第三小節 Find
本日は8月26日。日は既に傾きかけており、俺達名無しギルドの面々は長い長い船旅を経てつい先刻、合宿もとい旅行先の島に到着していた。着いてからの経過時間はざっと1時間と言ったところか。中々に静かな島で気候も丁度良く、バケーションには持って来いだろう。
「あ、悪い。財布置いて来ちまった。先に行っててくれ」
坂道を登りながら俺はふとスボンの右ポケットに手を突っ込んで初めて気付く、財布を旅館に置いて来てしまった事に。
「鈍臭いわねえ……。着いて早々忘れ物をするなんて。まあいいわ、こっちものんびり行く事にするから」
雪はまるで阿呆を見る様な目で俺に視線を向けている。いや、強ち間違いではないのかも知れないけれど。
ところでこれは余談だが、俺達はこの竜見島の観光名所が一つ、竜見神社に向かう中途である。竜見の名を冠するその神社は、日本屈指の規模を誇り、島の名にも採られる程立派で荘厳な物、場所としては竜見山の中腹辺りに位置しており、俺達はぼちぼちそこを目指して歩いていた。別段この時期を狙って来たと言う訳では無いのだが、運の良い事に何やら明後日そこで祭りを催すと聞くし、加え海を楽しむには最早時間が時間だったから、俺達はまだ出店の無い今の内に通常状態の神社を見ておこうと考えた次第である。
「また厄介な事に巻き込まれるなよ、君」
正直雪に借りると言う手もあったが、それは些かプライドが許さない。馬鹿らしいとは自分でも思うが、それが俺の性なのだろう。
「了解。じゃあちょっと行ってくるわ」
反転しながら俺は言って駆け出す。まだ移動した距離はそれ程では無いし、いつもの学生服を着用していた事は幸運だった。恐らく往復で10分も掛からない。
「気を付けなさいよー」
「大袈裟だな。ただ財布を取って来るだけだぞ」
轢かれ等する物か。確かに厄介事に巻き込まれやすい体質である事に違いは無いかも知れないけれど。実際今も最大級の厄介事の中心にいる訳だし。
まあ深い意味はあるまい、財布を忘れると言う間抜けを噛ましたのだから少々心配されても仕方が無いという物だ。そう思って俺は足を進める。
然して走行開始から2分。
「もう夏も終わりだなあ……」
天空に悠々と鎮座する日を眺め俺は言う。思い返せば何というか短い夏だった。中々どうして波瀾万丈な俺のまだ短い人生の中でも、最大級の激動であったと言って良いだろう。世界広しと言えどこれ程までに馬鹿らしい経験のある人間は少ないに決まっている。ああそうとも、こんな意味不明なお遊びに度々付き合わされていては堪らない。
ちなみに現在俺は緩くカーブした坂道の右側の歩道を走り降りている真っ最中で、右側の手摺りの向こうはかなり大きな段差があった。その落差、目測で4mに及ぶ。言うまでも無く常人が落ちればただ事では済まないだろう。防止策としてそこそこの高さの手摺り兼フェンスも置かれているが、何かあれば容易く落下してしまう造りだ。
まあ人というのは危険が明白であればある程、事故に巻き込まれにくくなると言う何とも奇妙な生物であるけども。然り、注意は常に払うべきである。
……さて、ここらで少しだけ話題を変えるとしよう。いや、むしろ今までの話がこれの前振りの様な物なのだから、話題を変える、と言うのには僅かながら語弊があるかも知れない。これは今気付いた事なのだが、丁度俺の手前の部分のみフェンスが低くなっているのだ。そしてそのすぐ向こうにはミシミシと言う音を立てるホッチキスの芯の様な形状の金具。赤錆が回っていていかにも古いそれには、これまた襤褸い縄が括り付けられていた。音を立てている事から察するに、あの縄が何らかの物に因って引かれているのだろう。
然うして俺がほんの一握りの好奇心を胸に、下を覗こうとした刹那――。
「ひゃっ!?」
下から可愛らしい悲鳴が聞こえてきた。いやはや、物好きもいた物である。
「大丈夫ですか?」
気付いたのだから放っておく訳には行かない。合流は幾らか遅くなるが、これは人助けだ。きっと雪も文句は言わないだろう。
「へっ!? あ、はい! 大丈夫ですよ。あー、でも……」
不意を衝かれたらしく、驚いて見せた少女はどうやら巫女の様であった。判断理由は巫女装束を身に纏っていたから、と言う極めて単純な物であるが、丁度この坂の上には神社があるし、誤りでは無いと信じたい。どこぞの誰かさんのせいでコスプレに見慣れてしまった故、そちらの線も否めないけれども……。
「でも?」
「はい……、言い難いんですけど縄が切れてしまったので登れそうにありません……。通り掛かりの所悪いんですが、もし神社に向かわれるなら誰か呼んできてもらえませんか?」
なるほど、この垂直と言っても過言では無い壁を縄を頼りに登ろうとしていた訳か。しかも草履で……。流石に無理が過ぎるだろうに。
「ああ、それなら」
別段迷うこともせず、俺はフェンスを一息に乗り越え飛び降りる。崖側に出た直後、フェンスの端を掴み一旦ぶら下がる事で減速し、そこから跳んだ為実際の落差は2.5m程度。覚悟していれば然程の痛みは感じない。
「降りて来ちゃったらあなたも登れませんよ!?」
降りた後で言われても仕方が無いんだけどな。
「じゃあ失礼しますよ」
少々紳士性には掛けるが、断られても面倒だ。なので俺は間も無く立ち上がろうとしていた銀髪の少女を掬う様に抱き上げ、足で魔方陣を描く。
「え、ええ!?」
「暴れないで下さいね」
少女の動揺は無視し、その場で軽く跳躍。続いて着地前に魔方陣を発動させ、風を以てして俺は宙空に舞い上がった。
「…………ッ……!?」
俺は既に何度もこの飛躍を行っており、はっきり言って慣れている。しかしけれども、この少女からすれば人生初の体験だろう、何らかの絶叫マシーンに乗っている気分に相違ない。そうして数を数える暇も無い内に俺は着地を極めるが、少女は目を回しかけていた。少し手荒くし過ぎた事を反省する。
「立てますか?」
訊けば大丈夫と言っていたし、立とうとしている所を見ても然程問題は無さそうだった。落ちたと言えど高所からではなかったのであろう。いやしかし、草履でよくもまああんな岩石の壁を登ろう等と思った物だ。履き慣れた運動靴でも着用しているのなら話は別かも知れないが、どうしても草履では無理がある。
「す、すみません! 大丈夫です…………、あ」
「緒が切れちゃってますね。行き先が神社なら送って行きますけど」
余程慌てていたのか、今気付いたらしい。立とうとすれば必然的に分かるはずなのだけれども、まさかさっきのジャンプで切れた訳でもあるまいし……。
「いえいえ悪いですよ。ついさっきも助けて貰いましたし……、ってすみません。お礼言うの忘れてました! ありがとうございます!」
腕の中で必死に礼を言われるのは流石に恥ずかしく感じる。何度か似た様な出来事があったとは言え、やはり慣れない物だ。少し気を抜けば目を逸らしてしまいそうである。
「俺の事は気にせずとも構いませんよ。どうせ行き先は同じなんですし、手間と言う様な手間も掛かりませんから」
そう言う俺の行き先は、本来全くの逆、しかしこの際財布等どちらでも良い。よくよく考えれば金等無くとも特に困りはしないのだ。要は何も買わなければ良いだけの話であるし。
「ほ、ほんとですか?」
少女の遠慮の裏には、確かな期待が見え隠れしていた。それはもうかなり顕著に、である。大方人に甘える事など少ないのだろう。
「もちろん」
「……なら、お願いします。それともう1つお願いがあるんですけど、お背中に回ってもよろしいですか? 嫌な訳じゃないんですけど、その……、ちょっと……」
なるほど、これは失念していた。俺は手早く少女を降ろし、背負い直して再度来た道を引き返す。
しかし中々肝の据わった人だ。名も知らぬ男の背にほいほいとしがみつく女性は決して多くない、と言うかほとんどいないと見て良いだろう。神社の巫女ともなればその辺にも寛容になるのかも知れないけれども。
「そう言えばお名前は? 俺は風峰裕城と言いますが」
「私は西の園の寺に咲くと書いて西園寺咲です。よろしくお願いしますね、風峰さん」
狙っているのだろうかこの人は。抱き付かれているとも錯覚できるこの状態に加え、俺の耳元で囁くのにはそろそろ問題がある。これで平静を保てというのも無理な話だ。
……気を紛らわせるには何か話をするのが効果的か。
「何であんな所にいたんです?」
ちょっとした話題として真っ先に思い付いたのがこれである。我ながら浅はかな考え。しかし、こんな少女がどうしてあの様な場所にいたのか、という謎はかなり印象が強かったからついつい気にしてしまうのは致し方のない事であろう。普段からあまり喋らぬ俺ならば尚更だ。
そして西園寺咲は俺の背でもそもそしながら小声で言う。
「それはですね、えっと……、他の人には秘密ですよ?」
誰かに話されると不味いのか。そもそもこれは気楽な質問であり、特に広める気等無いから構わないけれど。
「了解です」
故に俺はいつも通り淡泊に、必要最低限の言葉を返す。それに対し少女の答えは――。
「お友達に会いに行っていたんです」
――何とも奇怪で、どうにも底の覗い知れぬ物であった。