第1話 商談は失敗した。なのに、恋が始まりそうな顔をしているらしい
「トラウマを抱えるアラサーサラリーマンが年下の妖精と付き合う話~ぼくと彼女の14か月間」を大幅にリライト版いたしました。
完全に行き詰まっていた物語を、何とか再起動することができました。
桜の季節が過ぎ、葉桜の眩しい季節。
アラサー営業マンの尾上と、一人の女性との出会いから始まる物語です。
仕事と恋、少しだけ大人な駆け引きをお楽しみください。
今回は、最終話まで楽しんでいただく所存です!
ピンと伸びた背筋に、綺麗に切りそろえられた黒髪。今日初めて同席したという新入社員の彼女――東堂さんは、張り詰めた空気の商談室でただ一人、清楚な花のように静かにメモを取っていた。
「いえ、このご要望は呑めません。第一これでは当社にはなんのメリットも無いじゃないですか」
「キミの会社のメリット? そんなもの知ったことじゃないよ。悪いがこっちとしてはやってもらわないと困るんだ」
「おそれながら、吉永部長。いつから私どもが御社の奴隷になったんですか? これはビジネスです。奉仕ではありません!」
ここ、取り引き先の岩田電産は国内有数の半導体メーカーで、交渉相手は業者泣かせで有名な購買部の吉永部長。
吉永部長とは新人の頃からのお付き合いで、僕は今年三十歳を迎えるアラサーど真ん中のサラリーマンだ。
吉永部長が業者に対して厳しい態度で要求してくる事は間違いないが、誠意をもって条件を提示すれば、それにきちんと「数」で応えてくれる。
僕の奮闘やチームのサポートもあって、今や関東テクノス、僕の会社の取引先としては、三本の指に数えるほどに取引量が成長した。その結果、社内では「使える中堅」扱いだ。
今日の胃がキリキリとしそうな厳しい交渉中、僕は一瞬だけ机の上に置いた一枚の名刺に目を遣った。
「購買部アシスタント 東堂 暁子」
と書いてある。
ラチが明かない交渉に正直うんざりしたからだ。
吉永部長の不機嫌そうな顔を横目にその東堂さんを改めて見た。
東堂さんは、相変わらず熱心に僕と吉永部長のやり取りのメモを取っている。
僕は心の中で現実逃避していることに気が付き、視線をまた吉永部長に戻した。
しかし、その後も商談は空回った。
そのうち、今日の交渉は時間切れで物別れに終わり、僕は挨拶をして岩田電産を後にすることにした。
つい感情的になって交渉にならなかったのは、はっきり言って僕の失敗だ。
しかしながら、今日の吉永部長はいつもと違って本当に強引だった。
「キミの会社のメリットなんて知ったことじゃない」なんて台詞は、今まで一度も口にしたことはなかったはずだ。
僕も部長の違った様子に過剰反応して生意気なことを言ってしまったな、と思い返しては気恥ずかしくなった。
社に帰ったら、すぐに電話で謝ろう。吉永部長とこのまま険悪な関係になって僕にも会社にも何もいい事なんてない。
「あのーっ! 関東テクノスの尾上さん!」
受付で入門証を返し、エントランスを出ようとした刹那、後ろから呼び止められた。
振り返ると――東堂さん……吉永部長のアシスタントの人が駆け寄ってくる。
そんなに慌てて、一体何だろう!?
「は、はい。なんでしょうか?」
「これ、忘れていますよ⁉」
彼女が差し出した手には、僕のポケット手帳が握られていた。
「えっ、どうもありがとうございます。いや、こんな大切なものを忘れていたとはヤバイな」
実際かなりヤバイものだった。
他の取引先の条件やら、今日の交渉の最終条件とか諸々が書いてあるからだ。
もっとも、僕にしか分からないように暗号化された書き方をしているので一目瞭然という訳にはいかない。それでもこれは失態だ。
自分の犯した失態に目を白黒させていると、その彼女が笑って話しかけてきた。
「あんな感じで吉永部長と張り合うお取引先と、初めてお会いしました。尾上さんってすごいですね」
と彼女は無邪気に笑った。
その人懐っこい笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥で冷たいものが泥のように這い上がってきた。――女の人の笑顔の裏側を、僕は嫌というほど知っている。かつて僕を裏切った、あの人の顔がフラッシュバックする。
たまらず、僕は彼女からサッと視線を彼女から外して宙をさまよわせた。
この数年間、女性を直視することにどうも抵抗がある。
無意識に特に初対面の女性から視線をそらしてしまうのだ。
彼女もきっと僕の挙動不審になっている様子を訝しんだのだろう。
「どうかされました?」
そう声をかけてきた。
「いえ、本当にありがとうございます。中身を吉永部長に見られたら本当にやばかったです」
すると彼女はいたずらに笑った。
「吉永部長、隅々まで見てから尾上さんに返すように言ったんですよ」
「ほ、本当ですか⁉」
彼女は笑ったまま、
「そんなこと、しませんよ。冗談です」
その一言に僕は救われたが、一方では彼女には緊張のあまりくだらないことを口走ってしまった。
「僕が部長なら絶対中を見てから返しますよ。東堂さん、僕はそのつもりで次回は交渉に望みますからそのように部長にお伝えください」
その一言で彼女の表情は曇った。
そして目が合った。すると彼女の一旦厳しくなった表情は、再び明らかに和らいだ。
それを見た僕は次の瞬間また視線を外して俯いてしまった。
すると、
「よかった、私の名前、憶えてくださったんですね」
想像すらしていなかった言葉が返ってきた。
どういうことだろう。僕は意地悪をするつもりでくだらない事をいってしまったのに?
僕は咄嗟に取り繕うように、名刺ケースからさっきしまったばかりの東堂さんの名刺を取り出して、
「あの、東堂さん。部長に今日失礼なことを申し上げてしまったので、後ほどお電話を掛けたいのですが、部長のご機嫌が良い時を見計らって掛けたいのです。東堂さんに電話をして、そのタイミングを知れたらなーと思うんですが……名刺のこの番号にかければ良いですか?」
東堂さんはちょっと失礼します、と言い僕の手から名刺を取り、持っていたペンケースからボールペンを取り出して何かを書き始めた。
「もし、名刺にある購買の部署代表番号で私が出られない状況でしたら、この個人携帯におかけください」
東堂さんは少しトーンを落とした声で、囁く様に僕に言った。
えっ、どういうことだろう?
ともかく僕は、東堂さんから名刺を再度受け取ると、丁寧に名刺入れにしまって、僕は平静を装って挨拶をし、背を向けて出口に向かったが何度か彼女に振り返ってその度にお辞儀をした。
僕には東堂さんが僕に何か取引先以上の何かを感じているように思えた。
もっともこれは僕の単なる思い過ごしなのだろうけど。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おい悟、岩田電産どうだったんだ? 上手く行ったのか?」
「いえ、今日は結論はでませんでした」
「えっ、そんな嬉しそうな顔してるのにか?」
僕は無自覚だったけど、東堂さんのことを考えていてどうやらそんな顔をしていたようだ。
「あっ、真島課長、すみません。商談失敗したのに不謹慎でした」
「ああ、別にいいよ。不謹慎だなんて。しかしウチのエースがどんな失敗を――
吉永部長と何があったか報告してくれ」
僕は吉永部長から突然無理難題を押し付けられそうになった事を詳細に課長に話した。
「どうしたんだろうな。吉永部長らしくない。あの人は厳しい交渉相手ではあるけどそんな無茶なことを言うような人じゃない」
「そこなんですよ。僕もすごい違和感を感じてしまって。思わず強く言い返してしまいました」
「これは単なる邪推だが、吉永部長も社内の誰かに無理難題を言われてるのかもしれないぞ」
「あっ、そうかもしれないですね」
真島課長は理論派の凄腕営業マンで勘が鋭い。
もっとも、僕もすぐに吉永部長はこう言っていたのを思い出した。
「オレの新しく上司になった人は結構エゲツなくてな。外資企業からの転職者なんだけど、とにかく自分本位なんだよ――」
真島課長にその事を伝えると明快なアドバイスが返って来た。
「まずは謝罪だ。売り言葉に買い言葉。そりゃオレたち営業も人間だから感情が出てしまうことだってある。次の商談ではオレも一緒に行くよ。吉永部長が困ってるなら助けたいだろ?」
「ほ、本当ですか課長⁉」
「当たり前だ。岩田電産はお前のお客さんだが、会社にとっても最重要顧客の一つだ。取引がなくなったら一大事だぞ?」
課長は本当に頼りになる人だ。 謝罪も課長の後ろ盾ができた。
僕はすぐに携帯電話に登録してある岩田電産の購買部の番号を選んで電話を掛けた。
しかし、東堂さんは出なかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
主人公 悟と吉永部長との熱い交渉の裏で、まさかの出会いがありました。
東堂さんの可愛さに射抜かれた尾上ですが、果たして営業と恋を両立できるのでしょうか。
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