19:第九場_ホール氏の屋敷 回復基調にある
アデイラとリーゼロッテが案内された客室は、品が良い調度品の揃った清潔な部屋だった。
だからこそ、自分たちの薄汚さが際立つようだ。手足と顔を洗うためのお湯が用意されており、二人はそれを使って、わずかながら旅の汚れを落とすことが出来た。
それからスープが運ばれてくる。具はほとんど入っていない。
持ってきたのはハリエットと名乗る女性で、これから彼女が二人の面倒を見ると言う。
彼女の前で、侍女が公爵令嬢よりも先に匙を取り、スープを口に含んだ。それから皿を持ち上げて、一気に飲み干した。
「違うんです」
空腹に耐えかねて、礼儀を失った侍女と思われたくない。実際はそうなのだが。ともかく、アデイラはハリエットに弁明した。
「私がリーゼロッテに毒見をさせていたんです。
旅の間、ずっとそうしてもらっていました」
これも本当のことだった。
あのクレイスフォルツ氏の召使から食事を与えられなかったリーゼロッテのために、アデイラは自分の分を分けたのだが、忠実なる侍女は最初、それを断った。だから「何が入っているか分からないから、あなたが先に食べるのよ」とお願いしたのだった。
「今までありがとう。でも、もう大丈夫よ。今日からは私が先に食べるわね」
「何か入っていたらどうするんですか?」
「――仕方がないわ」
旅の間とは事情が変わったのだ。
リーゼロッテはアデイラに忠実であろうとついてきた。これ以上、何かに巻き込むわけにはいかない。
「何も入ってはおりません」と、ハリエットが不服そうに言った。「旦那さまのご厚意を、そのように受け取ってはなりません」
アデイラはハリエットに礼を述べた。「ええ、勿論。そうですわ。クラウスさんに、ありがとうとお伝えください」
何が気に入らなかったのだろう。ハリエットの表情は険しいままだ。
冷たい、監視するような視線にさらされても、スープは熱くて美味しかった。
もっとも、その日の食事はそれだけだった。
リーゼロッテは、ハリエットと空になった皿を恨めし気に見送った後、アデイラに愚痴る。
「たったこれだけですか? なんて酷い扱いなんでしょう!」
「でも、お腹は落ち着いたわ。もう寝ましょう」
清潔な寝台に、薄汚れた服のまま横たわるのは抵抗があったので、二人はソファの上で眠ることにした。
ソファも馬車と同じで居心地が良かったが、寝るのに適しているかと言えば、そうではない。
もっともリーゼロッテは寝息を立てはじめた。夢の中で何かを食べているように、口をもぐもぐしている。アデイラは微笑み、侍女の髪の毛を撫でると、埃と皮脂で固まっていた。自分の髪も同じようなものだろう。
涙がこぼれそうになるのを堪える為に、上を向くと、窓から月が見えた。
銀色の光はクラウス・ホールを思い出させずにはいられない。
「あの人、どうやって生きてきたのかしら?」
クレイスフォルツ氏は、クラウスの母親は子どもを“他の男”の家で産んだと言っていた。つまりその“他の男”が父親となって、彼を育てのだろうか。それが“ホール氏”なのだろうか。
「そんなこと、どうだっていいじゃない。
私には関係のない話だわ」
しかし、アデイラは気になるのだ。月の中に、あの灰色の瞳に浮かんだ炎のような輝きを求めようとしたが出来なかった。
代わりに、本物と目が合った。
薄く扉が開いて、クラウスの顔は覗いたからだ。
アデイラは自分は眠っていて、夢を見ているのかと思った。
「起きているのか? どうしてそんな所で寝ている?」
不機嫌そうな声で目が覚めた。
いいや、彼女は寝ていなかった。リーゼロッテをそっと脇に移動させると、彼のところに行こうとした。それが彼の望みだと思ったからだ。
が――「あんまり近づかないでくれないか。君、ひどい臭いだ」
風呂に入らなかったのは、ある意味、正解だったかもしれない。
移動中、寒風が入り込んできたにもかかわらず馬車の窓は開いていたし、クラウスがずっと黙っていたのは、息を止めていたからかもしれない。
アデイラの顔が赤くなった。
自分は勘違いをしたようだ。そもそも、彼は「商品には手を出さない」と誓っていたではないか。
その通り、彼は言った。
「ただ、様子を見に来ただけ。
寝台は使わないのか? それが公爵家の作法とか?」
「まさか。
あなたの言う通り、ひどい身なりだから、遠慮しているの。
あんな綺麗なところに寝ころんだら悪いわ」
ふうん、とクラウスが呟いた。馬車の中でも聞いた反応だ。
「高く売って欲しかったら、もう少し、我儘な方がいいな。高位貴族らしく高飛車にするんだ。
そんな平民みたいな振る舞いじゃ、あいつらは“そそらない”だろうね。
何しろ、高貴な身分の娘が欲しい連中なんだから」
「寝具は毎日、変えさせる。では、おやすみ」とクラウスは去っていった。
それでもアデイラはソファに戻った。
すっかり寝入ったリーゼロッテを寝台まで運ぶ自信もない。
「お兄さまがいたら、軽々だったでしょうね」
また涙が込み上げてきた。
彼女は自分が馬鹿な真似をしたという思いを、嫌と言うほど味わった。
これまで売られてきた数多の娘たちは、どんな気持ちで夜を過ごしたのだろうか。
自分はやっぱり何も分かっていなかったのだ。
アデイラはまんじりとしないまま朝を向かえた。
翌日、ハリエットは批判がましい目で二人を見た後、やはり手足と顔を洗うお湯を用意し、それから食事を持ってきた。
「今朝はパン粥ですね」
その日の間食には、小さな甘いパンと紅茶が出た。夜になるとほんの少し、肉が出たが、アデイラは吐いてしまった。変なものが入っていたからではない。胃が受け付けなくなっていたのだ。翌朝、またパン粥に戻る。リーゼロッテには玉子がついた。間食は干しブドウがたっぷりの甘いケーキ。夜は大きな肉の塊が入ったシチューにパン。
「お嬢さま、私ばっかり食べています」
未だパン粥しか口に出来ないアデイラの前で、リーゼロッテの匙が止まった。
「いいのよ。リーゼロッテ。自分の分があるんだから、ちゃんと食べなさい。
それに、あなたが美味しそうに食べているのを見ると、私も食欲が湧くわ」
「本当ですか! え、じゃあ、もっと食べてもいいですか?」
アデイラの言葉に気をよくしたリーゼロッテは、お代わりを所望する。
ハリエットは無表情でそれに応えてくれた。
三日目でアデイラの胃にも、ようやく固形のものが納まるようになると、ハリエットがついにしびれを切らす。
大量のお湯を沸かし、二人をお風呂に入れることにしたのだ。
怯えるリーゼロッテを庇ったアデイラに対し、「もういい加減にこんな不潔な娘たちの世話は出来ません!」と叱りつける。「いくら旦那さまがまだ早いとおっしゃっても、このままでは、あなたたちも、私たちも病気になりそうです!」
「あなたたちがお風呂に入っている間、この部屋の窓と言う窓を開けさせてもらいますからね!
あとこのソファは捨てます。あぁ、もう。火にくべてしまいたいわ」
それから不意に優し気な表情を浮かべた。
「ちゃんと食べて、さっぱりしたら、気分も晴れて、まともに物事を考えられるようになりますよ。
だから言うことを聞いてちょうだい」
風呂は長くかかった。何しろ、アデイラとリーゼロッテはすっかり汚れていて、石鹸の泡も立たない有様だったからだ。アデイラは別室でお風呂に入れられているリーゼロッテを思って、気が気ではない。
「あの娘は大丈夫ですよ。
なんですか、まるで取って食われるような反応をしないで下さい」
ハリエットはアデイラの長い髪の毛を執拗に梳かした。虱でも見つけたら、丸刈りにされそうな勢いだったが、幸いにも、それは免れたらしい。
ぐったりと……これまでお風呂に入ることがこんなにも疲れるとは思っていなかった……アデイラは、その部屋の寝台に、はじめて横たわった。寝具は手触りの良い絹で出来ていて、ひんやりする。アデイラが着せられた寝間着も同じく絹だった。
別な部屋で洗われていたリーゼロッテが、こざっぱりとした木綿の黄色いドレスを着て戻ってきた。白い襟と袖が可愛らしい。彼女自身もそう思っているようだ。
「リーゼロッテ、大丈夫だった? 怖くなかった?」
それだけ言うのも精一杯だ。
アデイラの変化に、リーゼロッテは不安を露わにした。
「お嬢さまこそ、大丈夫ですか!
何か変なもの口にしましたか?」
「ええ……そうみたい」
ハリエットに冷たい水をもらった。蜂蜜と氷が入っていて、甘くて美味しい。そして強烈な眠気が襲う何かが入っている水だ。
それにリーゼロッテはドレスなのに、自分は寝間着を着ている。
「リーゼロッテ、お兄さまはクレアの宿にいるわ。
だからここから抜け出して、どうにかそこに行くのよ。できそう?」
「えぇ、無理です。私、王都なんて歩いたことありません。
それに、私はお嬢さまの側を離れません」
説得する時間はなかった。睡魔がアデイラを掴まえ、彼女はそれに身を委ねた。




