9
しばらく一人で街を歩いていると、ある女の人が目に入った。
黒く艶のある長い髪。
紫色のワンピース。
まるで絵本の中から出てきたお姫様みたいな人だった。
彼女が道を歩くだけで、何人もの男がその女性に声をかける。
「お茶でもどうですか?」
「連絡先だけでも」
女の人は慣れた様子で微笑み、ときには軽く受け流し、ときには短く言葉を交わしながら歩いていく。
私は、その姿を少し離れた場所から見つめていた。
街の明かりが彼女を照らすスポットライトのように見える。
紫ワンピースの女性は、人を惹きつける、不思議な空気をまとっていた。
私は勇気を出して、その人に近づいた。
「あの……」
黒い髪の美女が振り向く。
「どうしたの?」
優しい声だった。
私は、とっさに嘘をついた。
「私…、親とケンカして家出してきたの…」
女の人は驚いた様子も見せず、私の目をじっと見つめる。
「そうなんだ」
その一言だけだった。
責めることも、疑うこともない。
その優しさに、私は少しだけ安心した。
近くの公園のベンチに腰掛け、私たちは話をした。
「私ね」
女の人は暗くなった空を見上げながら言った。
「お父さんとお母さんがどんな人なのか、わからないの」
私は思わず顔を上げた。
「そうなの?」
胸がどきりと鳴る。
私と同じ人がいるなんて、思ってもみなかった。
「うん…。でもね、私は運が良かった」
女の人は微笑む。
「幼い頃、とても優しいおじいさんに拾われて育ててもらったの。その人のおかげで、ちゃんと生きてこられた」
その笑顔からは、心から感謝していることが伝わってきた。
「今もいろんな人に支えてもらっているから、なんにも困ってないの」
私は黙って話を聞いていた。
こんな人生もあるんだ。
風俗店の地下室で育った私には、別の世界の話のようだった。
「お父さんとお母さんがどんな人なのかわからないなら、
二人につけてもらった本当の名前、わからないってこと?」
私は恐る恐る尋ねた。
「それは、ちゃんとわかってる」
女の人は少しだけ寂しそうに笑う。
「本当の名前はね、両親が残した手紙に書いてあったの。私はそれを無くさずにずっと持ってたって、おじいさんが言っていたわ」
「……」
「だけど、おじいさんがつけてくれた名前も大切だったから、私はずっとその名前で生きてる」
少しの沈黙が流れる。
しばらくして、女の人が独り言のようにつぶやいた。
「名前はあっても、私は法律の上では存在しない人間…」
「どういうこと?」
「出生届が出されていなかったの」
私は意味がわからず首をかしげる。
「だから、戸籍がない。私はこの世に生まれたことになっていないの」
この世に存在しないという女性。
初めて会ったはずなのに、私たちはどこか似た者同士なのかもしれない。
そんな気がした。
「あなたには、あなたを想ってくれる親がいるのでしょう?それはとても幸せなことなのよ」
私が黙っていると、女性が赤いバッグの中から、一枚の紙を取り出した。
それは、一万円札だった。
私は思わず目を見開く。
「はい」
そう言って女の人は私の手を取り、お札を握らせようとする。
「これで何かおいしいものでも食べて」
「……」
一万円。
私には想像もできない大金だった。
私は、朝から晩まで働いても、そんなお金をもらったことなんて一度もない。
私はしばらく、お札を見つめたまま動けなかった。
嬉しいはずだった。
助かった、と喜ぶはずだった。
なのに。
胸の奥から、別の感情が湧き上がってくる。
どうして。
どうして、この人はそんな簡単に一万円を差し出せるの?
どうして、この人には助けてくれる人がいるの?
どうして、この人には名前があって、居場所があって、支えてくれる人までいるの?
私には何もない。
名前もない。
家もない。
誰も私を探さない。
誰も私を必要としない。
同じように親を知らないはずなのに。
どうして、こんなにも違うんだろう。
気づけば、お札を女の人に投げつけていた。
ひらり、と一万円札が地面に落ちる。
「え…?」
女の人が驚いた声を漏らす。
「いらない」
声が震える。
「こんなの……いらない!!」
私は女の人の顔を見ることができなかった。
見てしまったら、自分が惨めになる気がした。
踵を返し、その場から走り出す。
「待って!」
後ろから女の人の声が聞こえる。
でも、私は振り返らなかった。
走って、走って、息が切れても走り続けた。
胸の中で渦巻いていたのは、お金を断った後悔じゃない。
悔しい。
その一言では足りないほどの、劣等感だった。
私は初めて、人を心の底から羨み、その幸せを憎いと思ってしまった。




