2 不穏
状況が変化したのは、吉田さんが引っ越して行った翌日だった。寝ていると、耳鳴りとともに身体が動かなくなる。久しぶりの金縛り、思ったより疲れてるのかなあ、なんて冷静に考える余裕があった。
足先に力を入れ、動け、動け、と念じる。こうしていれば自然に目が醒めるはず。
耳鳴りが止んで、しんとした中、突然、ばたんと扉が閉まる音が聞こえた。自分の部屋の音かと錯覚した瞬間、心臓が跳ね上がる。今のは、多分隣室。
続けて、ずるっ、ずるっ、という何かを引きずるような音。誰かが荷物をもって廊下を移動しているのか。
力を込めても指先一つ動かない。
いつもと違う。
ぎぎぎぎ、と何かを引っ掻くような音がした。
ごんっ。
音が響いた。わたしの部屋の扉を叩いた音だ。
扉の向こうに、何かが、いる。
ドアノブががちゃがちゃと音を立てた。鍵は閉めていただろうか。何者かが部屋に侵入してくるのではという現実的な恐怖に軽いパニックとなる。頭は恐慌状態なのに、体は相変わらず動かなくて、それがさらに恐怖を加速させた。
怖い。怖くて、なんとかしなきゃと思うのに身体を動かすことはできない。
扉を叩く音は続く。わたしは悲鳴をあげようとするが、声は出ない。泣きそうになりながら、体を起こそうと全身に力を入れようとする。
はっと覚醒すると、全身に嫌な汗をかいていた。もしかすると、たまたま隣人が外出したタイミングと金縛りが重なって、おかしな夢を見たのかもしれない。そう思えば少しは怖くなくなる気がした。
いや違う、隣室の吉田さんは今日出て行ったばかりではないか。
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。吉田さんが夜中に忘れ物を取りに来たのかもしれない。それに今のが隣室の扉の音とは限らない。アパートのどこから音が聞こえているかなんてわからない。うちの扉をがちゃがちゃと開けようとしたのはおかしいが、廊下の音が聞こえたために見た夢ではなかったのか。そうだ、そもそも全部夢の可能性が高い。
そう考えても、身体の芯には冷たいものが残り、その晩は寝付けないままに長い時間を過ごすこととなった。
朝になっても、背中の奥に氷のような感触が残っていた。
夢だったんだ。そう自分に言い聞かせる。
でも、夢だったと決めてしまうには、あの扉を叩く音があまりに生々しかった。カーテンの隙間から射す光は、安心感はあるが、現実のほうが少し作りものめいて見えたくらいに。
――その夜も、同じ時間に、またあれはやってきた。
その夜以降、わたしは連日、同じ体験をするようになった。起きて時計を確認すると、決まって午前一時を十分ばかりまわった時間である。
なんなんだ、とひとり呟く。完全に寝不足だった。
大学で「最近顔色悪くない?」と指摘された。睡眠不足で頭が冴えないままに「そうかな。ちょっと寝不足で」と答える。
大学の講義が終わっても、すぐにアパートに帰る気になれない。一旦図書館に寄って時間をつぶしてから、アパートの前まで帰ってきて、3階を見上げた。
楽しみにしていた一人暮らしなのに、こんなことになるとは。今日も、あれは来るのだろうか。
アパートの3階は、三〇一号室だけに灯りがついている。
ベランダに動く影が見えてどきっとする。部屋の方が明るくて初めはよくわからなかったが、トネさんが、洗濯物を片付けているようである。朝のうちに洗濯物を干しておいたのだろう。実家でも母が夜間電力で洗濯する習慣だったから、私も夜か早朝に洗濯をする習慣だ。
真ん中の部屋は、今は吉田さんが引っ越してだれもいない。それなのに、なんだろう。暗い部屋のレースカーテンの奥に、何かが存在するような感覚を覚える。何か影のようなものが動いたような……何かがこっちを見ているような感覚。これも気のせいだ。車のライトが点灯している時間帯だから、光の反射とかでそんなふうに見えているだけ。怖いことは何もない。わたしがイメージしてしまうだけ。
「祥子ちゃん」
呼ばれてびくっとしながら振り向くと、細身の男性が、うっすらと笑みを浮かべ、コンビニの袋を手に下げて立っていた。
「こんばんは」
米村さんだ。たいして親しくもないのに初めから名前呼びで、距離の詰め方がちょっと合わない感じ。顔はきれいなんだけど。
「どうしたの。顔青くない?もしかして出た?これ?」
米村さんは、両手首を胸の前で曲げてだらりとさせ、うらめしやのポーズを取った。
「いや、別にそういうわけじゃ」
「ふうん。俺は見えたよ女の人」
「え」
「三階でしょ。なんか影みたいなのがいたなぁって思って。まあ、何かあったらいいなよ。あの部屋はね、あんまりよくないんだよね」
「やめてください。そういうの信じてないんで」
「そうなの?」別れ際に米村さんは言う。
「夜に何か来るでしょ。塩をお皿に盛ってさ、玄関の前に置いてみなよ」
そして、おやすみと言って、自分の部屋に向かっていった。
「あの、待ってください」と、思わず呼び止めてしまう。
「それって魔除けみたいなことですか。米村さんってそういうの詳しいんですか」
「うん。まあまあ詳しい方だと思うよ。一応、俺、オカルトライター目指してんだ。オカルト研究会の副会長だしね。興味あったらぜひ、サークル来てみてよ」
その単語、とんでもなく胡散くさい言葉だが、なぜか頼りになる気がしてしまった。
「素人でも、効果あるんですかね」
「やってみる価値はあるよ。前の住人のときも少しは効果があったみたいだし。結局、引っ越していったけどね」
「その話、聞いてもいいですか。前に住んでた人ってどうなりました。ここって何があったんですか」
「出るんだよ、ここは」
にんまりとする米村さん。目が輝いている。ずっとこの話をしたかったのだろう。
「出るって何が」
「そりゃまあ、霊なんだろうね」
「幽霊ってことですか」
「前の住人のときの話なんだけどさ。聞く?」
前の住人の話というのは興味があった。叔父からはそんな話は聞いていないし。
「お願いします」わたしは話を促した。
「一年前、三〇三号室に入った佐藤って男がいた。うちの大学の一年で、おれと同じ経済学部で、たまに挨拶するくらいの関係だったんだけど、ある晩、そこのコンビニに佐藤がいて、震えてたんだよね。話を聞いたら、夜に何かが来るって言う。真夜中に金縛りにあったり、扉を叩く音がしたりするってそう言うんだ」
そこまで聞いて不安を覚える。わたしと同じだ。
「かなり本気で怯えてて、次の日、おれもいっしょに大家に話をしに行った。三〇二号室で女性が亡くなってるのは知ってるでしょ。うちの大学の女子が住んでて強盗に刺されて亡くなってるんだよ。もともと三〇二号室は、その女の霊が出るって話があって、その時もだれも住んでなかったんだよね。でも、大家に聞いたら、隣の三〇三号室でも、夜中に何かが訪れるんだって言う住人が続いてたんだ。実は、前の住人も、その前も、似たような理由で引っ越しちまってるらしい。三〇二号室の霊が三〇三号室を訪れているんじゃないかって俺たちは考えた」
ん、ちょっと待てよ。なんかおかしくないか。
「なんで三〇三号室に。隣の部屋なのに」
「当時、三〇三号室に被害者の彼氏が住んでたらしい。だから会いに来てるんじゃないかな。盛り塩とか御札とかお守りとか試してみて、少しは効果もあったんだけど、結局、佐藤は耐えられなくなって引っ越していった。大学やめてはいないみたいだけど、最近は会ってない」
「見たんですか、米村さんも。その」
「俺は普段は三階には行かないけどね、でも何かがいるのはわかるよ。アパートの外から見ると、二階と三階の廊下に人が立っていればわかるだろ。壁はあるけど高くないしさ。夜中に住人じゃない女が歩いているのは見たことがある。三〇三号室の前で、女が扉に向かって突っ立ってるんだよ。怖いぜ。佐藤が住んでた頃は、いっしょに部屋で酒飲みながら、待ってたこともあるけど、時間になると、確かに聞こえるんだよ。扉を叩く音。誰もいないのにさ」
「ほかの住人の皆さんは?」
「おれも佐藤と一緒に二階の住人にも聞いてまわったんだけど、夜中に変な音がするとか三階の廊下を女が歩いてたとかそういう話はあるんだよ。だから建物全体で家賃下げてるんだよね。ここ安いでしょ」
あ、そうだったんだ。わたしだけ特別安くしてくれてると思っていた。
「最近はどうなんでしょうか」
「いいの、言っちゃって」
もったいぶる言い方に少しいらっとしたが我慢する。今のわたしには必要な情報だ。
「お願いします」
「しばらく音は聞こえなかったんだけど、氷川さんと吉田さんが引っ越してきてからさ。最近また……聞こえるんだよね。夜に扉を叩く音」
自分で表情がこわばったのがわかった。米村さんはにやにやとして話を続ける。わたしの表情の変化を見て、米村さんは満足した様子で続ける。
「ま、もしなにかあったら気軽に相談してよ。もう少し詳しい話もできるしさ」
この人の話を信じてよいのだろうか。普段のわたしならば、まず信じないし、距離を置くところだが。一つわかるのは、この人は、この恐ろしい話を楽しんでる感じがするということ。不気味である。できれば相談したくないと感じていた。
「一応、大家さんに話を聞いてみます」
「じゃ、何かあったら連絡してね。おれの連絡先教えるよ」
「あの、いま携帯忘れちゃって。また今度お願いしますね」
「ああそう。じゃあまた」
米村さんは笑顔で返す。わたしは不安を抱えながら部屋に帰った。




