1 そのピースが今更どこにはまる?⑤
澤田理沙
とある週末の朝、自宅マンションにて
「本当に、いっつも、いっつもいろんなとこから声がかかるんだね」
「本当にね」
「その映画って、どんな映画?」
「ホラー、現代ホラー」
「えー」
「ホラー嫌い?」
「自分から進んでは見ないけど」
「嘘、ホラーじゃない」
「は?もうなんで嘘つくのよ」
朝ご飯の席でコーヒー飲みながら笑ってる主人の腕の辺りを叩いた。
「こら、コーヒーがこぼれる」
「もう、コーヒーばっか飲むのやめて、ちゃんと他のものも食べて」
わたしと暮らすまで朝食を取らないのが主人の長い間の習慣だった。体に悪いからと矯正している最中でした。
「ホラーじゃなかったら、なんなの?」
「実際にあった誘拐事件から着想した、社会派の話で親子の話だよ」
「へー」
「真面目でシリアス。付き合ってくれる?」
「ホラーよりそっちの方がいいです」
「そうでしたか」
ゆで卵を剥いて、主人のお皿に載せた。ちょっと嫌な顔をされたが、無視した。
「なんで、その試写会に暎くんが呼ばれるの?」
「僕が原作の解説を書いたからです」
「え、嘘?」
フォークにぶら下がっていたレタスが、ポカンとしてたらパタリと皿に落下した。
「へー」
「だから、試写の最初でも一言コメントしてくれって」
「え?コメント?」
「出演者とか監督とか原作者とかと並んで僕も一言、言えって」
「ええ、嘘、すごいすごい」
「だから、コーヒーがこぼれる」
さっきよりバシバシ叩いてしまった。
「なんか有名人みたい」
すると失笑された。
「なんで笑うの?」
「あのね」
主人は少し姿勢を正して改まった表情をした。
「理沙ちゃんは僕に興味がないから知らないのかもしれませんが」
「はい」
「いや、そこ、はいっていう?」
「いいから、早く続けて」
「僕はもともと有名な編集者なんです」
「へー、知らなかった」
「同じ会社の人がみんな知ってるのに、どうして知らないの?」
主人とわたしはもともとは一つの会社で働いていました。
「経理は別に、そんなこと知らなくても仕事に支障ないし」
ふっと力なく笑っている主人の皿の上にのっているゆで卵を横からフォークで真っ二つに割った。
「ちょっ、何すんの、人の食べ物」
「あ、食べる気あったんだ」
「いや、理沙ちゃんにあげる。一つじゃ足りなかったんでしょ?」
「違う違う。なかなか食べないから、小さくして口に入れてあげようかと」
主人はその言葉にげんなりとした。
「いや、そんなことする?普通。しないでしょ?」
「そんなん、普通はどうかとか知らないけど、食べ物は無駄にしないで」
「だから、朝はコーヒーだけでいいんだけど……」
「長生きするって約束したでしょ?朝食食べない人の平均寿命は、食べる人のより……」
「ああ、はい、はい、わかりました」
それでしょうがなく自分のフォークをとって目の前の真っ二つのゆで卵を覗く主人。
「ああ、完熟だ」
「完熟はダメだった?」
「すごく、こう、バサバサとするよね。口の中で」
「じゃあ、半熟が好きなの?」
「うーん」
「むしろ生が好きってこと?」
「いや」
全てにおいてくどい人ではないけど、ポイントポイントで妙なこだわりがあるんだよな。(掃除用具や洗剤とか)ゆで卵はポイントだったらしい。知らなかった。
「パーセントでいうとどのぐらい?」
「30%ぐらい?」
それって、どうやって作るんだ?ま、いいか。どうにかなるだろう。
「じゃ、次は、3割を目指すから、今回は知りませんでしたからそれを食べてください」
「はい」
そういうと素直に食べ始めた。よろしい。よろしいです、それで、暎くん。自分はもう食べ終わったので、テーブルに頬杖つきながら、大人しく茹で卵に塩を振って食べている主人を眺めていました。
「なんかさ」
「うん」
「エッグスタンドとか買う?」
「は?」
しらけた顔をされたが構わず続ける。
「こう、ロシアの貴族が使いそうな、縁が金色とかで細かい派手な模様が入ったやつ。赤とか青とか緑とかで」
「なんのために?」
「それで、こう、3割のゆで卵をスタンドに立ててスプーンでコンコンってやってちまちま食べるの」
「……」
「そういうの、似合う。暎くん」
「似合いません」
「だって、ドラマの中でポアロ*1もそうやって食べてるよ」
「エッグスタンドなんか要りません」
断られてしまったが、わたしの頭の中ではロシア貴族の格好をした主人が(寒い冬にこう端っこにふわふわした白い動物の毛のようなものがついている真っ赤なマントみたいなものを肩から羽織っている)派手なエッグスタンドで3割のゆで卵を掬って食べている様子がすっかり出来上がってしまった。スプーンは金色、コストの問題で譲ったとしてもシルバーだな。どうしてもみてみたいなと思いながら、朝ご飯の食器を洗っていた。
着替えてきた主人が傍から声をかけてくる。
「試写会は午後からなんだけど」
「うん」
「午前中にちょっとだけよりたいとこがあって」
「うん」
「そこに行ってから会場のそばでちょっとのんびりランチして、それから試写行ってって感じでもいいかな?」
「うん、いいよ」
「お昼、何食べたい?」
「どんなお店があるのか何個かピックアップしといてよ。後で選ぶから」
「はいはい」
数時間後、都内
「病人に坂を登らせるってどうかな?」
「バスに乗ればいいんじゃないの?」
「じゃ、なんでわたし達はバスに乗らなかったの?」
「僕たち病人じゃないでしょ?」
「なるほど」
緩やかな坂を前方に見えている立派な建物を目指して歩く。
「お花とか買わないでいいの?」
「お花はこの前渡したので」
「じゃあ、今日は何をしにいくの?」
「お花とは違うものを頼まれていてね。それを渡しに」
「お仕事関係の人?」
「うん。そうだね」
「ふうん」
病院に着くと主人は正面玄関から左手の方を指差した。
「僕は中に入って用事を済ましてくるから。理沙はあそこら辺で待ってて」
「あそこら辺?」
主人の指差した方を眺める。
「前庭というか中庭というか、あるからさ」
「中で待ってちゃダメなの?」
「病院の中はいろいろ細菌とかあるかもしれないじゃない」
「心配性だなぁ」
「いいから、ね」
「はいはい」
言われた通りに左手のほうに進む。午前の時間、人影はまばらでした。適当なベンチに座ると、カバンから単行本を取り出した。それは今日試写会で見る予定の映画の単行本でした。その小説が読みたかったというよりは、主人の書いたという解説を読んでみたくて借りた。後ろから読むなんてと誰かが見ていたら怒られるかもなと思いながら、綺麗に装丁された単行本の後ろのページを捲る。
そして、その少し難しい解説をのんびり読みました。その現代社会の盲点を抉る、といったような高尚なテーマには少しも興味がなく、ただ、普段の主人とはちょっと違うトーンと口調で語られる彼の言葉を楽しんでいた。自分は読書家でもなんでもなく、文章の良し悪しなんてよくわからない。けれど、主人の書くものは好きな気がします。格調が高いと勝手に思ってました。別に誰にいうわけでもない。わたしの心の中でそう思ってるだけですから、罪にはならないでしょう。解説は短い。あっという間に読み終わった。本をパタンと閉じた。
そして、気づきました。自分の真正面に座っているおじさん。病院の服を着ているから、入院患者なんでしょう。両手で顔を覆って下を向いて動かない。様子がおかしかった。わたしは本をベンチにおいて立ち上がりました。
「あの、どうしました?具合が悪いんですか?」
誰か呼びに行ったほうがいいんだろうか。お医者さんとか、看護婦さんとか。
「誰か呼んできます」
そう言って向こうへ行こうとすると、その見知らぬおじさんはわたしの服の袖を捕まえた。
「大丈夫です。なんでもありません」
それでわかった。声が震えていた。おじさんは気持ち悪くなって下を向いていたのではなくて、泣いていたのでした。
「あ、ごめんなさい。わたし、気づかなくて……」
大の男の人が泣いている。場を外した方がいいと思い、立ち去ろうとするとおじさんはわたしの服の袖を続けて引くのです。困って声を上げた。
「あの……」
「すみません、少しだけ、そばにいてもらえませんか?」
「……」
不思議と気持ち悪いとか怖いとか思わなかったんです。全く知らない人に頼まれているのに。
普通は大人の男の人が泣くなんてこと滅多にありませんが、ここは病院ですし、この方は病気のようですし、何か事情があるのでしょう。手を振り払う気にもなれず、乞われるままに隣に座った。短い時間です。そのうち暎くんが用事を終えて下りてくる。その時までなら別に平気だろうと。
わたしがカバンからハンカチを取り出して渡すと素直に受け取った。おじさんはしばらく静かに横で泣いていて、わたしはただそこにいました。ジロジロと泣いている人を見るのも失礼な気がして、まっすぐ前を見ていた。病院に植えられた木や花や、噴水や、はたまたその背景の都会の空を。
「すみませんでした」
しばらくすると、おじさんは落ち着いて、そして、わたしのハンカチを差し出してきた。
「あの、汚してしまったんですが」
「ああ……」
「洗ってからお返しすると言っても」
「差し上げます。安物ですが」
「でも」
「これも何かのご縁ですから」
わたしは笑ってそう言いましたが、おじさんは真面目な顔でわたしのことをじっと見ました。
「わたしの顔に何か?」
「ああ、すみません」
そう言って失礼とでも思ったのか、おじさんはわたしから視線を外した。
「お嬢さんがわたしの若い頃の知り合いにあまりによく似ているものですから」
「え、そうなんですか?」
それからおじさんは少し恥ずかしそうに笑いました。
「さっきは本人がそこにいるのかと思ったぐらいで」
「まぁ」
それで泣いていたのか。驚いた。そんな色っぽい理由だったなんて。
「昔の恋人の方とか?」
「いや、勘弁してください」
はぐらかされてしまった。ま、でも、その人のことを思い出して泣くほどだ。悲しい別れをした相手なのかもしれない。あまり聞くのも失礼か。
すると後ろから聞きなれた声がする。
「理沙」
「あ、暎くん」
振り向くと主人がいました。
「主人です。ね、暎くん、聞いて、今ね」
おじさんに簡単に主人を紹介した後に、主人に向かって話しかける。主人はわたしたちの方に歩み寄りながら、でも、わたしではなくておじさんを見ていました。
「山下さん」
「え?」
「病室にいらっしゃらないので探しました」
「ああ、すみません」
頭を下げ合う2人を交互に見ました。
「え、暎くんの訪ねてきた人ってこの人だったの?」
「山下さんね。山下さん、妻の理沙です」
「初めまして」
「あら、偶然。変なの」
ちょっとびっくりして笑ってしまった。主人がそんなわたしを微笑みながら見ていて、そして、山下さんも似たような顔で微笑んでいた。
「お渡ししたいものがあって、お部屋の方に置かせていただきました」
「ああ、そうですか。それはどうも」
その後、2人は何も話すことがなくなった。しばらく沈黙のままお互い佇んでいた。
「それじゃ、そろそろ」
「ああ、どうもすみません」
お辞儀しあって向こうを向く。歩き出そうとした主人の、しかし、歩みが止まった。
「どうしたの?」
「いや、せっかくだから写真を撮ろうか」
「え?」
ポカンとした。
「ここで、こうやって会ったのも縁だから」
「はぁ」
「理沙、撮って」
スマホを渡された。そして、山下さんと主人がベンチに並んで座る。
「撮りますよー」
「ちゃんと綺麗に撮ってね」
「そんな別に誰もが振り返るような美男子でもないのに」
「そんなこと言う?」
「撮りました」
「え、今の顔で撮ったの?」
「撮りました」
隣で山下さんが笑っていた。
「ひどいな。聞きました?今の」
「聞きました」
「こう言う人なんですよ」
「ああ、もう、もう一回撮ってあげるから、文句言わないで」
何枚か撮った後、主人は立ち上がってこう言った。
「今度は理沙も一緒に撮ろう」
「ええ?」
山下さんは主人のお知り合いですし、わたしが映る必要はないでしょう?と言いかけて、ああ、違う。おじさんの思い出の人とわたしが似ていたんだっけと思い出した。ご本人の代わりというのもなんですが、これも人助けか。
「すみません。写真を撮っていただけませんか」
主人が近くにいた人を連れてくる。わたしを真ん中にして三人で並ぶ。
「僕は確かに誰もが振り返るような美男子ではないけど、理沙ちゃんは振り返るからな」
「もうなに言ってるの?」
笑ってしまった。
「本当だよ」
「もう笑わせないで。すみません」
写真を撮ってくれてる人に謝った。忙しいかもしれないのに。撮り終わった後に撮ってくれた人にお礼を言ってスマホを受け取った後、主人はスマホを開いて写真を見せた。
わたしを中心に笑っている男の人が2人映っていた。
「よく撮れたね」
「そうだね」
「後で送りますね」
主人は山下さんにそういうと立ち上がった。
「それじゃ、ゆっくり体を休めてください。お邪魔しました」
「いえ、お立ち寄りいただきありがとうございました」
山下さんはわざわざ立ち上がって主人に頭を下げました。
背を向けて2人で歩き出す。何度か振り返った。するとそこにまだ立ち去らずに山下さんがいました。振り返るたびにわたし達はまた軽く会釈をした。
病院を出て坂道をダラダラとくだりながらおしゃべりをする。
「山下さんってどんな人?」
「どんな人って?」
「どんな仕事してる人?」
「実はとある会社の偉い人」
「え、そうなの?」
「ま、理沙は知らないでもいいよ」
「ふうん」
てくてくと降りる。初夏のまだ爽やかな気持ちいい日でした。
「なんかね」
「うん」
「昔、好きだった人なのかな?なにか昔の恋人に似てたみたいだよ。わたし」
「へー」
「偶然ってあるものだね」
「そうだね」
「世界には三人のそっくりさんがいるっていうしね」
「うん」
山下さんって若い頃はどんな感じだったのかなとしばし想像してみた。その横に自分のそっくりさんを置いてみる。うまく想像できなかった。
「どんな病気なの?」
「あー」
主人はパッと空を見た。
「それはまた、理沙は知らないでいい」
一瞬ちょっと不服でしたが、でも、ま、それはそうだなと思う。袖触れ合っただけの人であっても、やはり病気とかそういう話は重いですし。そんな話をしながら、自分のカバンを振りながら気づいた。気づいて立ち止まった。
「あ」
わたしに合わせて主人も立ち止まった。
「どうしたの?」
「本、忘れてきちゃった」
「え?」
「あなたに今日借りた本」
「ええー」
「ごめん。時間、大丈夫?」
「時間は大丈夫だけど……」
主人が恨みがましく坂道を見る。
「ちょっと、こんなん、そんな大した坂道じゃないでしょ?」
緩いだらだら坂です。
「半分、降りてきちゃったよ」
「なに言ってんの?年寄りくさい」
「あ、僕がいちばん嫌いな言葉……」
「ほらほら行くよ」
手を繋いで引っ張る。
「そりゃ、理沙ちゃんは若くて元気だからいいけど」
「ああ、どうしよう?誰かに持ってかれちゃったかも」
ブツブツ言っている主人をほっておいて、本の心配をしました。
「その人が真面目に読んでくれるならそれでいいじゃない」
「読んでくれない可能性の方が高いよね?」
「もう、しっかりしているようで、時々抜けてるんだから」
「しょうがなかったんだって。アクシデントがあったんだから」
「アクシデント?」
山下さんが過去の恋人を思い出して涙した場面を思い出す。
「どんなアクシデントがあったの?」
「それは、まぁ、暎くんは知らないでいい」
「は?」
「なに言ってんのよ。さっき二回使っておいて」
幸いにも本は、ベンチの上にまだあった。
2022.10.02 了
*1 ポアロ =エルキュール•ポアロ
アガサ・クリスティ作の推理小説に登場する架空の名探偵。ベルギー人。(Wikipedia参照)
ドラマの中では色々な美味しいものを食べている印象が強い。私の中では美食家です。(汪海妹)