灰の底11
「わあ、びっくりしました」
突然、肩を掴まれ、川魚を放り投げそうになった私は、相手の顔を見てそう口にした。
精悍な顔立ちの二十代前半の男性は、話したことはないが、見知った相手だ。
「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね、バンさん」
唇を真一文字に引き結んだ鋭い眼差しの猟師、バンさんである。彼は、小さく頷くだけで、無言のまま私の対面に腰かける。
黙ってないで、なにか喋って。
「ええと、よろしければ、一匹食べます?」
会話を振るが、バンさんは少し間をおいて、首を横に振った。
このように、バンさんは無口で無愛想なので、子供達の間で怖い人という認識がされている。
ちなみに未婚らしい。中々格好いい人だと思うのだが、こうまで無口だと仕方がないと、私も思う。
「どうした」
低い声が聞こえて、私は思わずきょろきょろと周囲を見回してしまった。
今さら気づいたが、私はバンさんと話したことがないどころか、この人が誰かと話しているところも見たことがなかった。
今の低音が、バンさんの声なのか。
感心していると、バンさんは小さく首を傾げる。質問に答えなかったので、訝しまれてしまった。
「ああ、すみません。そうですよね、こんなところに私が一人でいるのはおかしいですよね」
ん、とバンさんに小さく頷かれる。そりゃそうだ。
「まあ、簡単に言うと、絶賛遭難中なのです。よろしければ、私を村まで連れて行ってくださいません?」
バンさんは鋭い目で何度か瞬きをした後、ん、と頷いてくれた。
良かった。これで帰れるはずだ。
猟師であるバンさんは、ほとんど唯一のこの森のスペシャリストだ。他の村人は、山菜取りのために浅いところしか利用しないが、彼は森の中をどこまでも入っていく。
安堵とともに、焼けた魚をかじる。
帰れるからと言って、完成した料理を食べないで行くなんてもったいない。
もぐもぐしながら、無口なバンさんに話しかける。
「いやあ、助かりました。昨日、いつもの山菜取りに皆で入ったのですが、アロエの木を見つけるために倒木に登った後の記憶がないのですよね。どうもその時に気絶してしまったらしく、気がついたら全く見知らぬ森の中というありさまです」
バンさんは再び首を傾げる。アロエの単語に反応したようなので、「アロエですか?」と聞き返すと、頷いてくれた。
無口ではあるが、コミュニケーションが嫌なわけではないようだ。
「アロエというのは、これですね」
朝に食べた残りを見せると、バンさんは納得したような顔をして、呟いた。
「傷薬か」
「ほほう?」
ちょっとお待ちなさい。
バンさん、あなたはこれが傷薬になるということをご存知のようではありませんか。
「バンさん、ひょっとして、この植物を前々から知っておられました?」
こっくりと頷く猟師さん。
おぅ、なんということでしょう。
それならどうして、村人はこのお役立ち植物について知らなかったのか。あんな森の浅いところにもあるというのに。
「どうしてご存知なのか、お聞きしてもよろしいですかね? 他の人は全く知らないように思うのですが……」
「猟師の」
そこでバンさんの説明は終わってしまった。
どうしてこの人はこんなに言葉が短いの。長く話すと死んじゃう呪いかなにかなの。
「……教え」
私が意味不明のまま困っていると、ものすごく遅れて説明の続きがやって来た。
「猟師の、教え……ですか? つまり、猟師の間で伝えられる知恵とか、そういう?」
ん、とバンさんは頷く。どうして満足そうなのか。
とはいえ、話はわかった。
山菜取りを行うとはいえ、私達はそもそも農民だ。畑の専門家とはいえるが、森や山の専門家ではない。
一方、猟師は森や山の専門家だ。日常の一部が、確かに森にある。
森について、農民が知る機会がないことまで知り尽くしているのは当然だ。森で狩りをしていれば怪我も良くするだろうし、自然と薬草に詳しくなりもしよう。
できれば、その知識をもっと広めて欲しかった。が、しかし……。
「ということは、この本に載っている植物を、バンさんはもっと知っているのでは?」
ん、とバンさんは首を傾げる。
表情が変わらないが、その代わり良く首が動く人だ。無言の会話がちょっと面白くなってきた。
「実は、食べたり薬にできる植物がもっとわかれば、村の生活も楽になるのではないかと考えまして、その最初の一歩としてアロエを見つけたのです」
ん、と頷くバンさん。
「よろしければ、バンさん、この本に載っている植物をご覧になって頂けませんか? もし見知ったものがあれば、どこにあるか教えてくださると嬉しいのですが」
すすっとバンさんの隣に移動して、本を開いて見せる。ほとんどの子供が目をそらすほど鋭い眼差しが、素直に本を覗きこむ。
パラパラとページをめくると、見知ったものを指さして教えてくれる。
予想以上に、その数は多い。
「ほほう! 素晴らしい……素晴らしいですよ、バンさん!」
本は改めて語るまでもなく素晴らしいが、実地において育まれた経験もまた素晴らしい。どちらも人智の偉大な成果だ。
今までどうしてこれらを利用しなかったのか、というくらい多種多様な植物があるではないか。
もちろん、実際には利用することが難しいものも多いのだろうが、もったいないことをしてきたと思う。
「ところで、バンさん。一つご相談なのですが……」
食べ終えた魚の骨を竈に放り捨て、私は礼儀正しく頭を下げる。
「村へ帰る前に、いくつかご存知の植物を回収してみたいのです。負担にならない範囲で結構ですので、ご案内をお願いできませんか」
せっかく森のスペシャリストに出会えたのだ。帰りがけにその優れた知識を分けて頂きたい。私一人で探すよりはるかに手間が省けるし、安全だ。
遭難したことで生じた幸運を最大限に活かす、合理的な提案だと思う。
なのに、バンさんからは、微妙に呆れられたような顔をされた。
待って。拒否しないで。ほら、可愛い可愛い子供の心からのお願いですよ?
いやいや、無理にとは申しませんとも。こちとら絶賛遭難二日目ですからね。
ただ、ただ帰り道にあるものだけで良いのです。ちょっとだけ、ちょっとだけ寄り道をできれば、後々村の皆が幸せになれる(かもしれない)のです。
必死にプレゼンテーションした結果、バンさんが仕掛けている近くの罠を見て回り、明日村へ帰るということになった。当然、その道中の野草を教えてもらえる。
猟師の仕事としても、罠の確認は怠りたくなかったようで、この日程は都合が良いそうだ。
無口なバンさんからこのことを聞き出した時、だったら必死にお願いしなくても良かったじゃないか、と思ったのは内緒だ。
****
その日、前世らしき記憶には全くない野草を、バンさんはあれこれと教えてくれた。
そして、農民がそれらを知らないのも無理はないことを理解した。
あるものは手間がかかりすぎ、またあるものはよく似た毒草があるか、微妙な加減で毒になるのだ。
毎日のようにそれらを見ている猟師であっても、非常時でなければ手に取らないものや、判断に迷った時は手を出さないものだと、バンさんが教えてくれた。
例外的に、毒の心配もなく、割の良い食用山菜もあったが、森の浅いところにないので農民が手にするのは難しいそうだ。
魔物の危険があるから。
まだ私なりの答えが出てないのだけど……本当に魔物っているの? どうなの、今世。
その辺は不明瞭なままだが、一夜を共にして、無口なバンさんは結構面倒見が良いことがわかった。
歩くペースを合わせてくれたし、罠にかかっていたリスの解体を見せてくれたり、そのリスと私の知らない野草で美味しい鍋をご馳走してくれた。リスの解体は正直グロテスクでしたけどね。
今回のことは非常に貴重な経験だった。
なんといっても肉が食べ……本の中の知識を、実地のものとして教えてもらえたのだ。
肉が実においし……有意義な植物の利用方法の研究のためにも、時々で良いので、バンさんの仕事に付き合わせてもらえないだろうか。
父の説得と我が家の畑の世話、読書の時間など諸々の都合がついたら、足手まといだろうがバンさんにお願いしてみよう。
そんな検討をしながら、バンさんの後をついていくと、見知った景色に足を踏み入れた。
アロエの木に、岩に倒れかかった木。村から近い、山菜取りのエリアだ。
「なるほど。こんな立地になっていたのですね。ほら、あのアロエの木ですよ、私が気絶する前に見つけたのは」
指をさして話すと、バンさんは頷いてから、倒木に目をやる。
「ああ、そうです、そうです。あの倒れた木に登って、アロエの木を見ていたのですね」
私からそう聞くと、バンさんは倒木へ向かって歩いて行く。何がしたいのかわからないが、倒木の様子を観察して、しばらく首をひねっていた。
だが、無口な猟師は何も言うことなく、私に視線を向けると、そのまま村の方へと再び歩き出した。
一晩で、それなりにバンさんと意思疎通をできるようになったつもりだが、まだまだわからないことが多いようだ。
言葉とは偉大な発明であるな、と私は本を撫でる。
それにしても、ようやくここまで帰って来られた。
村に戻ったら、ひとまず自分の家でゆっくり眠りたい。野宿は、中々疲れがとれないものなのだと思い知る。
九歳児の体力は底が見え、気を張っていないと、今にも眠りに落ちそうだ。
「もう少しだ」
そんな私の体調に気づいているのか、バンさんは頻繁に振り向いて私を確認してくれる。無愛想で無口だが、この人は本当に面倒見が良いと思う。
ありがとうございます、と頭を下げつつ、心の中ではもう無理、もう駄目と不平不満を垂れ流す。
そして、ようやく村にたどり着き、ふらつきながら広場に差し掛かると、なんだか村人が勢ぞろいしていた。
一体何事だろうかと、私とバンさんは顔を見合わせる。
いかな小さな村とはいえ、それぞれ毎日の生活に忙しい寒村のことである。
村人が勢ぞろいするなど、豊穣祈願祭と収穫祭、春迎祭といったお祭りの時か、誰かが結婚した時、そして、誰かが死んだ時だ。
この間、春のお祭りは行われたので、祭りはありえない。結婚も同じく、狭い村でのこと、いきなり誰かが結婚しましたなどということはない。
とすると、不幸があったことになる。
残念ながら、これは良くあることだ。
一体誰だろうか。
お年寄りだとマデル老が大分危なかったが、若者でも突然の病に倒れても不思議ではない生活だ。
沈んだ雰囲気の村人達に、歩み寄って声をかける。
「あの、何があったのでしょう」
その瞬間、村人全員が、ぎょっとした顔になったのがわかった。
例外は、私とバンさんだけだ。こちらは、そんな意外な反応に首を傾げるしかない。
誰もかれもが、なにがなんだか訳がわからない、という沈黙に包まれた中、最初に動いたのは、マイカ嬢と我が母だった。
二人の女性は、私の名前を呼びながら抱きついてきたのだ。
待って。
森の中を歩き回って足腰がガタガタなのです。
一人でもきついのに二人まとめて体重かけてきたらきついきついきつい。
倒れそうになるのをなんとか踏ん張り――きれずに結局倒れた。
しょせんは九歳男児ですよ。マイカ嬢の方が発育良いからしょうがない。
倒れた私に構わず、泣きながら抱きしめてくる女性陣に、どうして良いかわからない。
誰か、この状況を説明してください。
そう思っていたら、例の祭事用の聖句本を手にしたフォルケ神官が、進み出て来た。
「まあ、なんだな、やっぱりかって感じだな」
本で肩を叩きながら、フォルケ神官は何やら上機嫌だ。
「やっぱりって何ですか。というか何ですか。この状況は何ですか?」
「そりゃそう思うだろうな。今、お前さんの葬儀を始めようってところだったんだよ」
「は?」
勝手に殺すんじゃありません。
こちとら今世で生きて行く気が満々になってまだ半年も経っていないのだ。
私の人生はこれからだ。
「なんでそんな話になっているのですか。ちょっと遭難したのでご心配はおかけしましたが、たった三日ではありませんか」
「ふはは! だろうな! ちょっと遭難で、たった三日だな!」
フォルケ神官が大声で笑い出す。実に楽しそうで何よりだが、バンさんがなんだか呆れて首を振っている。
「普通、大事だ」
あ、喋った。
結構な割合の村人が、バンさんの声を聞いて驚いている。だが、驚いた村人達も、バンさんの言葉にうんうん頷いて同意している。
そんな大げさな、と思う。
酷寒の雪山なら一夜でも命取りだろうけれども、大分暖かくなった春の森である。じっとしていれば一週間は生存できるはずだ。
しかし、首にすがりついていたマイカ嬢が、真っ赤な眼で私を睨む。
「ばかっ、一人だけ平気そうな顔して! ばかばかっ!」
そんなに平気そうな顔をしていますか。
私の今の表情は大変困惑したものだと思いますが、違いますか。
とはいえ、泣いている女の子にそんなことを聞き返せるわけもなく、困りながら苦笑すると、マイカ嬢がさらに泣き出した。
「イノ、イノシシに、襲われたって! 聞いて……っ、それなのにっ、無事で……よかったよぉ……!」
気絶した時の記憶はないが、私は猪に襲われたらしい。
ということは、あの倒木を猪が駆け上がって私をどついたのか? いや、記憶がないだけで、私が倒木から降りた後に、猪に襲われた可能性もあるか。
で、グループの男子二人が見ている前で、猪にそのまま連れて行かれたと。
なるほど。
ただの遭難ではなく、猪に襲われて行方不明になっていたのなら、葬儀が執り行われるのも致し方ない。
あの連中、基本草食寄りだけど、雑食なんですよね……。
「まあ、何にせよ、ご心配をおかけしたようで、申し訳ございませんでした」
誠心誠意、心を込めて謝罪したが、なぜかマイカ嬢と母が怒りだす。
どうしてそんな平然としてとかなんとか。
泣きながら叱ってくる女性陣とは対照的に、フォルケ神官は、腹を抱えて笑っている。
「だははは! やっぱ殺したって死ぬようなタマじゃねえよな、流石だよアッシュは!」
人をなんだと思っているのですか、この神官は。
私だって殺されたらきちんと死にます。
実際、前世ではきっちり死にました。
なんだかあれこれと騒がれてしまったけれど、ひとまず疲れたので家でぐっすり眠りたい。
あと、アロエを筆頭に収穫してきたものがどれくらい利用できるかの研究も始めなければ。研究をするとなると、やはり記録をつけておきたいところだ。
紙とペン。
行商人のクイド氏から、なんとか安く巻き上げ……提供してもらえないだろうか。




