3月4日 判断
時刻は、11時を過ぎたところだ。俺は、最寄りの駅で、電車が来るのを待っていた。昨日、お父さんとの話し合いで、大学進学することは諦めることにした。お母さんは、どこか、がっかりしたようにも見えた。それもそうだろう。これからどうなるかわからない息子がいるなんて気が気じゃないだろう。
あんなに勉強して、頑張ったのに。合格通知が手元に届いたとたん、これだもんな。意外と人生わからないもんだなと思った。空を見ながら、考えていた。
これからどうするか?お父さんが言うように、会社に入って働いてみるか?それとも、一浪して大学に入り直すか?自問自答をするけど明確な答えは見つからなかった。クラスの友だちもほとんど大学合格が決まっていく。だが、俺の中で焦りは全くなかった。だからダメなのかもしれないが。
今の感情は、長野から東京に来る時とどこか似ていた。当時、お父さんからは、3月半ばから4月半ばの1ヶ月の間に決めてくれたらと言われていた。お母さんは、俺が長野に残ることに決めるだろうと考えていたらしい。それそもそのはずで、3月は春季大会でレギュラーで試合に出ていたし、俺がチームに欠かせないとすら自分で思っていた。
当時、外野を守る選手は、山里、安田、小川、永谷、田畑、塩尻がおり、レギュラー争いも熾烈だった。そんな矢先の中での東京行きの提案だったので動揺もたくさんあった。でも、時間が経てば経つほど、そういう選択肢もありかもと思えるようになった。
動揺した中での春季大会だったが、3試合で、3本のホームランを打つなど、終わってみたら過去最高の成績を残すことができた。一方で、チームは3連敗で決勝トーナメントに進むことはできず、昨年の秋季大会と同じように悔しさを味わってしまう結果となった。
俺は、春季大会が終わった3日後に、東京に行くことを決めた。お父さんやお母さんと話して決めることはなく、自分自身で考えた答えだった。監督も、悲しんでくれたが、最後は俺の進む道を応援してくれた。みんなには気づかぬように、スタメンも少しずつ外していき、俺がいなくなった後も、チームが勝てるように立て直してくれた。
お母さんも、仕事はあったが、俺とお父さんだけ東京に行かすことは考えていなかった。ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが入り混ざっていた。俺は、あの日の頃を思い出しながら、停車した電車に乗り込んだ。あの頃の俺と少しは変わっているのだろうか?電車の窓ガラスに映る自分がどこか頼りなく見えたのだった。




