18:第八場_商人の家 令嬢の押し売り
ヘイブレアンはただでさえ貧しい土地だった。
皆で狭い土地にしがみつき、必死で生きている。長年、鍛え上げられた団結力と精神力は強靭だ。
しかし、今年の凶作はあまりに深刻だった。
王都では早い時点で小麦の高騰を見越した買い占めがはじまっていたが、辺境の地・ヘイブレアンでは情報も遅く、貯えも乏しかったせいで出遅れ、もはや手出しが出来ないほど高値となった小麦を、それでも買い求めなければならない。
すでにサイマイル王国だけでなく、隣国・ベルトカーン王国からも、人買いがヘイブレアンをうろつきはじめていた。
彼らはこれを好機と捉えているのだ。ヘイブレアンの若い娘を買い叩き、それぞれの王都で高く売る。
下種な商売だが、それに縋らなければ生活が立ちいかなくなる家が出て来るであろうことも事実だった。
「だからアデイラ嬢が代わりになると?」
「そうよ。
私は公爵家の娘だから、平民の家の娘よりもずっと高く売れるでしょう?」
クラウスは軽蔑した風に鼻で嗤った。
「あなたはそういう人間じゃないのね。
でも、世の中には貴族というものを有難がる人間がいる」
クレイスフォルツ氏もその一人だった。彼は高貴な娘を欲した。そこで目をつけたのが公爵令嬢という破格の身分を持ちながらも、困窮しているアデイラだったのだ。
「私一人で、ヘイブレアンにいる全ての娘が助かるかもしれないのよ?」
「ご立派なお考えですね」
「ありがとう。じゃあ、そういうことで、よろしく」
「誰も承知したとは言っていません!」
クラウスは焦りを見せた後、嫌そうに顔を顰めた。
「あなたは何も分かっていない。
公爵家の娘を金で買うような男がまともな人間だと思いますか?
高貴な出自のあなたを殊更、肉体的、あるいは精神的にいたぶることで、自身の優越感を満足させようとするかもしれませんよ。
自分が得た珍しい宝石を人に見せびらかすようにあちこちに連れ出され、周囲から『あれが金で買われた公爵令嬢だ』と蔑まれるかもしれませんよ。
自己犠牲は立派ですがね、耐え難い屈辱の中で後悔することになるでしょう」
彼は親切な男なのかもしれない。
アデイラはこみ上げてくる感情から目を背けるように思った。彼女自身、自分に対するあらゆる不利は考えてきたはずだったが、現実はさらに厳しい。
事実、あのクレイスフォルツ氏から遣わされた召使の男の態度は、アデイラを軽んじたものだった。金で身を売る娘など、そうしても構わないと思っているからだ。それでも公爵家の令嬢で、彼の主人と正式な婚姻を結ぶ娘だ。表向きは礼儀正しく振る舞っていたが、アデイラの侍女のリーゼロッテに対しては、むき出しの欲望を向けてきた。食事を与えなかったのは、食べ物が欲しければ、自分に身を任せろという意味もあったのだ。まだ年端もいかない少女相手に、だ。勿論、アデイラがそれを許すはずがない。食事を分け合い、どれだけ埃っぽくなろうとも、身体を洗うことはしなかった。夜は身を寄せ合って、浅い眠りについた。
道中、初老の男がいなければ、また新たな危険があった為、彼から離れることも出来ない。
アデイラはすでに意気地がなくなりかけていたが、王都を目にし、再び心を奮い立たせた。
むしろここまで来たら逃げられないという思いを強くする。
勢いのまま、クレイスフォルツ氏に買われてしまえばいい。そして、彼の正妻として実権を握り、あの初老の召使に罰を与えてやろうと決めた。
だがそれが頓挫した今、恐怖に震える唇でアデイラは言った。
「それでも構わない。
私は目の前で同じ年頃の娘たちが金のために売られていくのを見るのは耐えられない。
公爵令嬢はいいご身分だなって、批判されたくない。
どちらを選んでも後悔するしかないのなら、自分を先に売ると決めたの。
そうすれば、全て解決するから。
だから、説教はごめんだわ」
きっぱりと言い切ったアデイラを、クラウスはじっと見つめた。
「それにもしかしたら、私を公爵令嬢と崇め奉って、大事にしてくれるかもしれないじゃない?」
出来るだけ楽観的に考えよう。アデイラは笑顔を作った。「あなた、クラウスさん? ……心配して下さって、ありがとう」視界が歪み、銀色が乱反射して見えた。
そのせいで、クラウスの表情が分からない。
彼は何か考えているようだ。
そうしているうちに、場違いにもアデイラのお腹が鳴った。つられてリーゼロッテの方からも「ぐうう」という音が聞こえてくる。
「失礼ですが、そのままでは高くは売れないと思います。
公爵令嬢と言う割には、あまりに薄汚くて、みすぼらしい姿です」
「――本当に失礼ね!
長旅だったのよ」
怒っている間にも、胃は空腹を訴える続ける。
「お嬢さまぁ。もう私、立っていられません」
もしかしたらアデイラがすぐに売られることはないと知って、安心したのかもしれない。リーゼロッテはへたり込んだ。
「とにかく、私の家に来て下さい。
何か食べた方がいい。
それから身綺麗にして下さい」
「でも……」
いきなり男の家に来いと言われ、身を売ろとした娘が身構えた。
クラウスはそれをあざ笑うようだ。
「仕入れたものをそのまま売るのは能がない。
磨けるものは磨き上げ、さらに付加価値を付けて売るのが私のやり方です。
それにあなたの求めるお金持ちをすぐに探せと言われても困ります。
時間が必要です。
その間、私があなたの面倒を見ましょう」
「あの……」
食べる物や着る物の費用を請求されたら、言いなりになるしかない。
クレイスフォルツ氏も何らかの形で彼から金を借り、それを返すことが出来ずに破綻したはずだ。
「お金の心配は無用です。経費として、こちらで持ちます」
クラウスはアデイラに有無を言わせなかった。
リーゼロッテはこれ以上、歩けそうにない。アデイラは彼に従うことにする。
「ご心配なく。
商品には手を出さないのが商人です。
私は商人ですから」
不安がぬぐえない様子のアデイラとリーゼロッテに、クラウスは素っ気ない態度を取った。「大体、あなたの言う通り、私は公爵家の令嬢を自分のものにして自らの価値を上げようなんて、おかしな感覚は持ち合わせていませんので」
「……自分の妹と婚約する倫理観の持ち主のくせに?」
「それ、次に口にしたら、放り出しますからね」
よほど嫌なのだろう。クラウスの口調は本気だった。
アデイラは口元を抑え、誓う。「分かったわ」
こうしてアデイラとリーゼロッテはクラウスの馬車に乗せられ、彼の屋敷に向かうことになる。
クレイスフォルツ氏の大邸宅は、まるで沈没船のようだ。使用人たちは、すでに逃げ出した。あの初老の召使男の姿もとっくになかった。クラウスもこの大邸宅を自分で使う気は全くないようだ。彼が“父親”の財産を手元に置きたいと思うはずがない。アデイラも含めて――。
「お嬢さま……この馬車の乗り心地と言ったら!」
「本当ね。まるで雲に乗っているみたい」
これまで乗って来た馬車と比べれば段違いの振動の少なさだった。二人は今にも寝てしまいそうになる。
「寝ないでくださいね! あなた方が寝たら、誰が起こすと思っているんですか?」
「分かっているわ。
でも、リーゼロッテは寝かせてあげて。私がなんとかするから」
「公爵令嬢はお優しいことですね」
褒めているというよりも、呆れている風だった。
「私はこの娘の主人だから。私がこの娘を守らないといけないの。
クラウスさん。
私に何をしても構わないけど、リーゼロッテには許さないからね」
アデイラは眠ってしまったリーゼロッテの手を握った。この忠実なる侍女に、彼女は随分、無理をさせてしまった。反省する。この娘は、隙を見てクレアの宿に逃がそう。あそこに行けば、兄が助けてくれるはずだ。
「……そういうものなのですか?」
「何が?」
「貴族と言うものは」
「そうよ。
他の貴族は知らないけれども、ミラース家は誇り高い公爵家。
常に領民を想い、領地を護ることが使命なの。
それがサイマイル王国を護ることにも繋がるわ」
ヘイブレアンは隣国・ベルトカーン王国に対する盾なのだ。「もっとも、今のベルトカーン国王は穏やかなお人柄で、国境沿いは平和なのが幸いよ」
ふうん、とクラウスが呟いた。その後、馬車がホール邸に着くまで、彼は黙ったままだった。
アデイラとしては、自身の眠気を耐える為に、何かおしゃべりしたかったのだが、そういう雰囲気ではなかったので、諦める。
馬車の窓から外を眺めることにした。
サイマイル王国の王都はヘイブレアンと比べれば発展しているが、凶作の影響が既に及んでいるのか、どことなく陰気に見えた。
貧弱な川にかかった石の橋を渡る。古い石の橋はひどく凸凹しており、ホール氏の最新式の馬車でも振動が伝わって来る。視界の端に、赤い林檎が転がるのが見えた。リーゼロッテが起きた。
そして、馬車はホール邸の門をくぐった。




