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File 4 : 伊藤遥香 6



 その後しばらく、私は楽しい気分で過ごしていた。


 香苗の奴、今頃泣いてるだろう。正人さんに話して、正人さんがそんな事してないって言っても信じられないわよね。だって、自分の目でしっかりと見たものね。ああ、愉快だわ。

 

 …そう思っていた。



 そんな私の元に、ある日、差出人の名前がない封書が届いた。何だろうと開けてみると、私と吉人がホテルで抱き合っている写真が数枚入っていた。


 えっ?何これ?

 誰が撮ったの?


 私は体が震えて吐き気がした。急いで吉人に連絡をしたら吉人の所にも届いていて、吉人はかなり狼狽えていた。


 仕事なんて行けない。行けるわけがない。怖くて怖くてたまらず、休暇を取った。

 

 2、3日すると、写真を公表されたくなかったら言う事を聞けと言う内容の手紙と共に潜入先の偽顧客名簿が届いた。


 私の任務の1つがその顧客名簿の入手であるとわかっている…ということは、この脅迫は私の潜入先の誰かの仕業。


 完全にバレてたんだ…。


 私はその偽名簿を公安に渡すことを躊躇っていた。だって、そんな事したら完全に終わりだから。私にだってそれぐらいは分かる。


 でも、躊躇っていた私の所に、ダメ出しの写真が届いた。正人さんと香苗が一緒にいる写真が10枚ほどで、あの2人をいつも狙っているぞと私に脅しをかけてきたのがわかった。


 香苗はどうなったっていいのよ。

 でも、正人さんが傷つくのは耐えられない。


 それ以降、私は完全に脅迫者の言いなりになった。言われた通りに名簿を公安に渡した後、公安潜入班の秘密も脅迫相手に渡した。


 こうして、私は脅迫者の犬になり、吉人とも連絡が取れなくなった。


 ある日、私の元に新しい指示が来た。公安の上司からの指示だと言ってSDカードを山城正人に渡せ、と言う内容だった。中身が何なのか、もう私には関係なかった。


 私は指示された通りSDカードを渡すため正人さんとこっそり会ったけど、正人さんは何も言わなかった。


 香苗は私のした事を話さなかったのだろうか?正人さんは私のした事を知っているのだろうか?


 それを知るのは怖かった。





 ある時、私はお前の飼い主に会わせてやるよと言われ、潜入しているオフィスの最上階まで連れて行かれた。


 私の飼い主、私を脅迫し続けているその男の顔を見ても私は驚かなかった。そうだろうと思ってたから。


 全日本弁護士組合の会長、伊丹健四郎


 まるで汚物を見る様な眼で私を見た伊丹健四郎は、一言も言わずに部屋から出て行った。


 

 そのとき、私に一体何があったのだろう?

 何をされたのだろう?

 私は何も覚えていない。

 

 それからは何も起こらず、私はしばらく普通に暮らしていた。会えない吉人の事も気にならなくなっていたし、公安に顔を出した日も何の違和感もなかった。



 そんなある日の夜。


 私は突然、行かなくっちゃ…って思ったの。なぜ?そんなの分からなかったけど、行かなきゃ。急いで、行くのよ。


 私は 'ごめんなさい' と書いた紙をポケットに入れて、急いで行った。どこへ?それもわからなかったけど、行がなくては!


 気がついたら、私は香苗のマンションの隣にあるビルに着いていた。


 なぜ?分からないけれど、ただそうしなければいけなかった。

 

 行かなきゃ。行かなきゃいけない!

 どこへ?

 あそこ、あそこへ行くの!

 急いで。急いで。行くの。今すぐ!


 私が着いたのはビルの屋上だった。屋上のドアの鍵は開いていて、私は手すりまでまっすぐに歩いたの。そして、その手すりの側まで行って、香苗に連絡をした。


「向かいのビルよ。屋上をを見て!」


 向かいの高層マンションの最上階。

 ゆっくりとカーテンが開かれた。

 

 見上げると香苗が窓から私を見ていた。

 私は喜びで胸がいっぱいになって叫んだ。


「香苗!ざまあみろ!」


 そして、ニヤリと笑った。

 

 私はこの先に行かなきゃいけないのよ。

 ビルの手すりから先に。

 行くよ!行くよ!

 見て、香苗!

 私は行くのよ、この先へ。

 あんたなんかの手の届かない所へ!

 

 冷たい風が吹いた?

 違う。私が飛んでいた。

 後は何も感じなかった。







     ♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 






 バイタル、正常。

 聴取を終了します。



 デジタル音声と機械音が、しんと静まり返った取調室に響いた。取調室に続くガラス張りの監視室で、久我山はしばらく動けなかった。


(山城正人は遥香さんがこうなっていたのを知ってたんだ。あの野郎!遥香さんを助けなかったのかよ)


 'インネル' の報告書を竹下に任せて、久我山は井上副総監の元を訪ねた。様々な感情が久我山の中にあって、それを抑えられる自信はなかったがどうしても副総監に会わなければならないと久我山は思った。



 副総監室で秘書官の山之上麻耶はいきなり訪ねてきた久我山を見て微笑んだ。


「あらあら、久我山警視正。

 久我山警視正がいらっしゃるだろうと副総監が仰ったので、お待ちしていたのですよ。

 どうぞ中にお入りください」


 副総監は窓の外を見ながらお茶を飲んでいたが、久我山の顔を見るなり苦しそうな顔をした。


「伊藤遥香の取調は済んだのかい?」


「はい。

 性格的に脆かった遥香さんは、少しずつ壊れていき、そこに目をつけられた。

 何もかも、酷い話でした」


「山城正人君を責めないでやってくれ。

 あいつはあいつなりに、遥香君が最初に写真を送ってきた時から遥香君の周りを調べていたんだ。

 でも、残念だが後手に回ってしまって、遥香君を助けられなかった。

 遥香君を操っていたのは、やはり伊丹健四郎だったか?」


 久我山はその問いには答えなかった。ただ、ただ腹が立って仕方なかった。


「副総監は山城正人と取引をしたのですね?

 取引内容は、山城と香苗さんを安全な場所に逃す代わりに遥香さんの取り調べで黒幕が伊丹健四郎だと暴く…ですか?

 それじゃあ、あいつは…ただ逃げただけじゃないですか!」


「逃げたのではないさ。

 それに、取引材料がなんだったのかは今はまだ言えない。

 山城君は遥香君を操っているのは潜入先のボス、伊丹健四郎だと考えていた。でも証拠が手に入らない。だから 'インネル' に賭けたいと言ったんだ。

 私も伊丹健四郎の事は手を抜いたりはしない。山城風子との繋がりもきっと暴く。だが、今はまだ材料が足りないんだ。もう少しだけ待ってくれ。

 焦って暴走はするな。今度は謹慎では済まない」


 渦巻く感情を久我山は必死で押さえ込み、山之上麻耶が運んできた紅茶とロールケーキを無言で食べた。



 伊藤遥香の調書は副総監の手に渡った。

 きっと話していた様に手元に置いて、時期が来るまで温めておくのだろう。


 悔しいが久我山にはこれ以上は何も出来なかった。





 数日後、田代が久我山の部屋に顔を出した。


「ねえ、久我山君。

 ウチの夫からの情報があるんだ」


 田代の夫は科警研の技官で薬物の検出などの研究をしているのだが、夫が同僚からこっそり聞いた話が興味深いのだ、と田代が言う。


「身元不明人の死体が上がったんだって。腐敗がかなり進んだ状態で発見されたらしいの。夫の同僚がそのご遺体の顔の修復を依頼されたようなんだけど…その顔がね…」


 生まれた時の顔面の骨格がわからないほど整形されていた、とその同僚が言ったのだそうだ。で、その整形された後の顔面を復元したら…。


「データベースにヒットしたんだって。

 誰だと思う?」


 さあね、と興味ない顔で久我山は答えたが、田代は真剣な顔で言った。


「山城正人警視正だったの!」


「えっ?それって…」


 うんと頷いた田代は、情報は以上よと言い置いて自分の部屋へと戻っていった。


 山城正人の顔を持つ男の身元はわからないまま、行旅死亡人として手続きされたという。




 しばらくして心肺機能が低下していた伊藤遥香は息を引き取った。


 親や親戚は誰もいない伊藤遥香の葬儀、埋葬などの手続きを行ったのは誰なのかは、久我山には関係のない事であった。




 

 File 4 : 伊藤遥香 Case closed

 

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