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缶コーヒーと協調性

黒峰先生は缶コーヒーのプルタブを開けると、一口だけ飲んだ。


いつもの苦い香りが演習室に広がる。


「反省はそこまでだ。」


その一言で、空気が変わる。


僕は静かに頷く。


少しだけ間を置いてから、ずっと胸に引っ掛かっていたことを口にした。


「先生。」


「……何だ。」


「カムイは。」


その名前を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに重くなる。


「……まだ、見つからないんですか。」


黒峰先生は缶コーヒーを見つめたまま、すぐには答えなかった。


そして、小さく息を吐く。


「まだだ。」


短い一言だった。


けれど、その二文字に込められた重みは十分だった。


「国内も海外も動いている。」


「警察も、協会も、俺たちも探している。」


「だが、手掛かりは一つもない。」


僕は拳を握る。


何度聞いても、答えは変わらない。


見つからない。


それだけだった。


黒峰先生は静かに続ける。


「だから、この件は今まで通り極秘だ。」


「世界にはもちろん、代表の中にも本当のことを知っている人間は限られている。」


「お前が代わりに立っていることも、誰にも知られちゃいない。」


僕は頷く。


昨日の試合も。


世界中が見ていたのは『カムイ』だった。


神谷湊ではない。


その事実だけが、日本代表を辛うじて支えている。


黒峰先生は缶コーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。


「だが、止まっている時間はない。」


机の引き出しから一枚の封筒を取り出し、僕の前へ置く。


「来週から代表強化合宿だ。」


封筒には、日本代表のエンブレムが印刷されていた。


「世界大会はまだ終わっちゃいない。」


「次の試合まで時間はあるようで、ほとんどない。」


僕は封筒を手に取る。


黒峰先生は腕を組み、真っ直ぐ僕を見た。


「代表合宿でしか学べないものがある。」


「昨日、お前が見た景色。」


「世界の基準。」


「あれを知った状態で、もう一度チームを作り直す。」


先生は少しだけ口元を緩める。


「合宿は、今までとは違う。」


「世界を知っている日本代表が集まる。」


「そこで、お前たちはもう一段階強くなる。」


僕は封筒を握り締める。


敗北は終わった。


次に始まるのは、敗北を越えるための時間だ。


その舞台は、もう決まっていた。


黒峰先生は僕の手元にある封筒へ視線を落とした。


「勘違いするな。」


静かな声だった。


「合宿は仲良く練習する場所じゃない。」


「代表に選ばれた連中が、もう一度代表の席を奪い合う場所だ。」


僕は封筒を見つめたまま、小さく頷く。


世界大会の代表だから安泰。


そんな考えが通用する場所ではないことくらい、分かっていた。


「昨日、お前が世界を見たように。」


「世界を見たのはお前だけじゃない。」


黒峰先生は続ける。


「東雲も。」


「相模も。」


「白瀬も。」


「他の代表候補もな。」


「全員が、自分の足りないものを持ち帰ってくる。」


「そして、その足りないものを埋めるために必死になる。」


先生は缶コーヒーを握り直した。


「代表は、一番成長した奴が残る。」


「昨日強かった奴じゃない。」


「今日一番強い奴が試合に出る。」


その言葉に、自然と背筋が伸びる。


世界大会は終わった。


けれど、日本代表の競争は終わっていない。


むしろ、ここからが本番だった。


「神谷。」


「はい。」


「お前は世界一と戦った。」


「だから、これからは世界一と戦った人間として見られる。」


僕は少しだけ目を見開く。


「周りの期待も上がる。」


「見る目も厳しくなる。」


「昨日と同じ神谷なら、すぐに追い抜かれる。」


黒峰先生はそこで言葉を切る。


そして、ゆっくりと笑った。


本当に、ほんの少しだけ。


「だから伸びろ。」


「最初の勝利がお前のピークだったなんて笑えねぇからな。」


その言葉に、思わず笑みが漏れた。


「……はい。」


短い返事だった。


けれど、不思議と昨日までとは重さが違った。


負けた悔しさは消えていない。


レオンとの最後の一発も、今でも鮮明に思い出せる。


それでも、前だけは向けていた。


黒峰先生は空き缶をゴミ箱へ放る。


乾いた音が演習室に響く。


「今日は帰れ。」


「明日からは学校だ。」


「だが、頭は休ませるな。」


「世界は、お前が寝てる間も強くなる。」


先生はそれだけ言い残し、演習室を後にした。


扉が閉まる音が静かに響く。


僕は一人、封筒を開く。


そこには、代表強化合宿の日程と参加メンバーが記されていた。


見慣れた名前が並ぶ中、一つだけ初めて見る名前があった。


その名前を見た瞬間、僕の指が止まる。


黒峰先生が、「今までとは違う」と言った意味が少しだけ分かった気がした。


今回の合宿は、ただの強化ではない。


日本代表そのものが、次の段階へ進むための合宿になる。


---


翌日の昼休み。


湊は教室で合宿の資料を眺めていた。


参加メンバー。


日程。


練習内容。


そして、昨日見つけた見慣れない名前。


「九条玲奈……」


小さく呟いた瞬間だった。


「気になってる?」


声に顔を上げる。


白瀬が机の横に立っていた。


「白瀬さん」


「やっぱりそこ見るよね」


白瀬は資料へ視線を落とす。


「九条玲奈」


「今回の合宿で追加された選手。」


「知ってますか?」


「うん。」


白瀬は頷く。


「というより、代表候補の中では有名。」


「そんなに強いんですか?」


「強い。」


即答だった。


その迷いのなさに、湊は少し驚く。


白瀬は続ける。


「武器はサブマシンガン。」


「近距離から中距離の高速戦闘が得意。」


「高速戦闘……」


「うん。」


「九条さんの一番の特徴は、移動速度。」


白瀬は指で机を軽く叩く。


「止まらない。」


「撃ちながら動く。」


「相手が狙いを定める前に位置を変える。」


「一度ペースを握られると、相手は対応するだけになる。」


湊は資料を見る。


「そんな選手がいたんですね」


「海外にも似たタイプはいるけど。」


「日本だと珍しい。」


白瀬は少しだけ表情を曇らせる。


「ただ。」


「問題がある。」


「協調性ですか?」


湊が先に言う。


白瀬は少し驚いた顔をした。


「……よく分かったね。」


「さっきの話し方で。」


「強いけど問題があるなら、そこかなと。」


白瀬は苦笑する。


「その通り。」


「九条さんは、自分の判断で動く。」


「味方が合わせる前提。」


「合わせてもらうんじゃなくて、合わせさせるタイプ。」


湊は少し考える。


「単独では強い。」


「でもチーム戦だと難しい。」


「そう。」


白瀬は頷く。


「特に代表戦は。」


「一人で勝つゲームじゃないから。」


少し沈黙が流れる。


湊は資料の名前を見る。


「黒峰先生が呼んだ理由は……」


「たぶん、その部分。」


白瀬が答える。


「強さだけなら、とっくに候補に入ってる。」


「でも世界で勝つには、個人の強さだけじゃ足りない。」


「だから合宿で見るんだと思う。」


「九条玲奈が、チームで戦えるのか。」


湊は静かに頷いた。


「会うのが楽しみです。」


「怖くないの?」


「強い人なら。」


「戦ってみたいです。」


その答えに、白瀬は少し笑う。


「神谷らしい。」


「でも気をつけて。」


「九条さん、多分最初は神谷のこと気に入らないと思う。」


「なぜですか?」


「遅いから。」


「……」


思わず言葉に詰まる。


白瀬は笑いを堪える。


湊は資料を見る。


新しい名前。


新しい戦い方。


世界大会を経験した自分が、次に向き合う相手。


「楽しみです。」


その一言に、白瀬は小さく息を吐いた。


「いいね」


「え?」


「前なら、強い相手を見ると不安そうな顔してた。」


「今は違う。」


「……そうですか?」


「うん。」


白瀬は歩き出す。


「合宿、面白くなりそう。」


湊も資料を閉じる。


九条玲奈。


高速移動。


サブマシンガン。


協調性に難あり。


まだ会ったことのない選手。


けれど、その名前だけで。


次の戦いが始まる予感がしていた。


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