灰の底13
ユイカ夫人がアロエ軟膏を使い始めて少し、マイカ嬢から夕食の招待を頂戴した。
アロエ軟膏を二人で使っているため、減りが早く、追加の分が欲しいというお願いと一緒の招待だったので、そのお礼だろう。
実験に協力して頂いているのは私の方なので、お気遣いなく、と言ったのだが、そうもいかないのがお付き合いというものだ。
我が父母からも積極的に押し切られたので、私は村長宅の戸を叩くことになった。
出迎えてくれたのは、マイカ嬢だ。
「い、いらっしゃい、アッシュ君」
「はい。本日はお招きに与り、参上つかまつりました」
いきなりマイカ嬢が緊張気味だったので、お道化て一礼する。前にもやらかしたが、相変わらず精神的に傷を負う。
「ふふ、また変な言葉遣いして」
ただ、てきめんにマイカ嬢の緊張が解れるようなのだ、これが。
「今日のマイカさんは、いつもより華やかですね。良くお似合いです」
相手が私とはいえ、お客様を招く、という立場ゆえか、マイカ嬢は一張羅を引っ張り出したようだ。お気遣いは確かに頂戴しました、という感謝の印に、すかさず褒めておく。
気合の入った服を誉められて、嫌な女性はいないということか。マイカ嬢は真っ赤になってくれる。
「あ、ありがとう……。ア、アッシュ君も、カ、カッコイイ、ね」
かくいう私も、母から一番いい服を手渡されている。流石は村長の一族、マイカ嬢も社交術を身に着けていらっしゃるようだ。
「あらあら、本当ね。今日のアッシュ君は、一段と立派な紳士ね」
顔を真っ赤にしたマイカ嬢の背後に、この村で最も気品ある人物が現れた。ユイカ夫人である。
「ユイカさんにそうおっしゃって頂けるなんて、光栄です」
「さあ、どうぞ中へいらして。精一杯おもてなしをさせてもらうわ」
「失礼いたします」
中へ通されて、居間で待っていたマイカ嬢の父上、現村長でもあるこの家の主人に、改めて本日の招待への感謝を述べる。
村長さんも中々有能なのだが、力関係としてはユイカ夫人の方が強いというのが私見だ。
なにせ、ユイカ夫人は、都市の有力者の家で生まれ育ったご令嬢だ。
なんでも、この村は五十年ほど前に、近場の都市から入植して開拓されたものだという。その際、入植を指揮していたのは、都市の有力家の次男――これが、現村長の祖父であり、ユイカ夫人の大叔父だ。
村長家は代々、都市の本家にあたる家へ奉公に出て、そこで知識と人脈を繋いで村へ戻り、村長を継ぐ。そうすることで、集団のトップに相応しい能力を維持しているそうだ。
現村長も都市へと奉公に出て、若きユイカ夫人と熱烈な恋に落ちて、今にいたる。
その折に武勇伝もあったようだが、そこまでは私も知らない。ちょっと子供には聞かせられない武勇伝なのかもしれない。
成人指定だろうか。
「さあ、素敵なお客様もいらしたし、早速夕食にしましょう」
しっかりしたテーブルに、四人で座る。私の隣はマイカ嬢で、正面はユイカ夫人だ。
この世界の礼儀作法はまだ把握していないが、上座や下座はあるのだろうか。
まあ、案内された通りに座ったのだから、それは問題ないだろう。
それにしても、ユイカ夫人の手料理は美味しそうだ。
有力家のご令嬢と聞いたが、自分で台所に立つような家柄なのだろうか。それとも、農村に来てから覚えたのだろうか。
…………。
思えば、今世の見聞を広げると決意して、物語以外も読み始めたというのに、全く今世に詳しくなっていない。物語の次がサバイバル系の実用書というのは、方向性が間違っている気がする。
でも、礼儀作法とサバイバル知識だったら、圧倒的に後者の方が使用頻度が高いから仕方ない。農村は毎日がサバイバルです。
まあ、今目の前に出されたお料理は、「そんなことないし」と誇らしげに主張しているけれど。
村長宅の夕食は、我が家の食卓と違って実に美しかった。
料理の彩りだけでなく、テーブルマナーがあるようだ。都市の有力家の血筋なのだと思えば、それも当然のことかもしれない。主人はそこで教育を受けたのだし、夫人はまごうことなきご令嬢なのだ。
少し焦ったのだが、見苦しくないように食べるだけなら何とかなった。前世らしき記憶のおかげだ。
マナーを気にして食事をするなんて今世初、つまり八年ぶりだ。
「ふふ、アッシュ君は本当に紳士なのね。スマートだわ」
「皆さんの食べ方が綺麗なので、見様見真似ですが。それもちょっとはしたなくなっていないでしょうか? お料理がとても美味しいです。ユイカさんの腕前は素晴らしいのですね。ご主人が羨ましい、なんて私には早いですが」
「まあ、嬉しい。聞いてくれた、あなた? ふふ、若い子に褒められちゃった」
やはり会話の主導権を持っているのはユイカ夫人だ。
もっとも、旦那様の方も、夫人が褒められるとすごく嬉しそうに笑う。そうだろうそうだろうと頷くその姿には、全く不満はない。
お熱いようで本当に羨ましい。
私の隣では、マイカ嬢からちょっと不機嫌そうな気配がする。嫌いな物でも入っていたのだろうか。山菜は苦味が強い物も多いですからね。
「それより、お母さん、何かお話あるんじゃないの?」
「ふふ、マイカったら。そんな顔をしなくても大丈夫よ」
そう言って、ユイカ夫人は隣の夫にもたれかかる。
どういう意味かわからないけれど、とにかく夫婦仲が良いことは思い知った。まだ胸やけするほどではないが、この食事が終わる頃にはどうなっているか不安だ。
マイカ嬢は、唇を尖らせて渋い顔をしているが、少し不機嫌な気配を緩める。他人の前で両親が惚気全開とか、お年頃の子供にはつらいのかもしれない。
「でも、確かにアッシュ君とお話はしておかないといけないわね。いいかしら?」
「ええ、構いませんよ。私でわかるお話であれば、何なりと」
「アッシュ君が作った、アロエのお薬のことなんだけれど」
「何か効き目に問題がありましたか?」
緊張が走って、少し早口になってしまう。この家に入った時から、ユイカ夫人の手元はそれとなく注目していた。問題がないように見えていたのだが……。
「あ、違うの違うの。効果は問題なくて、それどころかお肌が若返ったみたいで、とっても素晴らしいわ」
「そうでしたか。それは何よりでした」
恩人たるユイカ夫人を傷つけたとあっては、一生の不覚だ。私は安堵の吐息を漏らして、椅子にもたれる。
「はて。それでは、ご用件は何でしょう?」
「ええ、このとても素晴らしいお薬なんだけど、クイドさんを通して売ろうと考えているって聞いたの。本当かしら」
私は素直に頷く。別に隠して販売するつもりもない。ゆくゆくはその売り上げで、村の生活を楽にしたいからだ。
すると、ユイカ夫人が困ったように眉を寄せる。
「そう……。なら、少し、心配していることがあるの」
「ほほう。どんなことでしょう」
ユイカ夫人ほどの人物が心配することに、興味をそそられてしまう。
顔色からして厄介ごとのようだが、それでも退屈な村の暮らしに浸かっているせいか、刺激物に興奮してしまう。
「きっとこのお薬は、すごく売れると思うの。だから、そうするとアッシュ君のお家はたくさんお金を持つことになって……他の村の人と比べて、浮いてしまうと言うか」
「ははあ、なるほど。確かに、明らかに格差が見えては、軋轢が生まれてしまいますね」
村長の一族としての配慮に、思わず感心して頷くと、ユイカ夫人も目をしばたかせる。
「マイカに聞いていたけれど、アッシュ君は本当に難しい言葉を知っているのね」
「フォルケ先生の一番弟子ですから」
あの人にはほとんど教わらなかったけど。でも、共に知識を追い求める同士だと思っている。
だから、こういう時の言い訳に使い倒させてもらっている。
私が変な子供なのは、全てフォルケ先生のせいだ。
「これは、フォルケさんも鼻が高いでしょうね。ふふ、話が早くて助かるわ。夫……村長さんとも話したのだけれど」
そう、ユイカ夫人は、村の長としての立場で述べる。
「アッシュ君のやろうとしていることは、とても良いことだと思うの。だから、止めて欲しいとは思っていないわ。本当よ」
強権を使って、上から抑えようとは思っていないということだ。子供を相手に、ずいぶんと気をつかってくださる。逆に申し訳なくなってしまう。
「ただ、その後に問題が起こらないよう、やり方を一緒に考えさせてもらえないかしら」
「ご助言、ありがとうございます。危うく村にご迷惑をおかけするところでした」
いや、本当に。そこまで気が回っていなかった、私が甘かった。
私欲のためだけに浪費するつもりはなかったけれど、何に使うにせよ貯めこむ必要はあるので、それだけで嫉妬を買う恐れはある。
使うあてもなく(あてはあるのだが)金を貯めこんでいる、などという噂は、現世も今世も悪魔の尻尾を生やすらしい。
特に、我が家の父など、貯めているお金の一部で、絶対に酒を買う。それを外で吹聴するに違いない。
そうなったら、村八分にされてもおかしくない。
「う~ん……ですが、そうすると……」
どうしたものか。
どれだけ売れるか見込みもわからない上に、私一人の自家生産なので、ちょっとずつしか収入にならないだろう。一方、村の助けになるような買い物は高くつくので、お金は貯めねばならない。そして、貯めていれば問題が起こる。
「うむむ……」
自分の考えに没頭していると、突然、隣の人影が立ち上がった。
「アッシュ君をいじめないで!」
私の隣は、もちろんマイカ嬢だ。彼女は、顔を真っ赤にして自分の母親を睨んでいる。
いえ、いじめられていませんよ。むしろ、非常に優しくして頂いています。
「あら、この母に逆らうつもり、マイカ」
なぜにそこで悪役スマイルをするのですか、ユイカ夫人。
すごい。すごい似合っている。キャー、ステキー!
「アッシュ君に意地悪するならお母さんだって許さないんだから!」
「どうして? アッシュ君は悪いことをしようとしているのよ」
ユイカ夫人の指摘がなかったら、村の人間関係を崩壊させていたかもしれないので、返す言葉もない。
私と違って、マイカ嬢はたっぷりあるようだけれど。
「そんなことない! アッシュ君は皆のために家畜を買ったりとか、農具を買ったりとか、どれが一番村のために良いか一生懸命悩んでたんだから!」
「あら、それは初耳だわ」
そうなの、と悪役スマイルを忘れて、ユイカ夫人は頬を押さえる。
でも、訴えることに必死のマイカ嬢は、その変化に気づかない。
「本当なんだから! アッシュ君はずっとずっと村のことを考えてる、すっごい人なの!」
「あと、とっても素敵な人ね?」
「そうだよ!」
ユイカ夫人のさり気ない同意を求める言葉に、マイカ嬢は即座に頷いた。多分、脊髄辺りで反射していたと思う。
「そこまで力強く褒められると照れてしまいますね」
小さく笑って呟くと、マイカ嬢が硬直した。そして、これ以上赤くならないと思った顔が、もっと赤くなって、椅子に崩れ落ちる。
慌てて肩を支えると、どうやら彼女は気絶しているようだった。
私はちょっとびっくりしたが、ユイカ夫人は口元を押さえて上品に、しかし大笑いしている。夫の方も同じ仕草だ。似た者夫婦である。
「いきなり何の演劇が始まったのかと思いましたよ、ユイカさん」
「マイカってば、こういうところがすごく可愛くて」
「確かに可愛らしかったと思いますけど……びっくりしましたよ」
「そう? アッシュ君も、マイカみたいに慌ててくれると期待したんだけど」
そんな目元に悪戯っぽさを滲ませた顔で微笑まれると、掌の上で転がされたくなってしまう。だが、隣にいる旦那様が、私の理性の後押しをしてくれる。
旦那様はユイカ夫人の表情にうっとりと、ちょっとだらしない顔で見惚れている。誘惑に負けたら、私もあの顔になると思うと踏みとどまらずにはいられない。
「さて、冗談はさておき……アッシュ君は、お薬のお金で、そんなことを考えていたの?」
「ええ。私は、この村での生活をちょっと苦しいものだと感じていまして、少しでも楽にしたいのですよ」
誘惑に耐え切り、私はかろうじて守り通した真面目な顔で頷く。
我ながら、紳士のレベルが上がった気がする。
「それなら、お薬のお金で、クイドさんから食べ物や道具を買えば楽になると思うけれど……」
その言葉には、苦笑するしかない。
ユイカ夫人としては、私が誘惑にぐらつかないか試しているのかもしれない。
だが、そのくらいで満足できるほど、私の前世らしき記憶の豊かさは、低くない。
そう、低くないのだ。
必要なのは、現状での最上級ではない。今ここに存在しない最低限なのだ。
それは、夢物語の本の中にしかないような代物だ。まず、死ぬまでに手に入れられることは叶うまい。
だが、ほんの少し、ほんの一粒だけでも、その夢を叶えようとするならば、それは社会全体の力に頼るしかない。
一人で無理なことなら、百人の力を使う。
百人の力で無理なことなら、一万人の力を投入する。
そのためには、一万人の余力を産まなければならない。
どうせ叶わぬ夢なら、私はそれを為してみたい。
「皆の幸福が私の幸福……なんて、聖人君子ぶるつもりはありません」
私は、唇をつり上げて笑みを作る。
「ただ、私が求める贅沢には、どうやら皆の幸福が必要みたいなのですよ」
夢見る笑みは獰猛で、叶わぬ野望に飢えている。
ユイカ夫人の表情が、わずかに強張った気がする。
私の笑みは、卑しいだろうか。不吉だろうか。
わからないが、知ったことではない。
これが私の、今世の生き方だ。
見つめる先で、ユイカ夫人が固い声で探ってくる。
「どんな贅沢を、求めているのかしら。聞かせてもらっても?」
「何の変哲もない、子供らしい夢ですよ。本の中にしかないような、便利で豊かな生活を送りたいのです。古代文明の伝説のような日々をね」
上下水道に冷暖房、衛生的な住居に新品の服、お腹一杯の食卓に美味しいお酒。重労働には機械の助けがあり、馬より速く走る移動手段が世界を繋ぐ。
ああ、涎が垂れそうになるほど恋しい文明の利器達よ。
今の私にはその原理も、構造も、運用法もわからぬ人智の結晶達。
私一人ではその発掘から材料調達、製造までとても手が回らない。
やはり人の手が必要だ。
それも大量の人の手が。
有力な協力者の手が。
ユイカ夫人。さきほど、おっしゃいましたね。やり方を一緒に考えさせてもらいたい、と。
ならば、考えて頂きたい。この強欲な夢追い人が、転ばずに走り続けられる方法を。
「というわけで、ユイカさん、村のために売上金を寄付するので、アロエ軟膏の儲け話に一口乗りません?」
今なら先着特別役員ということで、経営への参加はもちろん、大きな利益配分が期待できますよ。
愛嬌たっぷりに笑いながら、誘いをかける。ユイカ夫人から見れば、悪魔の手招きにしか見えないだろう表情だ。
「アッシュ君は、マイカの話よりずっと面白くて、恐い人ね」
「変わり者で申し訳ございません。でも、疫病神の類ではないと思いますよ」
私の答えに、ユイカ夫人はくすくすと花のように笑った。
それはすぐに、有能な経営者が、雑誌インタビューで見せるような知的な笑みに変わる。
「アッシュ君、新しい産物の開発者であるあなたからそう提案してもらって、助かりました。喜んで、あなたの儲け話に協力させてもらうわ」
「こちらこそ、願ってもないことです」
指摘された問題は完全に盲点だったが、最終的には話を通さねばと思っていた村長家を早々に協力者にできたのは僥倖だ。
これでクイド氏との交渉もやりやすくなるし、村長一家が持つ都市での人脈を使うことができるかもしれない。他にも、色々と足りない私の計画を助けてくれることを期待できる。
もちろん、一方的に助けられるだけでなく、私からもそれ相応の誠意を見せていきたい。
そうだ。
協力者への誠意の証として、さっさと軟膏化の手順をマニュアル化して、ユイカ夫人に放り投げ……託すことにしよう。
「では、近日中に軟膏化のやり方をまとめて、紙に書いてお渡ししますね」
「いいの、そんなことをして」
「もちろんです。私は助けて頂くのですから、情報は全て開示しますとも」
私がやるのは面倒なので、どうぞ権利丸ごと持って行って頂きたい。ユイカ夫人もマイカ嬢も文字が読めるので、紙で渡すだけで十分再現できるだろう。
村全体の生活が向上するなら、私には最低限の利益で良い。
具体的には、紙とペンを買ってくれたバンさんと、おまけしてくれたクイド氏へのお礼分、そして実験のために消耗した物品(紙や鍋など含む)の補償をしてくれれば十分だ。
もっとくれると言うなら、ありがたくもらう。その時はフォルケ神官に渡して、別な本を購入する積立金にしてもらおう。
「もし順調に売れるようでしたら、やり方はそれほど難しくはありませんので、村の人に手伝ってもらえればと思っています。ま、売る前にこれは気が早すぎますね。その辺りの采配はお任せいたします」
「そう……わかったわ。すると、アッシュ君はこの後、どうするつもりかしら」
お暇して帰ります。などということを聞かれていないことはわかっている。
アロエ軟膏に関しての権利を実質放り投げたのだから、何を考えているのかということを確認したいのだろう。
子供にそこまで警戒しないで欲しい。
「バンさんのお手伝いや、フォルケ神官のお手伝い、それと別な本を読んで、その知識を試してみたいですね。まだまだやりたいことがたくさんあります」
試してみたいことでいえば、薬の次は毒に手を出してみたい。
こういうと非常に危ないことに手を出すように聞こえるが、殺虫剤や殺鼠剤の類だ。特に鼠用のものはぜひとも開発したい。怨敵を手軽に殺せる。
薬は、毒を適量で扱わねばならないが、毒は薬を適量以上で扱えば良いのでぐっと楽になるはずだ。
モルモット君が大活躍するぞ。
殺意が盛り上がって参りました!
とりあえず、バンさんと一緒に狩りに行こう。そして毒草を手に入れなければ。
秋になると、短いとはいえ冬の間を乗り切るだけの穀物を倉庫に貯蓄しなければならない。それまでに新たな鼠対策ができれば、越冬が一段と楽になる。
楽をするために、努力は惜しまないぞ。