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扉の向こうに彼女はいる  作者: 円坂 成巳
一章 一人暮らしが始まって
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1 一人暮らしが始まって


 ああ、金縛りだ。

 蒸し暑い夜、わたしは、タオルケットから両手と両足の先を外に出し、寝苦しさにあらがっていた。うとうとしかけた頃、気づくと、きいいんと耳鳴りの中にいた。

 初めて金縛りにあった記憶は、中学生の頃だった。耳鳴りの中で目覚めると、体を動かすことができず、これが金縛りというものなのかと納得したが、初めは特に怖いと思わなかった。ぼうっと天井を見ていると、木目が歪んで見えてきて、しだいに人の顔が浮かび上がってきた。わたしは焦って起き上がろうとしたが、指一本動かない。隣に寝ている妹を起こそうとするも、声が出ない。天井のその顔が、まるで餅のように、とろんと溶けるようにわたしに向かって落ちてきた。なすすべもなく、近づいてきた顔を見つめていた。恐怖とともに、口に入ってきたらいやだな……なんとなく甘そうだ、なんて冷静なことを考えていたのを覚えている。顔がぶつかったと思ったとき、体が動くようになり、顔はすでになくなっていた。

 父がそれは幻覚だと笑って教えてくれた。父は疲れているとき、夜中に目を覚ますと巨大な蜘蛛が天井から降りてくるのをよく見ると言っていた。これは幻覚だと思って見つめていると消えるそうだ。体は寝ているが脳が活動している状態があるそうで、そこで意識が覚醒しまうと金縛りになってしまい、人によっては幻覚を見るのだという。

 そういったことを知って、金縛りで変なものが見えても、しょせんは脳が見せる幻なのだと自分に言い聞かせるようにしてはいる。

 今思えば高校受験前のストレスだったのかもしれない。現実には霊などおらず、小説や映画の中だけの存在なのだ。

 今もほら、金縛りなんて、じっと待てば終わる。そう思って天井を見つめていた。変なものは見えない。見えても、脳が作った幻影に過ぎない、自分に言い聞かせる。

 とん、とん、とん。これは扉を叩く音。

 まだ、体は動かない。

 とん、とん……

 その音と耳鳴りが混じり、夢なのか現実なのかが曖昧になり、だんだんと不安な感情が身体を支配していく。

 今夜もまた、何かが来た。これはきっと気のせい。気のせいでなかったとしても、誰かの悪戯に違いない。お化けなんているはずがないのだから。


◆◆


「うん、大丈夫だよ。友達もできたし、アパートの人も親切だし。バイトは来月からね、わたしは早くはじめたいんだけど。わかってるよ。講義とか決まってからでしょ。はーい。買い物もちゃんとしてます。スーパーもドラッグストア近いからさ」


 母は、安心したようでやっと電話を切った。実家の隣県の大学に決まり、初めての一人暮らしを始めた娘のことがよほど心配なのだろう。バイトは講義やサークルで生活スタイル固まってからだとか、新歓飲み会はあまり行くなとか、絶対アルコール禁止とか、入学前から言われていた父からの伝言も改めて聞かされた。一週間ぶりの電話で、母は取り調べのように、生活のことを聞いてきた。たぶん、何も悟られずに明るく答えられたはず。

 今直面している問題は伝えなかった。伝えられなかった。

 今、わたしが体験していることは、なにか尋常ではない、いわゆる心霊現象のようなものではないかと、そんなふうに真剣に考えてしまう。

 引っ越してきて三日目の夜には、はじまっていた。大学の入学式を前に、荷解きや部屋の片付けに疲れてぐっすり眠っていたところに、ピンポーンとチャイムの音が響いた。

 深夜だ。引っ越したばかりで訪ねてくるような友達がいるわけもない。玄関を見に行くかどうかを迷っていると、今度は、二回、三回、チャイムが鳴った。どうしよう。鍵はきちんと締めたはずだが、本当にそうだったろうか。チェーンはしていなかったかも。もし鍵が空いていたら。変質者か勧誘か、前の住人の知り合いということもあるかも。とにかく、チャイムが鳴るからには、誰かがいるはずなのだ。忍び足で玄関まで行きながら、扉の前で躊躇していると、また、チャイムが連打され、扉がごんっと殴られたような音をたてた。その晩はそれきりであった。

 いたずらだろうか。母から、女性の一人暮らしなんだから洗濯物の干し方一つにも気をつけなさいと言われたことを思い出す。これからセキュリティには気を使おう、そう思った。

 そもそも、引越し中にも気になることはあったのだ。父と母と妹といっしょにばたばたと引っ越ししている最中、挨拶に来たのは下の階の米村さんという若い男性だった。この米村さんが言っていたことが不穏で、新生活に意気込むわたしの気持ちに水を差した。米村さんは、私と同じ大学の先輩だそうで、すらっとした体型で顔立ちは整っているが少し陰気な雰囲気がしていた。彼は、細い目をさらに細めて話した。


「ここ事故物件だってちゃんと説明ありました?」


「それって隣ですよね。三〇二号室。人が亡くなったって聞きましたけど」


「それは聞いてるんだね。じゃあ、君の入った三〇三号室もだいぶ人が居つかないって話は聞いたかな」


「そうなんですか」


「まあ、何かあったら声かけてよ。夜とか、気をつけて」


 親切心というよりも、わざわざ嫌な話を伝えに来た。偏見かもしれないがそう感じた。

 このアパートの一階は叔父の自転車店で、二階と三階に住人がいた。二〇一号室には看護師だという女性、二〇二号室に米村さんが住んでいて、二〇三号室には男性の会社員。わたしと同じ三階は、三〇一号室を挟んで隣の三〇一号室にお婆さんが一人暮らし。

 このおばあさんは鈴木トネさん。親切な人で、引っ越しのあいさつの手土産のお返しに手作りのクッキーを持ってきてくれた。そういう人付き合いも手作りのお菓子も得意な方ではないのだけれど、トネさんは話しやすくて懐かしい雰囲気のお婆さんで、なんとなく本当のおばあちゃんみたいな感じ。

 トネさんは、廊下で顔を合わせることも多く、米村さんの言っていた噂についてそれとなく聞いてみたことがあったのだが。


「だれがそんなこと言っているの?」


 地雷を踏んだとわかる冷たい口調、見開いた瞳にたじろいでしまう。


「あ、ごめんなさい。多分あいさつ周りに行った時にだれかが言ってたと思うんですけれど、よく覚えてないんです」


「あなたが謝らなくていいのよ。どうせそういうことを言いふらすのは米村さんだから。根も葉もないことだから気にしなくていいのよ」


 それから、この話題は一度も振っていない。わたしが夜に体験している異変は何なのか。下の階の米村さんがおかしなことを言ってきたせいで、変な夢を見ただけなのだろうか。そういうことにしよう、そう思っていた。


◆◆


 大学が決まって家を探した際に、地方とはいえ人口の多い都市部で、この好立地の物件に格安で入居できたのは、隣の一軒家に家族で住んでいる叔父のおかげだ。

 鉄筋造りで防音性もまあまあの、アパートというよりマンションと言ってもよい建物。狭い共用玄関にオートロックと監視カメラがあり、女性専用というわけではないものの女性の一人暮らしに対応したそれなりのセキュリティ。部屋は八畳洋間。お風呂と手洗いもきちんとセパレートで、築年数は経っているがリフォームされていて内装もきれい。

 きっかけは母が、長く疎遠だった兄、つまりわたしの叔父に連絡を取ってくれたことだった。叔父の所有するアパートに安価に入居させてくれることになったのである。ほとんど会った記憶のない叔父ではあったが、血のつながりと言うのはいざという時の頼りになるのだなと感じた。母は最初は下宿させてほしいと言ったようだが、さすがに叔父一家もわたしもちょっと気まずい。これでなんとか奨学金でやりくりしていく算段がついて一安心だった。おかげで、一人暮らしに反対していた父も説得して、無事に一人暮らしを始められたのだ。

 この物件は、叔父の妻の父親という、わたしからすると縁が薄い人物が建てたそうで、叔父の経営する自転車屋が一階に入り、二階と三階が3部屋ずつのシンプルな構造のアパートとなっている。

 空いていたのは、この三〇三号室と隣の三〇二号室の二部屋。叔父も大事な収入源を、姪のためにただで提供してくれているわけではない。三〇二号室は五年ほど前に人が亡くなっており、特別に安くしているのだという。少々悩んだわたしと母は、結局、こちらも十分に安かった隣室の三〇三号室を借りた。ちなみに、三〇二号室には、社会人の女性がわたしと同時期に入居を決めたのだった。

 深夜の訪問者のことを叔父に相談してみると、叔父は浮かない顔だ。


「祥子ちゃん、それって一時くらいだったかな」


「それぐらいです。たぶん、一時ちょっと前ぐらい」


「うちは一応は玄関オートロックにしてるだろ。でもなあ、どうしても変な人が入って来るのは完璧には避けられないんだよなあ。窓の戸締りとチェーンロックは気をつけなよ。玄関の監視カメラもチェックしてみるから。あ、2階と3階のカメラは前にも言ったよね。ダミーだからね」


「はい、よろしくお願いします」


 お願いはしてみたものの、正直なところ、不審者をシャットアウトできるかといえばやっぱり難しい。住人の後ろについて入ってくることもできるし、極端なことを言えば一階廊下の壁を登ることもできる。


 四月の終わり、やっと生活は安定してきていた。講義も一通り決まったし、なんとなく仲のよいグループもできた。奨学金の申請も大丈夫。サークルはいくつか行ってみたがしっくり来なくて行っていない。来月からのつもりでバイトも探し始めた。

 そんな折に、隣人が引越していった。入学式から二週間ほど経った土曜日。もう四月の末。朝からがたがたと物音がした。なんだろうと思って廊下に顔を出してみると、隣室の三〇二号室に入居した吉田さんが、たぶん彼氏らしき男性と、引っ越し業者といっしょに荷物を運んでいた。

 吉田さんは黒のカットソーにデニムのボトムス、首に無地のタオルをかけていた。引っ越しして来たのが同じ日だったので、何度か話をして親近感をもっていたのだが。


「おはようございます。吉田さん、どうしたんですか?」


「おはよ。ちょっと事情があって、別のアパートに移ることにしたんだ。知り合ったばかりで残念だけど。朝からうるさかったらごめんね」


「え、引っ越しちゃうんですか」


 まだひと月もたたないのになぜ。吉田さんは、目の下に隈があり、明らかに疲れているといった表情だ。なにか言いたげなわたしの表情を察してか、吉田さんは、自分から話してくれる。


「ちょっと部屋と相性が悪かったみたい。氷川さんも、何かあったら早めに出た方がいいかもよ」


「何かって」


「ごめんごめん。何もないならいいんだよ。気にしないで」


 笑顔でそう言って作業に戻る吉田さん。ちょっと誤魔化すような言い振りが気になった。もしかして夜に何かが来るんですかと、そう言いかけて、口には出さなかった。個人的な事情は色々あるだろうし、まさか、お化けが出るんですかなんて言っても頭がおかしいと思われてしまう。後日、もう少し詳しい話を聞いておけばよかったと後悔するのだったが、このときはそこまで気にしていなかった。

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― 新着の感想 ―
わあ!じわじわと怖い……! 建物全体に怪しげなことが起こっていそうなのが、空気感から伝わってくる~! 夜中の訪問者、そうでなくとも怖いのに、金縛りと一緒にこられるとよけいに怖い! 新連載嬉しいです。楽…
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