Ⅴ.全てを圧する力
空白のような日々。
しかし、三人でいるときだけはしっかりと笑えていて。
「……ここだな」
大柄な彼が生唾を呑みこみながら言う。
「ね、ねえ。止めた方がいいよぉ……」
臆病そうな彼は既に目に涙をためていて。
「そ、そうだね。か、帰ろう」
今回ばかりは少年も、その意見に賛成だった。
「び、びびるなよ! ここで何もせずに帰ったら、学校で笑われるだろ?」
そして、そう口にする彼の声も震えている。
「でも……さぁ」
少年は改めて視線を前に向けた。
そこは人通りのない寂れた路地裏。荒廃した家々の連なる、暗い狭道。
何となく不気味で、どこか近寄りがたい。そんな感情が芽生えてくるのは、事前に知った噂のせいだけだろうか。
「でも、じゃねえ! とりあえずやるぞ!」
自分を奮い立たせるためか、いつも以上に声を張り上げる大柄な彼。
少年はおそるおそる訊ねる。
「だ、誰から……?」
そして、返ってきた答えはこうだ。
「じゃ、じゃんけんだな」
「……」
「う、うぅ……。やりたくないよぉ……」
怯える二人。本当は気が進まず、だが引くに引けない大柄な彼。
とにもかくにも三人は運命を分かつ掛け声を合わせる。その場にいる誰もが、そうならないようにと願いながら。
「「「最初はぐー! じゃんけん、ぽん!」」」
しかし、無慈悲にも裁定は下る。選ばれたのは。
「おしっ! 勝った!!!」
「わ、わ、勝てた。勝てたよ、僕!」
「……」
少年だった。
「……ふ、二人もあとでちゃんとやってよね」
しばらく呆然と自分の出した拳を見つめていたが、少年は怨みがましい目で二人を見つめながら言い放つ。
「お、おう」
「……うぅ」
気圧される二人。勝利の酔いが一瞬で冷める。
「……じゃ、じゃあやるよ」
そして少年は覚悟を決めるように路地裏へ背を向けた。
「頑張れよ! あっちで待ってるからな!」
「ふぁ、ふぁいとぉ……!」
二人はそう言いながら、その場から立ち去る。
当然だ、これは一人でやらないといけないルールだから。
「……」
この場所にいるのが自分だけになったことを確認すると、少年はゆっくりと目閉じた。
「……た、確か、こうやって」
また、すっとそこにうずくまると息を吸い込む。
「……」
同時にごくりと喉が鳴った。背筋がぞくぞくと寒くなる。
今なら、まだ。止めることも、引き返すことも。
しかし。
「だ、だるまさんが……」
少年は場の持つ雰囲気に呑まれるように、口が自分の指令系統から離れたように、勝手にそう語り始めていた。
「転んだ……」
すると、辺りが静寂に包まれる。
「……」
無音。何も起こらない。
少年の見る世界は、薄く光る瞼の裏側だけ。
けれど、気のせいだろうか。周りの空気が冷たくなっているような。
「……」
少年は意を決して目を開ける。
その場に変化はない。だが、肝心なのはそこではなく、自分のうしろに伸びる路地裏だ。
「……うぅ!」
次いで少年は勢いのまま振り向いた。そうしなければ、もはや恐怖で逃げ出してしまいそうで。
そして、そこには。
「……」
誰もいなかった。
いや、正確には黒い影が一羽だけ佇み。
『カァー』
と鳴く。
「……か、カラス?」
少年は頭の中で想像していたあらゆるものよりも、スケールダウンしたその生き物を前にして、少しだけ安堵する。
「……」
しかし、何となく不気味だった。噂通りにはいかなかったが、それでもなお。
何故なら。
『カァー』
カラスは少年を見ていたから。
「……」
その眼はしっかりと少年を捕らえている。
カラスの方へ足を踏み出しててみても、全く警戒せず、じっとこちらを見つめていて。
そしてカラスは言う。
『オ前ノ望ンダ――』
いつか聞いた声。何度か聞いた響き。
それを耳にしていると、頭がどんどんぼやけてくる。
まるで、それまでの自分が。また、これからの自分が全て曖昧になるような。
光が消え、闇に落ちる。
意識が揺らぎ、思考を保っていられなくなる。
少年の脳に濁った泥のようなはっきりとしないものが、どんどん詰め込まれ。自分という存在が占領されていく。上書きされていく、自己の底に眠る尊い記憶が。
そして。
『ギョエッ!』
彼が現れた。
『薄汚い畜生ガ』
物憂げな空気を纏う彼はそう言って、首を掴む手に力を込め。やがてカラスが力なくだらりと頭を下げると、そのままごみにするように適当な場所へと放り投げた。
「……」
少年は身動きできず、彼を凝視する。
しかし、先ほどのぼやけた感覚は少しずつ回復していて。
だから、少年はたどたどしく動く口を無理矢理開かせる。
「君は……」
誰。そう訊ねるつもりだった。
けれど、風が吹く。狭い路地を突き抜けるような風が。
だから、いつも表情を隠していた髪が舞い、彼が明らかになる。
そこには。
「……ぼ、僕?」
少年と同じ顔があった。
似ているとかそんな紛らわしいものではなく。細部まで丁寧に、執念深いほど同じ造形で。
「だ、誰なの……?」
少年は訊ねる。
しかし、返ってきたのは予想もつかない言葉で。
『貴様コソ誰ダ?』
彼はそう質問してきた。
ここからならはっきり見える。恐ろしいほど、頬を吊り上げて。
「……え?」
少年は困惑する。
自分という存在の根底、それを掴みそこねて。
「……」
少年は自分が何者なのかを考え始める。
「……ぼ、僕は」
自分は男だ。自分は小学生だ。自分は人間だ。自分は子どもだ。自分は生き物だ。自分は――。
「……」
しかし、思いつくものはどれも違和感があった。
何か水の中でもがくような感覚。どれだけ力を込めようが、その手に手応えは返ってこない。
すると、彼はこうも訊ねる。
『コレハ誰ノ望ンダ世界ダ?』
試しているような、ゆすっているような。そんな楽しげな声。
少年は答えた。
「ぼ、僕の望んだ……」
だが、少年はそこから先を続けることができなくなる。
何故なら、そのとき彼がずいとこちらへ近付いてきたから。
「う、うわあ!」
自分と同じ顔をした人間が目の前に、それはまるで悪い夢のようで。
けれど、体は動かない。抵抗できないまま少年は、彼の右手に目を塞がれた。
そして、耳元で囁く。
『貴様ニハマダ、ヤラナケレバナライコトガアルダロウ?』
すると。
「あぁっ!」
頭の中に光が流れ込んできた。
脳髄を焼くような強烈な輝き。宇宙の創世のように、何もない場所が弾け、そこから急激に世界が広がっていく。
闇が消え去り、視界が開け、そこには。
『我ハ欲ス』
金色の腕を前方にゆっくりと伸ばす、マモンの姿が。
そして。
「……ミ……ア」
それと相対する彼女の姿も。
「……あ」
少年はそこで全てを思い出す。
世界を襲った悪夢。化け物の群れ。光を放つ右腕。殺された二人。ミアとの出会い。魔界への旅路。マモンとの戦い。
自分は確かに選択した。その運命を自らの手で。
「……う」
急速に光が失われる。
気がつくと、彼の手は少年から離れていて。
「……あぁ」
体から力が消え、その場にへたり込む少年。
そんな少年に彼はもう一度訊ねた。
『貴様ハ何者ダ?』
そうして少年は気付く。忘れていたものを全て取り戻したから。
聞いたことのある彼の声。そう、それはあの日、頭の中に響いていたもの。危機に陥る度に、何度も少年に呼び掛けていた声。
少年は答える。
「僕は…………魔王だ」
すると、胸の内から熱が込み上げてきた。自分を焼き尽くすかのような、苦痛を伴う熱。
頭の中には先ほどの光景。マモンがその汚らわしい腕を、ミアへと伸ばしている様子。
それを思い出していると、何かが狂ってしまいそうで。自分が取り返しのつかないほど壊れてしまいそうで。
だから。
「な、に……これ?」
少年は困惑した。
今まで経験したこともない感情。少年の心が、意志が。全てを呑みこむ巨大な濁流のように咆哮している。
『憤怒ダ』
その疑問に答えたのは彼だった。
「ふん……ぬ……?」
少年はそれを口にすると、彼は嬉しそうに目を細める。
そして。
『卵ヨ。マモンガ憎イカ?』
そう問いかけてくる。
「……」
しかし、少年は答えることができずに口をつぐむ。
すると、彼はまた。
『卵ヨ。アノ、メイドガ欲シイカ?』
けれど、少年はうつむいた。分からなかったのだ、自身の内に渦巻く感情が。
だから、彼は。
『卵ヨ。アノ、メイドヲ誰ニモ奪ワレタクナイカ?』
そう口にする。
「……」
思い出されるのはミアとの出会い、そして短いながらも共に過ごした時間。あるいはそれは、取るに足らないと見下されるものかもしれない。下らないと嘲笑われるかもしれない。
けれど、少年の心は澄んでいた。たった、一つの想いがそこに表れていた。
「……」
おそらく、きっと。それは最初から始まっていたのかもしれない。
理屈でもなく、理論でもなく。唐突に落ちてしまうもの。避けることも、防ぐこともできないもの。心の底でいつの間にか芽吹くもの。
「……たぶん」
少年は小さく、本当に小さな声でそう告げる。
その表情は夕日のように赤く染まっていて。
『フハハハハ。今ハ、ソレデモヨイ』
彼は高々と笑った。
そして。
『貴様ニ、力ヲ貸シテヤロウ。全テヲ圧スル、力ダ』
少年は顔を上げる。そこにもはや迷いはない。
『卵ヨ、我ヲ呼ベ。我ハ偉大ナル神ノ敵対者。全テノ魔族ヲ統ベル者。我ガ名ハ――』
二人の声が重なった。
「『サタン』」




