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扉の向こうに彼女はいる  作者: 円坂 成巳
一章 一人暮らしが始まって
4/8

3 夜の訪問者

 その晩、米村さんに話を聞いたこともあって、いつも以上に不安感が募っていた。アパートで何かあったのか知りたいと思っていたのに、知ってしまえば、それはそれで怖いのだった。

 米村さんのいうとおり、塩、置いてみようかな、と思った。

 御札もお守りもないが、塩ならある。母が袋入りのものを買って置いていってくれたので、それを小皿に出して山のような形にしてみた。

 それを玄関の外に置いてみる。今日は何も訪れませんように、心の中で祈る。

 実際やってみると、玄関の前に盛り塩があるというのはだいぶ絵面が怖い。でも、なんとなく清められたような気もして、少し安心する。プラシーボ効果でもなんでも安眠できればいいじゃないか。

 インターネットで、仰向けで寝ると金縛りになりやすいという情報を目にし、一人用ソファに背中を預け、天井のライトをつけたままで面白くもないテレビをぼうっと見ていた。いつのまにかうとうとしていたところ、テレビの音に異音が混ざったような気がした。――ずるっ。足を引きずるような音。

 きいいんと金属を擦るような耳鳴りが響き、身体は強張る。指先から冷気が這い上がり、頭が覚醒していく。いつもの金縛りの前兆。

 自分の身体を確認する。ソファの上に座ったまま。手は動く。金縛りにはなっていない。部屋は明るく、テレビはついたままだ。


 こん――

 音が響いたような気がした。

 よくある怪談のパターン、真夜中の訪問者系の怪談なんてべた過ぎる。なまじそういうパターンを知っているから、なにかの物音から連想してしまうのだ。よく聞いてみたら、テレビか外の音か、別の部屋の音かもしれない。

 テレビを消すと、次は二回、こんこんと扉をノックしている。

 ぞわぞわとした感覚が背筋を走る。

 家族、友達、見知らぬ人、誰かが訪ねてきたとして、普通は、こんな時間に来るのなら、事前に連絡を入れるなり、せめてインターホンを鳴らすのではないか。

 アパートの隣人、階下の人、何かのクレーム、災害、一瞬でいろいろな可能性が頭をよぎる。風呂の水が出しっ放しであふれて階下に被害を与えたと言う話を大学の先輩から聞いたことを思い出した。

 確認しなければ。

 意を決して立ち上がり、部屋の中扉を開けようとして、とっさに考える。

 玄関側は今は真っ暗なはずだが、部屋と玄関側を仕切る扉を開ければ部屋の明かりが漏れてしまう。玄関には採光扉もあるから、外にいる何者かに、わたしが玄関に近づいたことがばれるかもしれない。

 そこまで考えてまずは部屋の明かりを消した。ゆっくりと扉を開けて、抜き足差し足で慎重に歩く。お風呂の扉を開けるが、特に問題ない。

 玄関に近づく。廊下の蛍光灯の明かりが採光窓から薄っすらと差し込んでおり、なんとか暗くとも進むことができる。自分の呼吸が外に聞こえるのではないかと不安になり、静かに深く呼吸をする。ぎしっと廊下の板が軋み、喉の奥で心臓が暴れるようだった。

 玄関の鍵はかかっているが、チェーンもかけておくべきだった。叔父の忠告をいまさら思い出す。今チェーンをかければ、音が相手に聞こえてしまう。相手にこちらのことを気取られたくなかった。

 暗い中で玄関扉の前に辿り着く。また、こん、こんと扉を叩く音。さっきより強い。

 扉の真ん中の覗き窓は、蓋が被さっている。引っ越してきたときに叔父が、広角で逆覗き防止もついたドアスコープに交換していると言っていた。この状況だと心強い。蓋をずらして、覗き穴に目を近づける。前に見たホラー映画のワンシーンが頭をよぎった。覗き窓の向こうに見えるのは、本当に人間だろうか。向こうも覗き窓からこちらを見ているのではないか。そんなことを考えながら、扉の向こうを覗く。

 何もいない。……そう思った瞬間に、視界の端に倒れている影が現れる。

 声が出そうになるのを、ぐっとこらえた。

 白いブラウスに紺のカーディガン。黒っぽいスカート。青白い足は裸足。身動きしていない。はらばいになった女の人のようだ。顔は扉の真下にあるのか見えない。

 こんっ、こんっ、と再びのノック。

 この倒れている女の人が、扉を叩いているのか。もしかすると急病で助けを求めているのかもしれない。扉を開けそうになったところで、米村さんの話を思い出した。三〇二号室で亡くなった女性が助けを求めて現れるのではないかという話。ならば、外にいるのはその亡くなった女性なのか。そんなことあるのか。幽霊なんて存在するはずが……幻覚、妄想、これは夢なのか。

 確認したいが、開けてはならないと感じる。ドアノブを掴んで、心臓をばくばくさせながら考えた。でも、もし現実だったら、この人は死んでしまうかもしれない。ならば助けないといけない。開けよう。いや、まずは声をかけてみよう。

 そう決心したとき、足に何かがぶつかった。玄関の傍に立てかけていた傘だった。しまったと思うがもう遅い。ぱたっ――意外なほどにはっきりと響く音。

 ノックの音が止まった。――ずるっ、扉の前に何かを引きずる気配。のぞき窓を見ると、女が扉に持たれるように起き上がっていた。私よりも、背が高い。顔が覗き窓よりも高い位置に動いていく。顔が一瞬見えたが美しい顔立ちのようで、髪は肩口にかかる程度の長さだったように思う。ブラウスには、黒いしみ。

 ぞわっと背中におぞけが走った。黒いしみ、血液。そう連想した途端に、血が引きずられたような跡が廊下に見えているのに気がついた。

 ギリギリと不快な音が耳に障る。女が扉を引っ掻いているのだと思った。どんっ、響くのは、ノックというか打撃音だ。体の動きから、扉に頭を打ち付けているのだとわかった。

 私は、扉から離れながら、尻餅をついた。

 悲鳴は出ない。というか震えて声が出ない。でも、恐怖が感覚を際立たせるのか、現実的な驚異に対してどうすべきかと頭がすごいスピードで回っている。警察、いや、夜中だけど大家である叔父さんに電話して助けを求めるほうが早いのでは。携帯は手元にあるけれど、外に聞こえるところで声を出したくない。

 まずは離れよう。扉から目を離さずにわたしは慎重に後ずさりはじめた。音を出さないように一歩一歩確実に。

 と、突然に音が消える。ノックやチャイムが止まっただけではない。なぜこんなに静かなんだろう。車の一台も通らないのか。しんとした中に自分の呼吸と心臓の音が随分大きく響いているように感じられる。その音も外に聞こえているのではないかと不安になる。


「大丈夫か」


 声が聞こえた。叔父さんの声のような。呼んでないのに来てくれたの?もしかして外まで音が響いていたのか。

 でも、ちょっと待て。大家である叔父はすぐ向かいに住んでいるとはいえ、さすがに早すぎないか。

 たちあがって扉に恐る恐る近づく。


「大丈夫か」


 また、同じ台詞。無機質な男とも女ともつかない声。なんでさっきは叔父の声だと思ったんだろう。また声は繰り返される。


「大丈夫か」


 無視していると、扉ががたがたと揺れ、わたしは尻もちをつく。そのまま、今度こそ、扉を離れて後ずさった。そのとき気がついた。

 この玄関は、扉の上に曇りガラスの小さな採光窓がある。その採光窓に黒い影が見えた。外の廊下の電灯が点滅し、曇りガラスであることもあり輪郭ははっきりしない。

 黒い丸いもの。それは人の頭部だ。下から徐々にせり上がってくる。

 引っ掻く音は聞こえるから女は扉の前にいるはずだ。だから、採光窓から見えている頭は女のものではありえないはず。ああこれは人じゃないんだと自然に納得する。女の頭と思わしき黒い塊は徐々に上に上にと位置をずらしてくる。

 背が伸びている。いや首が伸びているのか。どちらでもいい。もう少し、もう少しで、目の位置が窓に現れる。そうしたらどうなる。見つかってしまう。

 曇りガラスの向こうに、肌色の顔がぼやけて見えた。


 ……気づいたら朝だった。

 ギャァ、ギャァというカラスの声が、頭の中に響く。目が覚めると、わたしは玄関の前で寝ていた。背中の首が重たく痛む。明るみかけの空に、カラスの鳴き声が吸い込まれた。

 大学に行かないと。今日は一限から講義がある。

 顔を洗うときも眼をつぶるのが怖かった。何かが見ているのではという不安が拭えない。

 食パンとヨーグルトを食べながらテレビを見るが、全く内容が頭に入ってこなかった。  

 出かける支度が終わって、玄関に向かい、悲鳴をあげそうになるのを、ぐっと堪えた。たぶん、顔面は蒼白になっていただろう。

 扉の郵便受けにも黒髪が挟まっている。どちらも赤黒い何か、恐らくは血がこびりついていた。そして、玄関の外の小皿に盛った塩は、床にぶちまけられていた。

 昨晩のことは本当だったのか、わたしはその場にへたり込んだ。

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