89.セリスの目覚め―前進か、停滞か
『――違うよ』
「……誰だ?」
突然聞こえた声に、セリスは虚ろな目で周囲を見渡すが、そこには誰もいない。
「……来ましたか」
だが、そんなセリスの様子に足を止め、デュランタは静かに振り返った。
それはまるでこうなるのが分かっていたようでもあり、同時にこうなることを望んでいるようでもあった。
しかし今のセリスが彼女の様子に気付くはずもなく、声の主を求めて視線を彷徨わせている。すると……
『僕は君の心の中の存在だ。だから君も心で話すといい』
(俺の……心?)
『君は過去の君と、決して同じなんかじゃないよ』
(同じだ。あのときと同じで、俺には何もできねぇ)
そう、何もできず、ただ見送るしかできない今の現状は十年前と変わらない。 どれだけ成長しても、どれだけ力を身につけても、それ以上の存在が立ちはだかる。だが……心の中の何者かのは……
『できない? 本当にそうかな?』
(どういうことだよ……)
『だってさ。あのときと違って――君の足は動くじゃないか』
(――ッ)
頭の中に響く言葉が、セリスの胸を深く抉りこんだ。
(ッでも……あんな奴相手に、俺が何をしても……)
『そうだね。きっと何をしても敵わない』
(そうだよ! だから――)
『でもきっと、あのときの君なら――黙って見送ることはしなかったんじゃないかな? その足さえ動いていたなら、折れた槍を握りしめて、駆け出していたんじゃないかな? それががたとえ、絶対に敵わない相手だったとしても――シスターを助けるために』
遮るように響いた声は、ゆったりとした口調でありながら真の在る強さを秘め、それでいてどこか寂しげに感じられた。
そして、心の中の何者かは言葉をさらに重ねていく。
『だから君は、昔の君とは違う。決して同じなんかじゃない。力は強くなっても、君はあのときと違って弱くなった。その心が……弱くなってしまった』
(俺は……弱くなったのか……)
『怖いよね、仲間を失うのは。大切な人を失うのは怖いさ。嫌だよね、このまま黙って見送ることしかできないなんて』
(でも、どうすれば……)
大切な人を失う辛さは知っている。嫌だなんて言葉は生温い。
しかし、それでもどうすることもできないのだ。
どうしようもないから、見送るしかできないのだ。
そんな情けない縋るような問いかけに、返ってきたのは厳しい言葉だった。
『今この場には君しかいないんだ。仲間を救えるのは君しかいない。だったら、答えは一つじゃないのかな? ――戦うんだよ』
(俺しか……いない。戦う……)
『君はまた後悔するのかい? また、繰り返すのかい?』
(……)
そして……心の中の何者かは、セリスに選択に成り得ない選択を迫った。
『それが嫌なら、二つの中から選ぶといい。一つ、君はこのまま仲間を失う。そして二つ、痛い思いをしても……それは死んでしまうことかもしれないけれど、最後まで足掻き通す。無理かどうかじゃないんだ。敵うか敵わないかでもない。君が、君自身が――何を取るかだ』
(そんなの……)
固く握られた拳から赤い雫が滴り落ちる。
そうだ、無理かどうかは関係ない。適わなくても構わない。
自分の意思を貫くこと。今必要なのはそれだけだ。
たったそれだけでよかったのだ。
「そんなの! 仲間を取るに決まってんだろうが!」
その拳で強く地面を殴りつけ、自分に言い聞かせるように強く猛った。
『なら……立つんだ。君は過去の君とは違う。まだ立てる足がある』
「あぁ! 俺はまだ動ける!」
言って、セリスは勢いよく立ち上がった。
『握れ。君にはまだ戦う手段がある』
その言葉に、セリスは収納石から一本の槍を取り出した。
それはあのときから戒めのように持ち続けた、半ばから折れた槍。
辛い記憶と弱い自分の象徴でもあるそれは同時に、大切な修道女から貰い、共に訓練した幸せな思い出の宿った槍でもあった。
捨てることなど出来ず、折れた部分を補強した愛憎を宿す一本。
『駆けろ。その折れた槍を握り締め、大切なものを失わないために』
「うぉぉぉぉぉっ!」
猛り声を上げながら、セリスは一度は折れた槍を構え、決して折れぬ意思を胸に、デュランタへと駆け出した。
「そのようなただの槍で、いったい何ができるのですか?」
冷静に言葉を口にし、デュランタは音も無く刀を構えた。
『もう折れちゃ駄目だよ。僕はチョコも好きだけど、仲間を諦めない君を見ている方が、楽しくて好きなんだ。だから、駆けよう――御主人。仲間の背を見失わないように』
「俺の仲間を! 返しやがれぇぇぇ――っ!」
セリスの足が一気に加速し、ぎりぎり刀の外の間合いまで瞬く間に詰めた。
そして槍を振り上げたその瞬間、穂先に纏った風が不可視の刃を形成する。
勢いよく振り下ろされる風の槍。
デュランタがその刃を刀で受け止める……はずだった。
だが、不可視の魔力を感じ取ったデュランタは、咄嗟にロウを手放すと、大きく姿勢を逸らしながらそれを回避した。
その瞬間、セリスは槍を後ろに引き勢いよく突き出すが、デュランタはそれを一度横に避け、大きく距離を取った。
「力に目覚めましたか」
声色を変えることなく言った、デュランタの横腹に位置する服が僅かに裂けている。
「俺は口では諦めねぇとか言いながら、心ん中でいつも誰かを頼ってた。弱い自分は何もできねぇから、いつも強い誰かを求めてた。でもそれじゃ駄目だよな。諦めねぇって言うなら、俺自身が最後の最後までできることをやらなくちゃ駄目だ。たとえ足が動かなくなっても、心だけは折れちゃいけなかったんだ」
熱の籠もった瞳でデュランタを見据え、槍を一回転させて構える。
「諦めてはくれませんか。ならば仕方ないですね。少し痛い目に――ッ!」
途端、デュランタは言葉を切り、倒れたロウへと視線を向けた。
「ッ、この魔力……仕方ありません。ここは貴方の粘り勝ちとしておきましょう。シンカさんたちにお気をつけ下さい。気が立っていると思いますので。後、貴女が見たものは人形です、と。そうお伝えください、ふふっ」
そう言い残し、セリスの返答も待たずにデュランタはその場から立ち去った。
「おい! ったく、なんなんだよ……訳わかんねぇ」
頭を掻き毟りながら、セリスはその場に座り込んだ。
「でもまぁ……」
目の前で槍を強く握り締め、ロウへと視線を移した。
「今回は繋ぐことができてよかったぜ――ぐほっ!」
満面の笑顔を浮かべた途端、ロウの体が一瞬淡い光に包まれたかと思うと、それに気を取られたセリスは背中に鈍い痛みを感じながら吹っ飛んだ。それはもう、凄い勢いで。
ずざざぁぁっ、と砂煙を巻き上げながら思い切り地面を擦り、一転、二転、三転、そして……
「なんだ!?」
上半身を起こして振り返ると、そこには牙を剥いた白銀の狼。その尻尾には白い鈴の付いた黒いリボンが巻かれている
その狼を見た途端、セリスの顔が恐怖と驚愕に満ち、真っ青に染まっていく。
「は……は、は……ハクじゃねぇか!」
ハクと呼ばれた狼は、牙を剥きだしたままじりじりとセリスへと詰め寄って行く。
そう、白銀の狼の名はハクレン。
以前話した、セリスが苦手とする相手であることに相違ない。
「ま、待て! 俺は何もしてねぇよ! む、むしろ頑張ったほうだ!」
セリスの握る槍へ視線を向ると、ハクレンは牙を収めて静かに引き返した。
そしてロウの側に座り込むと、その頬を心配そうに舐め始めた。
「ほっ……」
セリスはほっと息を吐くと、カグラを回収するために立ち上がった。
そして気絶したカグラを背負いその場に戻って来ても、ハクはずっとロウの顔を心配そうに覗き込んだままだ。
「まだ目が覚めねぇのか? 宿の寝台で寝かせたほうがいいんじゃねぇかな?」
セリスのロウの身を案じる思いが通じたのか、ハクレンは少し考えたような素振りを見せた後、彼に背を向けて体を地面に伏せた。
「な、なんだ? ロウを乗せろってことか?」
短く唸るハクレンに、セリスは一度カグラを降ろしてロウを乗せようとするが、ハクレンのじっとセリスを見る……睨み付ける視線が告げていた。
慎重に、丁寧に、そっと乗せないと噛み殺す、と。
たらたらと冷や汗を流しながら、セリスがロウをそっと乗せると、ハクレンはゆっくりと立ち上がって歩き出した。
…………
……
気絶した男を運ぶ狼……いや、おそらく大型の犬だと思っていただろう。
道中に浴びる周囲からの視線に居心地の悪さを感じながらも、なんとか宿に辿りついたセリスは、とりあえず男部屋の寝台にロウを寝かせた。
カグラの意識は宿へ向かう途中で戻り、事情はすでに説明済だ。
最初にハクレンを見た時、カグラは仲良くしようと試みたが、セリス同様にロウには触らせまいと牙を剥かれ、宿に着くまではじっと縮こまっていた。……そのはずなのだ。
それなのに今、目の前で行われている光景を前に、セリスは戸惑いを隠せないでいた。
「なんでだ……なんで長い付き合いの俺は駄目で、カグラちゃんはいいんだ」
カグラが水を絞ってロウの額に乗せたり、ロウの汗を拭くことを許し、そんな少女と並んでロウを見守っているハクレンの後ろ姿に、セリスはおもわず嘆息した。
「はぁ……カグラちゃんの粘り勝ちか。すげぇよ、ほんと」
「そ、そんな。私はただ、ロウさんが心配だっただけで……」
カグラは慌てて否定するが、セリスの記憶の中でのハクレンは、決して他人に気を許すことなどなかったのだ。
今回の場合は、状況が状況ということもあったのだろう。
ハクレンも最初はカグラがロウに触れることを許さなかったが、ハクレンでは水を絞ることも汗を拭くこともできない。
セリスが言ったように、怖がりながらもハクレンを頑張って説得し続けた、カグラの粘り勝ちといったところだろう。
そんな中、突然の大きな音と共に、勢いよく部屋の扉が開いた。
「ひゃう!」
「うおっ!?」
重なった短い驚声。
扉から勢いよく現れたのは、シンカとリアンの二人だ。
「カグラか! セリスが大変だ! 重症のまま連れ去られ……た……」
叫ぶリアンの声は徐々に萎んでいく。
その原因は無論、彼の視界に入ったセリスの姿だった。
「よ、よぉ……俺がなんだって?」
まったく訳がわからないセリスは目を点にして、パチパチと閉じたり開いたりを繰り返しながら問いかける。
それはカグラも同じで、いったいどうしたのかと、唖然とした表情でその光景を見守っていた。
「えっ!? ちょっと待って、どうして貴方がここにいるの?」
しかし、まったく訳が分からないと言えば、それはシンカたちも同じだった。
お互いに状況がまったく呑み込めない。
「え? いや、なんでって言われても――」
「ロウ!?」
問いかけてきたシンカに返答しようとしたセリスの声は、問いかけた彼女自身の声によって理不尽にも遮られた。
シンカが慌てて寝台で寝かされるロウに近付こうとするのを、ハクレンが割って入り制止する。
「な、なに? この子ってロウが言ってた狼の? も、もふもふね」
シンカの頬はなぜか少し赤く染まっていた。
もふもふが好きだというのは本当だったようだ。
「ハ、ハク……だな」
少し引いた様子で答えるリアンもまた、やはりハクレンのことが苦手なようだった。戸惑うように僅かに顔を引きつらせ、後ろへと一歩下がる。
リアンですらこうなのだ。セリスがハクレンを苦手にしているのも頷けるものだった。いったい過去に、どんな心的外傷を植え付けられたというのか……。
「そ、そう。よろしくね、ハク。でも……どうして邪魔をするの?」
「前に説明しただろ? ハクはいつもこうなんだよ」
セリスが呆れるように答えるものの、そう言われたにも関わらずシンカのとった行動は、二人にとって予想外だった。
「どいて」
臆することなく、むしろ凄むようにシンカは一歩、前に出た。
「ちょ、シンカちゃん! 話聞いてただろ!?」
「聞いてたわよ。だからなによ」
強く言い放ったシンカに、ハクレンが鋭牙を剥き、低い唸り声を上げる。
「威嚇したって無駄よ。私はロウが心配なの。仲間を心配して何がいけないっていうの?」
今にも飛びかかりそうなハクレンと、一歩も引かないシンカの睨み合いが続く。
カグラは間に挟まれ、どうしていいかわからずに目を回していた。
リアンとセリスに関しては、そこに入り込む無謀は犯さず、冷や汗をかきながらもただ成り行きを見守っている。
しばらくその状態が続き、粘り勝ちしたのはシンカの方だった。
言葉などきちんと通ずるはずもないが、逸らさず向き合い続けた瞳に、ハクレンは何かを感じとったのだろう。すっと牙を収め、静かに背を向けた。
「最初からそうしてよね」
文句を零しつつシンカは寝台に近づくと、ロウの顔をそっと覗き込んだ。
こうしてロウの顔を覗き込むのはいったい何度目だろうか。本当にいつも心配ばかりかせさせる人だ、などと思いつつ、特に苦しむ様子もないその寝姿に一先ず胸をなで下ろした。
「ってたく、姉妹揃って粘り勝ちかよ」
「ほぉ……」
苦笑を漏らすセリスの横で、リアンが感嘆の声を漏らす中、シンカは振り返りながら先程聞こうとしていた事を再度問いかける。
「で、どうしてロウはこんな状態になってるの? あと、セリスはどうしてここにいるの?」
「それは――」
セリスとカグラの二人は、お互いに知らない情報を補い合いながら、事の成り行きを説明していく。
ただ、カグラはロウの記憶のことだけは、口に出さず自分の胸の内に留めた。
勝手に自分が話すより、それを告げるのは本人の口からの方がいいと判断したからだ。
「まとめるわよ。まず、セリスは窓からドーナツ屋さんを見つけて買いに出かけた。途端に眠くなって意識を手放した後、目が覚めると鎧の二人組に助けられていた。その二人がロウの場所を教えてくれて、そこへ向かうとデュランタと戦うロウに出くわして、そのまま戦いに介入」
「そう! そこで俺が魔憑に目覚めちまったってわけだ!」
なぜかドヤ顔を向けるセリス。
僅かに顎を上げながら、ふんぞり返った彼の鼻も伸びる勢いだ。
本来なら、戦力の増加に繋がる魔憑への覚醒を祝福すべきところだろう。
ロウとカグラを結果的に守り、一人でデュランタを退けたのだから、それは賞賛されるべきことのはずだ。
調子に乗りすぎている感は否めないものの、セリスが嬉々としてそれを誇るのも無理はない。無理はないのだが……
「つまり、俺達が見たのは人形のセリスで、デュランタの思惑通り、まんまと足止めを食らったわけか。なるほど……そうか、なるほどな。俺たちがお前を必死に探してる間、お前はドーナツに釣られてとんだ間抜けを犯し、今平然と悪びれることもなく、チョコを頬張っているわけか」
声は冷静だが、リアンの額には青筋がくっきりと浮かんでいる。
「え? い、いや、だってよ。チ、チョコはそこに吊ってあったから」
慌てながらも弁明するセリスの額から、一筋の汗が流れ落ちた。
セリスに予知能力はなく、未来視などできるはずがない。魔憑に覚醒したとはいえそれは変わらず、彼にとって未来とは無数の可能性に満ちた不可視なものだ。
それなのに、どうしてこの後の自分の末路が視てしまうのか。
それは偏に、これまでの付き合いがもたらす未来像であり……
「人がどれだけ……心配したと思ってやがる!」
「ぐほぉっ!」
怒号と共に、無慈悲な一撃が放たれた。
魔憑に覚醒したが故の耐久力の上昇を考慮した、いつもより強烈なリアンの蹴りを顔面に受け、セリスは壁まで吹き飛んだ。
「ったく、阿呆が」
「まぁ、全員無事でなによりだわ」
「ぶ……無事じゃねぇ……よ……がくっ」
「それより、これで導きの札の警告は乗り切ったと思っていいのか?」
セリスの力ない反論がさもなかったかのように、リアンは話を続けた。
そしてシンカもまた、見慣れた光景を特に気にする様子もなく、おろおろとしていたカグラに声を掛ける。
「どうかしら。カグラ、もう一度やってみてくれる?」
「う、うん」
カードに魔力を通しても、その導きの札が赤く発光することはなかった。
そして、一枚だけ表になったカードに記された次の導き。
【――迷花を救いし都】
「都と言うからには、どこかの町なんだろうが……ヒントはこれだけか?」
「は、はい。そうみたいですね」
三人は考え込むように、消えていく浮き上がった文字を最後までじっと見続けていた。
「迷花……陛下が言ってたわよね。月は闇煙る夜道に、迷った花を導くって」
「ということは、月に行けということか? しかし、月になんて行けるわけがない」
「つ、月に深く関わりのある町ということでしょうか?」
「きっとそうね。でも、この王都以外にそんな町あるのかしら……」
訪れる沈黙。静かな時間が過ぎる中、何も思い浮かぶことはなかった。
ただ、カグラの中に引っ掛かったのはヴォルグの残した言葉だ。
月に照らしてもらえ。と、そう言っていたからには、やはり月が深く関係しているのだろう。
そんな中、ロウがゆっくりとその瞼を持ち上げた。
「ここは……」
「ロウ、気が付いたのね。よかったわ。ハクも心配して……って、あれ?」
きょろきょろと周囲を見渡すが、ハクレンの姿はどこにもなかった。
「ハクがいたのか?」
「は、はい。さっきまで、ずっと心配そうにロウさんの傍にいたんですけど……」
カグラもハクレンの姿を探すが、やはりこの部屋のどこにもハクレンはいなかった。
いつの間にいなくなったのか……窓も扉も閉まったままだ。
導きに集中しすぎて、単に出ていくのに気付かなかっただけなのだろうが、自分で扉を開けて閉めるなど、なかなか器用なことをするものだと、シンカたちは感心していた。
「ハクのことは心配ない。自由な奴だからな。それより、状況を説明してくれないか?」
上半身を起こしながらすぐさま現状を把握しようとするロウに、三人は状況を説明していく。
「なるほど、セリスが……」
「そうなの。導きの札の警告もこれで乗り越えたみたいだから、もう心配はいらないわ」
そうってシンカが微笑むと、ロウは静かに寝台から起き上った。
するとどこか思い詰めたように、一瞬どこか暗い影を落としたかと思えば、そのまま扉へと向かって歩き出した。
「ど、どこに行くんですか?」
「少し外の空気を吸ってくる」
「外の空気って……そんな体で行くの?」
「警告はもう乗り越えたんだろ? なら、大丈夫だ」
静かにそう言い残し、部屋から出て行くロウの背中を、シンカは心配そうに見つめていた。
ロウの少し沈んだ声から、一人にしたほうがいいのだろうと思いながらも、心配だという気持ちがなくなるわけではない。
それはカグラも同様で、ロウの背中を心配そうに見送った。
ロウの体の状態が心配だったのももちろんあるが、ブラッドたちとの会話が、カグラの中に小さな棘のように引っ掛かっていたのだ。
それは、このままロウが手の届かない遠いところへ、いつの間にか行ってしまうのではないかという……小さな不安だった。
王都クレイオを一望できる丘。
そこで風を浴びながら横になり、流れる雲をじっと見つめている。
その表情はわからない。なぜなら、浮んでいる表情は狐の面に閉ざされているのだから。
デュランタは横に刀を置き、静かに誰かが来るのを待っていた。
そしてその待ち人の気配を感じ取ると……
「今宵も月は綺麗ですね。星の輝きは遠い過去。今やそれを見たものはいない」
『仕方ありませんよ。それだけ過去の大戦が凄惨なものだったということです』
デュランタの頭上の空間に開いた歪み。
そこから女の声が聞こえて来た。
「遅いですよ」
『そういわないでください。本来、セリスさんが目覚めるはずの魔門の規模を、私一人で閉じてきたんですよ? 少しは労ってほしいものです』
姿は見えないが、その口調は少し拗ねたように聞こえた。
「えぇ、わかっていますとも。本来の導きである、命運を左右する事象を乗り越えることができたのも貴女のお陰。今の彼らに獣型降魔は少々荷が重いですからね。ここで万が一にでも誰かに死ては、予定が狂ってしまいます」
『ですが、私たちが介入しすぎることで、世界に気付かれては取り返しがつきませんよ』
「大丈夫です。ある程度は、運命通りに痛めつけておきましたので。えぇ、それはもう」
『機嫌が悪そうですね。何かありましたか?』
「……悪いといえば悪いですね。彼女に会いましたから」
『なるほど。二度目はさすがに許してもらえなかったということですか』
「とはいえ、これから少しの間は傍観するしかできませんし、彼の方の鍛錬もつけておくとしましょう」
起き上がり、デュランタは広がるクレイオの町並みを見つめた。
その面の奥に潜む感情は相変わらずわからないが……
「……さぁ、記憶を探す物語の水端はここからです。記憶の扉を開く鍵は三つ。あの人がそのすべてを手に入れた時、貴女は……」
その声には、確かな悲哀の色が濃く滲んでいた。




