それは、ある時は魔物の出没を知らせるため、血まみれになりながら領都に駆け込んだ巡回兵であったり、魔物の討伐に出たものの力及ばず、討伐隊の壊滅を知らせる生き残りであったりする。
「彼等は身も心も傷ついています。痛む傷を抑えて走る苦しみはどれほどでしょうか。仲間の亡骸に背を向けて逃げる悔しさはどれほどでしょうか。いっそ、その場で力尽きるまで剣を振るった方が楽だったはずです」
でも、彼等は長く続く苦痛を選んだ。
歯を食い縛って、恥を忍んで、自分の痛みを押し殺して。
「そんな生還した敗者がもたらした情報が、どれほど貴重であるか。彼等がいなければ、サキュラ辺境伯領は、とうに魔物の群れに滅ぼされていたでしょう。彼等こそが、サキュラ辺境伯領を守って来た勇士です」
歴史は勝者が作るもの、という言葉があるが、それは少し違う。
歴史は、生者が作るものなのだ。
勝者でも、敗者でもない。生きた者だけが未来を紡げる。
「アルゴス卿は、我が領が最も誇るべき勇士達と、同じ眼をしていますよ」
そんな気がする。ええ、他の誰がどう言おうと、私はそんな気がするので、間違いありません。
私の中では、確定です。
私が力強く自分を誤魔化しながら見つめた先で、アルゴス卿の表情に生気が戻る。
「武名高きサキュラ辺境伯家の強者達と並べられるとは、望外の喜び。ここまでフェネクス卿に言わせては、おちおち死んではおれんな」
よし、釣れた。
なんか背中にものすごい汗をかいているけれど、何とかなったのなら良いのだ。
アルゴス卿は、熱い眼差しでガラス瓶を口に当てる。
「安心されよ、フェネクス卿。卿の信頼に応え、某もしぶとく生き延びることをお約束する」
気合十分に、アルゴス卿は麻酔を吸入していく。
よし。麻酔をかけるのは、アルゴス卿本人にある程度任せて、私は手術の準備だ。
手術用にヘルメス君に作ってもらったメスや鉗子、清潔な布に、消毒用アルコールを並べて、身に着けた白衣も新しい物に替える。
ルスス氏も同じだ。可能な限り清潔な状態を作り出して傷口に臨まねばならない。
口元も布で覆い、髪の毛が落ちないようにバンダナを巻きながら、ルスス氏が小声で囁く。
「見事な弁舌だった、フェネクス卿」
「ええ、ひやひやしました」
手や器具にアルコールをかけながら、私も頷く。
だが、私の思っていたことと、ルスス氏が思っていたことは、微妙に違うらしかった。
「アルゴス卿があれだけ気を強く持っているなら、この手術はきっと上手くいくだろう。患者の精神状態が、その止血や回復力に影響を及ぼすという話がある。フェネクス卿はそれを狙ったのだろう?」
「え? ああ……」
病は気からというやつだ。
興奮状態になると分泌されるアドレナリンなどは、強い止血効果をもたらす。ストレスのようなネガティブな精神活動は、免疫力の低下をもたらすとも言われる。
少なくとも、上向きな精神状態がマイナスになることはない。
ええ、全然考えていませんでした。
「それはたまたまと言いますか……勢いが出てしまったというか」
「ふふ、では、不死鳥のご加護と言ったところか。私も、勉強させてもらったよ。ああして励ます言葉も、立派な医術と言えるのだろうな」
……まあ、全部良い方に進んでいるならそれで良いのだ。
ことは人命に関わっているし、運が良いのは全てが良いことだ。
きっとユイカ女神のご加護に違いない。私の祈りは今日も届いている。
マイカ嬢も怪我一つしていないですしね。




