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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第五節『これは箱船が残した忘れ形見』
191/323

188.女子会と言う名の…


 ここは月国フェガリアルの神都ニュクス。

 その下層区域の一角にある屋敷、ユーフィリア家はしんと静まり返っていた。

 小さな虫の音、梟の鳴き声。少し強い冷たい風が窓をかたかたと揺らしている。

 真っ暗な屋敷の中、一つの部屋にだけ発光石が内蔵された照明具ランプのような小さな明かりが灯っていた。これからいったい、何が始まろうとしているのか。


 ミコトとイズナは早くに眠り、ロウが眠るのを待った現在、残った者たちは事前の打ち合わせ通りにその発光石の灯った部屋へと集結していた。

 集まったのはシンカの部屋――その数、実に十名…………狭い。

 その扉には”女子会”と書かれた紙が貼られている。しかし、その実態は――


「始めるわよ。女子会という名の、ロウの真実を暴く会を」

「お、お姉ちゃん。へ、部屋の明かりは点けていいんじゃないかな?」

「駄目よカグラ。この方が密会っぽいでしょ?」

「リン姉さんの言う通りです。兄さんを丸裸にするんですよ? 外に情報は漏らせません。形から入るのは大切です」

「ツキノのニュアンスは、どこか違った感じがするかな」

「なんかわくわくするっすね」

「肯定。ロザリーもドキドキしてきた」

「わたくしもなんだか緊張してきました。いったいロウにどのような謎が秘められてるのか、気になって仕方ありません」

「でも、パパの過去に近づくってことは、世界の真実にも触れるってことでもある。気を引き締めな」


 そう、彼女たちが一堂に会してたのは、ロウに関する情報交換のためだった。

 それぞれが見聞きした情報や思ったり感じたこと、それらを一先ず一つにまとめ整理することこそが、この女子会の本当の目的なのだ。

 ロウの過去、世界の真実……それに近づくことに緊迫した空気が流れる。


 ごくりと喉を鳴らし、まずはシンカが口を開くと……


「それじゃ、まず私から――」

「待て」


 響く待ったの声。

 皆が一斉に声の主へと視線を送るものの、まるで見なかったかのように……


「それじゃ、まずわ――」

「待て。待て待て待て」


 再び響く待ったの声四連発。

 皆が再び一斉に視線を送ると、声の主は今度こそ無視されてたまるものかと、すかさず異議を申し立てた。


「俺は男だ。この会の名称の変更を求む」

「フォルっち。そんなのはどうでもいいんすよ」

「なっ!?」

「そうです。どうせ女子会は表向き。その実態は兄さん丸裸の会です」

「ツキノのセンスは相変わらずかな」

「シンカが言ったみたいに、真実を暴く会でいいんじゃない?」

「否定。ツキノ案、採用すべき」

「わたくしはどちらでも構いませんが、合わせてロウの真実丸裸会でいいのではありませんか?」

「ちょっと待って。え? 呼び方ってそんなに重要なの? まずそこから?」

「はぁ……こういうのは案外、カグラみたいな子が纏めてくれそうだね」

「えっ、わわわ私ですか?」


 ブリジットに話を振られ、焦るカグラに皆の視線が集中した。

 カグラは顔を染めながら身を縮めると、恥ずかしそうに小さく声を漏らす、


「じ、じゃあ……ロ、ロウさんを慕う会、で」


「「「「「「「「「お~……」」」」」」」」」 

 

 一斉に上がる感嘆の声にカグラは一層身を縮めると、隣に座るシンカへと恥ずかしそうに身を寄せた。

 元の目的である暴くという言葉がまったく入っていないが、皆はそれに納得し、とりあえず無事に始まった情報交換。


 シンカはサラとの会話、リンはコルとの会話、そしてジェーノたちとの会話を。ブリジットは自身の過去と調べた結果、それに基づいた考察を。フォルティスとロザリー、シエルも自身の過去を話し、ツキノ、モミジ、シラユキの三人もサラとの出来事や、ロウとの風呂場での会話を皆に聞かせた。

 どんな些細な事でもそこに何か、今だからこそわかる情報ヒントがあるかもしれない。

 それぞれが記憶を辿り、話せる範囲(・・・・・)での情報を一つに纏め上げていく。

 それらを簡潔に纏めるとこうだ。


 まずはロウの力。

 ルナティアとハクレン以外の魔獣を有するが、現状はなんらかの方法でルインの手の中にある。そして、かつて使っていた七つの神器もそうだ。

 そして血の記憶と呼ばれる力と、これはあくまで推測の域を出ないが、ロウの頑丈さは強化系に近い何かの影響を受けている。

 心の声が聞こえるというのは実際に聞こえるのではなく、相手の感情に対してそれを感じ取れるというもの……それも、負の感情をより感じ取ることができる。


 次に歴史的なものだ。

 ロウは七百年以上生きて今も現役なのだが、外界の魔憑ですら通常、内界より長寿とはいえせいぜい三百年……大半がそれまでに命を落とすため、実際それだけ生きた魔憑はいないだろう。

 七百年で現役となれば亜人くらいなものだが、ロウは亜人ではないため常識に的に考えて、本当に七百年も生きているのかと問われれば信憑性は極めて薄い。

 冷静になってみると、遠い過去に三英雄と呼ばれたうちの他の二人が名を受け継いでいると言われているのだから、ロウの場合もその可能性は否定できない。

 闘技祭典ユースティアの日、ヴィアベルが”ソティスというのはただのコードネーム”と発言していることからもそれは窺える。

 推測するなら、ブリジットのように冷凍睡眠コールドスリープ状態にあったか、記憶の継承をしているといったところが無難だろう。

 だが仮に後者であれば、数多の魔憑を殺めたのはロウ自身であるが、遠い過去の”神殺し”はロウではない……ということになるのだが。


 そして星歴四七七年。

 ブリジットが救われた時の記憶の中にある亜人たちが反逆の箱舟と推測するならば、当時の亜人たち幼さからして、その頃に結成されたものだと推測できる。

 シエルの母、ニケはそのメンバーであり、ロウが反逆の箱舟のマスターだったというのはシエルの話からして間違いないだろう。

 そして内界のカリンデュラが滅びたことから、星国が陥落したのもこのときだ。


 星歴六七七年、降魔の狂宴(フォールマキア)。悲惨な結末を迎えたこの戦いで先代の海神、星神、陽神、天神が亡くなり、冥神と地神も後を退くことで次の世代へと交代した。

 先々代の神とロウの裏切りと呼ばれる一連の出来事がいつか起きたのか明確にはわからならいが、ロウが多くの魔憑をその手にかけたのは、ヴィアベルとブフェーラの話からもこの時で間違いないだろう。先代が亡くなった事にロウが関連しているのであれば、裏切りと呼ばれる事件もこの時かもしれない。


 今は星歴七七五年だ。

 シンカの心象世界にいた影の言葉を信じるなら、今から二年後の星歴七七七年に再び何かが起こるということらしいのだが……皆の中の焦りはなにか……。

 二年という歳月があれば、ロウの背負ったものに辿り着くのもそう難しいことではないだろう。だが、本当に二年もの時間が残されているのだろうか。


「後、兄さんの好物は珈琲、桜餅、夢見桜の地酒。嫌いな物は特になし。趣味は家族の相手、氷像。特技は居合い。その他なんでもそつなくこなします。身長は百七七センチ。大切な人はツキノ、構いたくなるのはツキノ、好きなタイプはツキノ。つまり兄さんは、ツキノマニ――アッ!? ~~~~~~ッ!」


 途中ツキノがリンに拳を落とされ、涙を浮かべて悶絶するという事故はあったものの、その後にツキノが出した情報は興味深いものだった。


 曰く、昔に何度も布団へ潜りこもうとした際、必ず目を覚ますロウが目覚めなかった時があるという。そしてその時は、必ず夢見が悪そうだったというものだ。

 スキアの船でシンカがロウの部屋にいたとき、シエルがロウの正体を知ったときもそうだった。つまり眠っているロウに近づいてもなかなか起きないとき、それはロウが予知夢的なものを見ている状態ということになろうのだろう。

 

 そしてロウにとっての敵と目的。

 まずルインに奪われた魔獣と神器、アリサと星神、これらを取り戻すことがロウの当面の目的となるのはおそらく間違いない。


 ルインの目的はわからないが事前にロウの魔獣を奪い、各国にいる七深裂の花冠(セブンスクライム)が狙いというのであれば、ロウの魔獣とその者たちに何かしらの関係があると見るべきだろうか。

 それを断定できないのは、この場にいる誰もその魔獣の力を知らないからだ。

 ミゼンの話から、ロウが魔獣を奪われたのは今から約七年前の星歴七六七年付近。ロウが記憶を失い、行方不明になった後ということになる。。

 それなのに屋敷に一番古くからいて、共に任務をこなしていたリンが一度も見たことがないというのは、その力が限定的なのか、降魔相手にあまり意味がないのか。それとも周囲が気付けないような能力なのか……。

 可能性の一つとして、仮にルインが降魔を操っているのであれば内界の花園が狙いということになるのだろうが、これもよくわからないものだ。

 そもそも花園の存在自体、何の為に在るものなのかわからないのだから。


 そして、天国に現れたデカが引き連れていた数字を持たないアリスモス、虚ろな魂を持つ人工生命体ホムンクルス……そこで、ようやくにして一つの可能性が見えてきた。


 ジェーノの資料が盗まれたのも、星神が攫われたのも、神器を奪われたのも、どれもが星歴六四四年に起きた大戦の最中に起きたことだ。

 ジェーノがクレアを生み出した過程の話と統合すれば、数字を持たないアリスモスは実験過程で生み出された副産物であり、神器の魂を人工生命体ホムンクルスへ移すことで強い個体を生み出すのが目的だとしたら、その数は七だ。

 であるなら、その生命体に強力な力を有する七深裂の花冠(セブンスクライム)、その丁度七人の魔獣、或いは能力を与えることで、より強力な生命体を生み出すことができる。

 あまりにも荒唐無稽な話かもしれないが、これはあくまで推測であると同時に、そう可能性の低い話でもないのではないかと皆は考えていた。。


 次の問題はデュランタの存在だ。。

 何度も前に立ち塞がり、闘技祭典ユースティアではロウの正体を暴いた謎に包まれた女性。

 いったい何処の誰なのか、目的はなんなのか、その一切が不明だ。

 カグラの話からして、ロウの魔獣であるルナティアやハクレンですら彼女について知らなかったとなると、記憶を取り戻したロウですら彼女の正体についてはわからないと見て間違いないだろう。

 現状彼女についてわかるのは、世界を救おうとする自分たちの歩む運命を許さないという、信念や執念とも呼べるあまりにも強い意志だけだ。


 ツキノたちが接触したミオについては、シラユキとモミジ自身、どうして信じても大丈夫なんて言葉を吐いたのかすらわかっていないようだった。

 ただそう感じたらしいが、三人以外は一度もミオと接触していないのだからなんとも言えないところではある。

 この二人については、いくら考えても納得のいく推測はできないだろう。


 そして、ロウが強い執着を見せた武器を扱う降魔についてだが……これについても想像すらできない。なにせ、見た事も聞いた事もないのだから。

 その脅威度についても、相手取ったのがクレアとロウであった為、何一つ参考にならないものだった……が、シエルが感じたのは普通の降魔とは違う魔力。

 二つのものが交じりあったような不自然さを、あの時のシエルは感じていた。


 その話の際――


「そういえばロウ……あの時も煙草を吸ってたわね。確か、自分が関わって人の命が消えた時にだけ吸うって言ってたのに……どういうことかしら」

「え? あれって煙草だったのですか?」

「違うの?」

「わたくしは丁度風下にいたのですが、微かに花……桜のような香りがしてきました。煙草は吸ったことないですが桜味なのですか? おいしいですか?」

「そんなわけないでしょ」


 リンが呆れた様子で溜息を吐くも、ブリジットには少し引っかかることがあった。

 たとえば料理における隠し味を見つけることや、葡萄酒ワインの銘柄を的確に当てたりすることができる者はいる。音などを聞き分けることも可能だ。

 だが、香りというものはそれとは訳が違う。

 人の嗅覚というものは聴覚や味覚ほど優れているわけではない。

 幾多の種類がある花の香りはそう簡単に判別できるものではないし、それが桜となればなおさらだ。

 桜は各国に一本しか咲かない不思議な花であり、何故か年中咲き誇る夢見桜の桜以外、それを嗅ぐ機会などそうそうありはしないのだから。

 

 それをシエルに尋ねたところ、返ってきた答えは興味深いものだった。

 曰く、ニケが大切に持っていた物の中に、桜の枝があったという。

 牢獄に囚われる事件の前、いつの間にか無くなっていたらしいのだが。

 ともあれ、亜人は人間に比べて優れた感覚を有している。人狼リュカリオンには及ばないとはいえ、それで嗅ぎ慣れていたというのなら確かに納得のできる話だ。


 だが、花を摘めばいずれ枯れるというのは誰もが知る事実。

 であれば、希少な桜の枝……それも枯れない不思議な桜となると、辿り着く答えはたった一つしかなかった。


「桜……桜か。となると、夢見桜が関係してるんだろうね。あそこは世界で唯一、年中桜が咲いている観光地だ。そこなら何かわかるかもしれない」

「あっ、それならあたしらに任せるっす」

「クローフィ様に夢見桜へお使いを頼まれたの。近々行くことになるかな」


 ブリジットの声にいち早く反応したモミジに続き、シラユキが補足したそれは皆にとって有益なものだった。


「借問。お使いってなに? お土産求む」

「ロ、ロザリーちゃん。さ、三人は遊びにいくわけじゃないんですよ?」

「待て、カグラ。あそこには桜の葉で巻いたベーコンがあると聞いた。それを買ってくるくらいの余裕はあるだろう」

「そうね。私は桜風味のモンブラン」


 厚かましく土産を強請るロザリー、フォルティス、リンの三人。

 そんな彼女たちの発言を予想していたのか、それに溜息を吐きながら答えたのはツキノだった。


「はぁ……お金は自分で出して下さいね? 夢見桜への用事は兄さんの高感度アップアイテムである桜餅、そして地酒の入手と、ついでに黒い雪の対策です。自警団の桜桃に協力を要請することになりました」


 黒い雪……それに関しては、シンカとリンが手に入れたジェーノからの情報と、リンたち月の使徒がクローフィから受けた情報を纏めることができる。


 まず、ディーヴァの目撃情報の割に雪が降らいないことと、漸減作戦を延期してまでその対策に備えたことから、一度目は近々降る可能性が高い。

 そしてジェーノは、一度目と二度目はロウの動向に気をつけ、三度目のときはロウから決して離れるなと言っていた。

 規模が大きくなると想定される今回の一度目を注意するのではないとすると、考えられるのは次の二つの可能性。

 三度目の黒い雪がそれだけ異常なものであること。もしくは、今回規模が大きいと想定される黒い雪が三度に分かれて振る、ということだ。 


 どちらにせよ、いつどこで降るともわからない黒雪だが、ジェーノの言葉からロウの近くで降るということが推測できる。

 一度目の黒雪が降るまでは、あまりロウを一人にさせないという結論になった。



 次にシンカとカグラのことだ。

 ブリジットの推測通り、二人が未来からではなくブリジットと同様に過去から長い眠りについていたというなら、過去の大戦を経験していた可能性がある。

 その記憶がロウに繋がるものかもしれないのなら、それを辿るのも必要な事だ。


 しかし、二人の記憶は依然として曖昧なままで思い出せる兆しはなかった。

 シンカの力は魔力を吸収して反射するというものだったが、その魔力をある程度なら自由に扱えるようになったのは、エンペラー級が現れた時の心象世界を見てからだ。その他、謎に包まれた力は二つ。

 黒い髪に染まった時のエンペラー級を倒した力。そして、死神戦の時の歌だ。

 歌に関してはロウの能力強化という感じだったが、ロウ以外にまるで効果はなく、死神戦の時以降はロウにすら効果がなかった。

 となれば、死神の力を押さえていたと考える方が自然だろうか。

 

 そして、死神戦の時といえば――


「死神といえば……あのとき、兄さんと私の攻撃だけが何故か死神に効いたんですよね。あれも兄さんの力だったんでしょうか? 私は結局大きな一撃を食らいませんでしたけど、受けるダメージも大きいと言ってました」

「そもそも死神の存在自体が希少なのよ? 他国ではまず間違いなく見た人なんていないわ」

「リンの言う通りだね。アタシらのケースは特殊だ。ルナティアが傍にいて、呪いを踏んだ。死神に憑かれた者がいても、普通は呪いを踏まないようにするもんだよ。禁忌ってやつを破りそうになると、警告のように胸が痛むらしいからね」


 そう、死神というのは半ば架空の存在とされていた。

 内界からすると、まさにこの亜人たちの住む外界こそが架空の存在ではあったのだが、当然外界にもそういったものはある。

 ドラゴンやケルベロス、グリフォンなどもそうだが、死神もそれと同様、絵本の中に出てくるような存在として認識されていたのだ。

 禁忌の呪いの存在を知る者は地位の高い者だけで、実際に禁忌の呪いを踏み、死神が現れたいう実例はこれまでの歴史の中に存在していないのだから。


 そもそも禁忌の呪いを背負うこと自体、そうある話ではない。

 長い歴史の中に単に埋もれてしまっただけなのか、それとも意図的に秘匿されてきたのか……どちらにせよ、死神はそういった存在だった。

 星歴七六〇年――ルナティアが呪いを踏むまでは……

 

 だがそうなると、当然行き着く疑問はある。


「あ、あのっ……一つ疑問なんですけど、し、死神は特殊な力を持つ人につくんですよね? 神様とか、獣が魔獣になったルナティアさんとか……なら、ロウさんはどうなんでしょうか? 後、死神に攻撃が効いたのなら、もしからしたらツキノちゃんも……」

「で、当の本人はどうなんだい?」

「私は……はい、確かに身に覚えはあります」

「ほ、本当なの? ツキノ」


 親指を下唇に当てながら神妙な声を漏らすツキノに、誰もが驚いた表情を浮かべていたが、それを代表するようにシンカが問いかけた。

 仮に心当たりがあるとするのなら、それは絶対に踏んではならいものだ。

 ルナティアのときはなんとか凌ぎきることもできたが、次に同じようなことができるとも限らない。


 確かにロウを含め、皆があのときよりも強くなってはいるが、死神というものは憑いた相手を確実に死に追いやる存在だ。故に、こちらが強くなる分、死神もまた力を増していく。

 何より、ロウとツキノ以外の攻撃が効かないというのは致命的だ。

 そう考えると、死神に憑かれた者の攻撃が死神に有効と捉えられなくもないのだが、シンカの問いに真剣な表情で答えたツキノの言葉は……


「はい……兄さんを見ていると胸がぎゅっと苦しくな――はうっ! ~~ッ!」

 

 ツキノが再びリンに拳を落とされ、涙を浮かべて二度目の悶絶という事故はあったものの、カグラの疑問は一考の余地があるといえるだろう。


 死神憑かれる者は決して多くはなく、より強い力を持つ者に限定される。

 それは歴代の神であったり、ルナティアのような特殊な存在だ。であるなら、多種多様の力を持つロウもまた、死神に憑かれていてもおかしくはない。


 そう考えれば、シンカとカグラも当てはまりそうなものだが、二人には何かをしようとした時に警告のように胸が痛む経験はなかったようだ。

 死神については不明瞭な点も多いが、仮にロウが憑かれていても、ロウが自ら禁忌の呪いを踏むことはないだろう……と、とりあえずこの話は保留となった。


 

 そしてカグラの力。

 シンカが持っていた魔石を解明が、二人に対するブリジットの推測の足掛かりとなったのだが、カグラの力についてはあれからもやはり進展はなかった。

 いや……わからないことがわかった、というべきか。

 わかったのは、カグラの力はあまりにも無駄が多すぎるということだ。

 フォルティスとロザリーが本気でやり合った後、その傷を回復する度に二人が怠そうにしていたのは、一部の亜人特有の力を使った反動ももちろんある。

 しかし、それだけではなかった。


 カグラが二人の力を癒すとき、小さな力を使えば誰に対しても危険なく治癒できるのは、やはりブリジットの推測通りだ。時間はかかってしまうが、まるで傷そのものが無かったかのように完全に治すことができる。

 だが、カグラが力を大きくすると、対象者の魔力がみるみる減っていくのだ。

 最初は救医神の神力のように、対象者の魔力を使用しているのかとも思ったがそうではなかった。使用してるのはあくまでカグラの魔力だ。

 ならば、対象者の魔力はどうして減ってしまうのか。

 霧散してるのだ……使わず、無意味に、ただ空中へと霧散して消えていく。

 まるで理解できない現象だ。


 理解できないといえば、もう一つ。

 カグラが自身の傷を治したときに起きた、ロウへの反動とも呼べる現象だろう。

 まるで身代わりのような、傷をそのまま移したかのような……。

 だがしかし、カグラはまだ重傷を負った魔憑や亜人といった、内包する魔力の高い者の傷を治したことはない。いや……一度だけあった。

 シンカがエクスィと始めて相対したとき、砕かれた腕を短時間で治癒したことがあったはずだ。だが、あのときのロウに異変があったのかどうか、それどころではなかったシンカとカグラが覚えているはずもない。

 

 つまるところ、ロウとカグラの関係は吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンの、相手を眷属にする特殊な契約のようなものだとブリジットは推測していた。

 それも実際のところ、吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンについて残された資料が少なすぎて詳しく調べることはできていないのだが……


「ロウの両親って、ロウ自身知らないって言ってたわよね? ロウが天国で使った力……ベンヌさんは血の記憶って言ってたけど、親が吸血鬼ヴェリラスってことはないの? 体も丈夫だし、長生きだし……それならカグラといつの間にか契約を結ぶこともできたんじゃない?」

「おぉ、さすがお兄ぃ。吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンのハーフとかだったら、かっちょいいっすね。それなら、クロ様とリコ様が慕ってるのも頷けるっす」


 シンカの考えに対し、モミジはどこか目を輝かせていた。

 確かに吸血鬼ヴェリラスであるクローフィと人狼リュカリオンであるリコスがロウを慕っているのは謎ではあるが、シンカの推測が真実ならば、モミジの言った通り納得できる。

 だが、それを否定したのは吸血鬼ヴェリラスたるロザリーと人狼リュカリオンのフォルティスだった。


「否定。それ、たぶんない」

「あぁ、そうだな。亜人には亜人特有の匂いがあるが、父様にはそれがない。混血だったとしてもそれは同じだ。可能性があるなら、先祖返り……か」

「ご、ごめんなさい……先祖返りって、なんですか?」

「簡単に言うと、遠い先祖に吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンがいて、兄さんが突然その血に目覚めたみたいな感じです」 

「それとも、お兄さんが眷属、というのはどうかな?」

「いや、眷属が眷属を作ることはできなかったはずだよ。だけど、確かにクローフィとリコスがどうしてパパを慕うのかは謎だね……」


 眷属が眷属を作ることができないというのは、先祖返りでも同じことだ。

 となれば、仮にロウが吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンの血を持っていたとしても、純血でない限りカグラと契約することは不可能ということになる。

 クローフィとリコスがいつからロウと共にあったのかはわからないが、神殺しであるロウが歴代の月神に忠を尽くしてきた吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンと共にあるのは謎だ。

 それを言うなら、セレノ自体もそうではあるのだが……


「え? それはお二人がニケと同じだったからではないのですか?」

「どういうことなの?」

「そのお二人って闘技祭典ユースティアの時、月神様の傍にいた人ですよね? 昔ニケの写真を見た時にお二人も映っていましたから――反逆の箱舟(リベリオンアーク)に」


 シエルがさらりと言ってのけたそれは、まるで思いがけない情報だった。

 どうしてそれを早く言わないのかと次々にまくし立てられたシエルが、涙混じりにシンカへ寄り添う中、他に知っている者はいないかと皆が問いた出すものの、二人以外は知らないようだ。


 ブリジットの記憶と合わせると反逆の箱舟(リベリオンアーク)にいたのは、天使アンジェのニケ、吸血鬼ヴェリラスのクローフィ、人狼リュカリオンのリコス、人魚セイレーン火精ヴルカン妖精エルフ鬼族悪魔デモニア

 亜人のいない星国を除く、すべての国の亜人が属していたということになる。

 その中でも妖精エルフ族は亡び、吸血鬼ヴェリラス人狼リュカリオンはその数をかなり減らして、今はどこで集落を作って暮らしているのかすら定かではない。


「どうやらこれ以上調べるには、やっぱり昔の家に帰る必要がありそうだね」

「ブリジットの昔の家って……」

「内界だよ。アタシの祖母がかつてパパと共に戦い、自作の絵本を残している。その本はロザリーとフォルティスも知っていたんだ。ママの隠れ工房に行ってみる。他に何か残してるかもしれないからね」


 それは少し前から考えていたことだった。

 そしてシエルの記憶の中にあるニケの残したという言葉が、よりその意志を強いものへと変えていた。


”――反逆はんぎゃく箱舟はこぶねは世界を救うために在らず”


 つまりそれは、他に救う目的の何かがあったということに他ならない。

 だとすれば、ロウに関わった亜人たちは必ず何か手掛かりを残しているはずだ。

 世界の真実へと辿り着く、何か重要なものを――必ず。 


「同意。ロザリーも行く」

「もちろん俺も行く。一度故郷に帰ることでわかることは必ずあるはずだ」


 あれほど屋敷に執着していた三人がロウの元を離れ、揃って屋敷を留守にする。

 それも、すぐに帰って来れる保証などないにも関わらずだ。

 それは確かに一瞬驚くことだったが、実際はなんてことはない。

 たった三人きりだった昔と違い、今は信頼できる家族たちが住んでいる。

 そしてロウの為だから動く……ただ、それだけのことだった。


「それでなんだが、ね……カグラ。お前さんもついて来ないかい?」

「わ、私ですか?」


 思わぬところで話を振られたカグラがそっとシンカへ視線を送るが、シンカは何も言わなかった。

 シンカのカグラに対する溺愛っぷりは変わらない。

 ずっと共に旅をして来た愛する妹だ。

 しかし、過保護と大切にするということは、必ずしも同等イコールではない。

 カグラは人見知りで臆病で、少し前まで一人では何もできない子だった。

 だがカグラにも自分の意思があり、今はそれをきちんと表へ出すことができる。


 仲間を得て、戦いを経て、戦う仲間の姿とその意志を見て、小さな少女は確かに成長し続けている。

 シンカとて、散々カグラに心配をかけながらも無茶をし続けてきた。そんな彼女が、ただ心配だからという理由で大切な妹を縛り付けることはできない。

 カグラが自分で決めたことなら、最初から口を挟むつもりはなかった。

 心配なのは変わらない。もし自分の知らないところで、カグラの身に何かあったら……そう思うと今にも胸が張り裂けそうだ。

 それでも、大切だからこそ彼女の意思を尊重し、見守るべきときもある。


 何より、同行するのはブリジット、フォルティス、ロザリーの三人だ。

 その三人がどれだけ家族思いなのかを知っている。

 どれだけカグラの為に身を削り、自分と同じようにカグラを妹のように大切にしてくれていたのかを知っている。だから、この三人にならカグラを任せられる。


 小さく頷くシンカに、カグラは強く頷き返した。そして――


「行きます。一緒に行かせてください」


 いつもの弱々しさを感じさせず、震えのない声ではっきりと告げた。 

 

「事無。ロザリーもフォル君も、後一度変身を残してる。問題ない」

「あぁ、その通りだ。カグラ、何があってもお前は必ず俺が守る」

「はい」


 笑顔を浮かべて答えたカグラを見てブリジットは小さく微笑むと、シンカへと視線を移しながら最後の確認とばかりに問いかける。


「いいのかい?」

「ここで私に聞くの? 貴女たちのことは信じてるし、カグラが自分で決めたことだもの。ちゃんと、守ってあげてね」

「……シンカ。あぁ……任せな」


 苦笑しながら言ったシンカに、ブリジットは優しい笑みを浮かべて返した。

 そうして話が纏まるとツキノが軽く手を上げ、少し言いにくそうに声を零す。


「あ、あの~……こ、ここの家事はいったい誰がやるんですか?」

「リンお姉さんは料理できないし、実はボクも得意ではないかな……ははっ」

「お兄ぃがいるじゃないっすか。シンカもいるし、大丈夫っすよ」

「わたくしも頑張ります。メイドですから」

「殴るわよ?」

「――ひっ!」


 拳を掲げたリンにシエルが身を竦ませるも、シエルに張り切られたところで悲惨な結果は目に見えている。

 ただでさえブリジットがいなくなるというのに、余計な手間はかけられない。

 しかしそんな中、ブリジットはモミジの案を一蹴した。


「パパとシンカに頼らない方法が必要だね」

「え? なんでっすか?」

「パパがいつ動くかわからないからだよ。ジェーノの話を信じるなら、パパから目を離せない以上、常に一緒にいることができるのはシンカだけだからね」

「た、確かにそうだけど、それなら誰がやるのかな? このままだと、ボクたち飢え死にかな」

「私に任せなさい」


 自信満々にそう告げたリンに、皆の驚愕に満ちた視線が集中する。

 そんな無数の瞳にリンは眉をひくつかせ、少し身を引きながら……


「な、なによ。要は料理ができる人がいればいいんでしょ? アフティがいるじゃない」


 当たり前のように言ってのけたそれは、他人任せという暴挙だった。

 驚愕に満ちていた皆の視線が心底呆れたものへと変わる中、リンは言葉を重ねていく。


「オルカもいるし大丈夫よ。私とツキノたちの隊はある程度自由がきくけど、常に屋敷にいれるわけじゃないから、近くの魔門の警備はルカンたちと交代でしましょ」


 本人たちがこの場にいない中、リンの中で勝手に決まっていく采配。

 

「はぁ……台所に家族でもない他人を入れるのはすごく……すごく! 嫌だけど、帰って来て家族が餓死してるのも見たくはないね。リン、これだけは厳命しときな。台所を汚したら潰す」

「オッケーよ」


 実に綺麗な笑顔だ。

 そしてそのあまりにも理不尽な采配は、遂にこの場で決定となった。


 すると、シエルが控えめにそっと手を挙げた。


「あ、あの~……わたくしを忘れてはいませんか?」

「ん? あぁ、いたね」

「う、うぅ~……そんなっ。酷いです、あんまりです、わたくしだって……わたくしだって少しくらい役に立ちたいです」

「冗談だよ」


 涙を堪えるように言ったシエルを前に、ブリジットは意地悪気に微笑ませていた顔を少し引き締めると、


「シエル、お前さんの力は正直頼りにしてるよ。屋敷にいる間は魔門への警戒。後、お前さんのその意志が本物なら護ってみせな――パパを頼んだよ」

「――っ」

 

 シエルは目を見開き、鋭く息を呑んだ。


 これまでたくさん叱られたし、たくさん迷惑をかけてきた。

 しかし、過去の自分よりも今の、これからの自分を見てくれた。

 確かに過ちを犯してしまったが皆はそれを許してくれた。

 ロウを一番に考えるブリジットのその言葉が、どれだけ重い言葉なのか。

 今のシエルには痛いほどによくわかる。


 胸に手を当て、静かに、力強く、ぎゅっと握り込む。

 もう間違えない。もう迷わない。二度と、絶対に。

 最後の灯火が消え去るその時まで、最後までこの想いを貫いてみせる。

 この胸の奥で今もなお生き続けている……ニケのように。


「はいっ! お任せください! 守護天使の名にかけ――ぴっ!?」

「静かにしなさいよ、ロウが起きちゃうでしょ」


 リンの静かな怒声を浴び、ひりひりと痛む頭をさすりながら、シエルは涙混じりに”ごめんなさい”と言って頷いた。



 ロウの想いは理解できる。

 きっと知られたくないだろう。家族を巻き込みたくはないのだろう。

 しかし、家族を想う気持ちは彼女たちとて同じものだ。

 そこに関していえば、ロウに劣っているとは微塵も思ってはいないほどに。


 同じ気持ちを抱えながら、どうして彼女たちだけ我慢する必要があるのか。

 我慢の必要などありはしない……だからロウも止めはしないのだ。

 自ら教えることはできないが、彼女たちが自分の意思で真実を求めるのなら。

 たとえ知られたくなくとも、巻き込みたくなくとも、意思だけは自由であるべきなのだから。


 ブリジットのロウに対する宣戦布告は、この屋敷に住まう者皆の意志だった。

 彼女たちは迷わない、止まらない、揺るがない。

 たとえその先に待つ真実が絶望に満ちたものであったとしても、ロウが諦めずに立ち向かっている以上、それは絶望に成り得ない。

 たとえその真実が辛く悲惨なものであったとしても、決してロウだけに抱えさせはしない。たとえその真実がどんなものであったとしても、皆で立ち向かえばきっとなんとかなるはずだと……そう、信じて疑わなかった。


 否、疑いたくなかったのだ。


 誰も口にはしなかった。誰も言葉には出さなかった。

 誰も、誰一人として、それを音として発することはしなかった。

 それでも誰もが気付いていた。きっと、心は気付いてしまっていたのだ。


 舗装された道を辿るだけの、運命の行きつくその先を。


 

 皆はその後、いつの間にか楽し気に、他愛のないことを話し合っていた。

 まるで気付いた答えから逃げるように、或いはそれを振り払うかのように。

 不安や恐怖、悲しみや切なさ、寂しさや痛み、そのすべてを胸の内に押し殺し、皆はただ笑い合っていた。

 誰も部屋を去ろうとしないのは、一人になりたくなかったからだ。

 今は……今だけは、一人でいたくなかった。

 だから、窓から差した眩しい朝日が薄暗い部屋を照らすまで、ずっと皆は語り合っていた。

 

 そうして、ロウの知らぬ間に密かに行われた女子会は、静かに幕を下ろした。

 

 

 


 そして、次の日。

 善は急げというが、まずはリンがアフティやルカンたちに協力を要請し、クローフィにも許可を取らなければならない。

 なにより、ロウに黙って行くか否か……ブリジットは悩んでいた。

 今の彼女に過去の記憶があるということを、ロウは知らないからだ。


 ずっと言わなかった……いや、言えなかった。


 ブリジットを永い眠りにつかせたことに意味があるのなら、記憶を取り戻したことでロウとの関係が変わってしまうのではないかと、それが怖かったのだ。

 行動を共にする予定のカグラ、フォルティス、ロザリーの三人は、ブリジットの意思を尊重し任すと言ってくれていたが、自分の都合だけで何も言わずに行くのがよくないということも彼女自身よくわかっている。

 しかし、屋敷の家事をすべてこなし、この屋敷では母のように振る舞っている彼女とて強く在ろうとしているだけで、決して強いわけではない。

 

(そろそろ、支度しないといけないね……)


 昼食と洗い物を終えた後、長椅子ソファーに座り、ただ静かな時間を過ごしていた。

 いつの間にか時間は思った以上に過ぎ、気付けば短針は三の字を指している。

 旅立つと決めたのだから、いつまでもこうしてばかりもいられない。


 そんな中、向かいの長椅子ソファーに誰かが座る気配を感じると共に、優しい声がブリジットの耳に届いた。


「悩み事か?」

「……パパ」


 じっと俯けていた顔を上げると、そこにいたのはロウだった。

 

「珍しくミコトに蹴鞠をせがまれてな。シンカたちも一緒に遊んでたんだが、少し休憩だ。俺も思った以上に老体のようだな」

「なんだいそれ。パパはまだまだ現役だろ」


 冗談交じりに微笑むロウに、ブリジットは苦笑で返す。

 ミコトは基本、自分から我儘を言うようなことはない。何かをしたくても、何かを求めていてもそれを言わず、それを察したイズナがミコトをフォローしてるような感じだ。しかし今日は、珍しくミコトが自分からロウたちを誘っていた。

 庭の大窓から外を見ると、飛んで行った蹴鞠をシエルが叫びながら追いかけている。それを見て笑っているのはシンカとカグラ、そしてイズナとミコトだ。


「フォル坊とロザリーはどうしたんだい?」

「二人はずっと門の前にいるよ。さっきのブリジットみたいな顔をしていたな」

「そうかい……」


 上手く笑いたい。そう思っても、自分で上手く笑えていないのはわかっていた。

 きっと困ったような表情で、苦笑染みた微笑みになっていることだろう。

 

「ねぇ、パパ」

「なんだ?」

「どうして、こうなっちまったんだろうね。家族、なのにさ……」

「……」

「司法の女神の言ったことだ。パパが何も言えないのは仕方ないってわかってる。でも、アタシらが隠し事するのは……よくないよね」


 いつになく弱々しい声を漏らすブリジットを前に、ロウは小さく息を吐くと、何も言わずに手招きをしてみせた。

 ブリジットは首を傾げながらゆっくりと立ち上がり、おずおずとロウへと歩み寄る。すると――


「なっ!? パパっ」


 いきなり手を引かれ、ブリジットはロウの広げた足の間にすっぽりと収まった。

 そして、顔を赤く染めながら抗議しようとする彼女の声を、後ろから軽く抱き締める手が遮る。


「ブリジットが懐いてくれるようになったのは、降魔に襲われた時だったな」

「――」


 ロウの言葉に、ブリジットは鋭く息を呑んだ。

 どうしてこのタイミングで……まさか、ロウは自分に記憶が戻っていることを知っているのだろうか。

 そう思ったブリジットの心臓が激しく脈打つ中、ロウは言葉を重ねていく。

 

「降魔に襲われて怖かったんだろうな。まぁ当然だとは思うが」

「ははっ……小さかったからね」


 その言葉に、ブリジットは静かに安堵した。

 ロウがそう思っている以上、ばれているわけではなさそうだ。

 しかし、ならいったいどうして……


「俺の前でお前が心を見せてくれたのはあのときだった」  

「そう、だったかね」

「そうだよ。あのとき初めて、俺に素直な声を聞かせてくれた。素直な顔を見せてくれたんだ」

「……うん」

「今のお前が何をやろうとしているのかはわからない。だが、意思だけは自由であるべきだ。俺に気を使う必要はない。素直に、自分の思うままに、お前はお前らしくしていればいい。泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑えばいい。家族だからって、すべてを話さないといけないなんてことはないさ。やりたいようにやればいいんだ。困った時は助けてやる……必ずだ」


 喉の奥に何かが詰まったように声を出せず、とても温かいものがブリジット胸の内を満たしていく。


「ブリジット……家族というのは、縛り付けるものじゃないんだよ」


 込み上げる想いを堪え、ブリジットは回されたロウの手に自分の手を重ねた。

 そして、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「うん……そう、だね。…………パパ……アタシ、少しの間、屋敷を空けるよ」

「そうか」

「フォル坊とロザリー、それにカグラも一緒だ。屋敷の留守は、リンやツキノたちに任せてある」

「どこに行くのか、聞いてもいいのか?」

「ごめん、それは言えない。でも……できるだけ早く帰って来るつもりだ。屋敷をパパとリンたちだけに任せるのは不安だからね」


 わざとらしくそう言って、不器用な笑みを零すブリジットにロウは苦笑した。


「ははっ、耳が痛いな。お前たちが決めたことなら、俺には何も言う資格がない。ただ、一つだけ言わせてくれ。……無理はしないようにな」

「パパにだけは言われたくない」


 可笑しそうに言ったその声は少しだけ震えていた。


 ほんの少し甘えたくなったのは、こうしているのが随分と久し振りだからだろうか。ブリジットはそっと自分の背中をロウに預けた。


「パパ……もう少しだけ、こうしててもいい?」

「娘に甘えられて嫌がる父親はいないだろ」

「うん。ありがとう」


 ブリジットは嬉しそうな笑みを浮かべながら、懐かしい感覚に包まれた。

 まだリンとブリジットしかこの屋敷にいなかった頃、ロウに懐いたブリジットはこうして温かい感触に包まれながら、よく眠ってしまっていたものだ。

 昔より随分と成長したのだから、当時よりも当然収まりは悪い。

 それなのに、安心感と居心地の良さは昔と何一つ変わらず、ブリジットは愛する父親の腕の中でいつの間にか眠ってしまっていた。

 


 …………

 ……



 リンがクローフィの許可を取り、オルカとルカンの隊を屋敷付近の魔門の警戒へ配属を変更したものの、彼らから不満の声は一切漏れなかった。

 ルカンからすれば、屋敷付近の警護はむしろ願ったり叶ったりではあるし、ルカンが決めたことにオルカが口を挟むことはない。

 そうして準備は滞り無くす進み、ブリジットたちの出発が二日後に決まった。

 そんな中、僅かな違和感はあったのだ。だがそれは、あまりにも急な事だった。

 ミコトとイズナの二人が、自分の国へ帰ると言い出したのは……。


 曰く、女神の座を正式に継承するまで遊びたかった。だが、いつまでも遊びほうけているわけにはいかない。だからそろそろ帰らねばならない、とのことだ。

 早く帰らなければならないと思いつつ、此処の居心地の良さについ長居をしてしまった。しかし、シエルの件も事なきを得て、ブリジットたちも屋敷を空けるのであれば、皆の負担を減らすためにも丁度良い機会だと考えたようだ。


 リンもツキノもシラユキやモミジたちも、気にすることはないと言っていたのだが、地国の事を出されれば、それ以上無理に引き留めるわけにはいかない。

 せめて一日くらいはゆっくりしてけ、ということでその話は纏まり……


 この日の夜はまるで宴会のようだった。

 ブリジットも暫く屋敷を空ける為、腕によりをかけて豪勢な食事を並べていく。

 そう長い日々ではなかったが、それでも心から別れを惜しむには十分すぎる時間だった。だが、これが今生の別れというわけでもない。

 たとえそれぞれの行く先が違っても、想いが辿り着く先は同じはずなのだから。

 

 ミコトもイズナも、終始周りと一緒になって笑っていた。

 楽しそうに、思い出を心に刻むように、心残りのないように。

 残り僅かなここでの時間を、精一杯楽しんでいた。


 …………

 ……

 

 そうして翌日の朝、皆がまだ寝静まっている頃。

 ミコトとイズナは屋敷の門の前で、お世話になった屋敷を眺めていた。


「お別れは言わなくていいのかい?」

「うむ、よい。昨日のうちに別れはすませたからの」

「ここでの生活は楽しかったかい?」

「そうじゃの……騒がしい家だった。皆、本当に良い連中じゃ。ずっとここに居たいと思えるほどにの」

「……そうかい。そいつはよかったさね」

「じゃが、余はこれでも一応女神だからの。我儘は言えぬ。もう……十分に我儘は言った」

「……」

「のぉ、イズナ。また……遊びに来れるかの?」


 寂しそうに屋敷を見つめるミコトの横顔は、まるで迷子のようで……イズナは小さな彼女の手をそっと握ると、優しい声で答えた。


「もちろんさね。国が落ち着いたら、また来ればいい」

「うむ、そうじゃの。……よし! 帰るぞ、イズナ」

「はいよ」


 深く深く頭を下げ、二人は身を翻した。

 そうして、一度も振り返らずに小さくなっていく二人の背中。

 自国に帰るだけだというのに、彼女たちはいったい何処へ向かおうとしているのか。そう思えるほどに、二人の背中はとても小さく見える。

 

 煌照節十五日。

 この日、地国からの来訪者たちは自身の国へと帰って行った。

 誰に何を告げることもなく、大葉色の蹴鞠を大切そうに抱えながら。

 

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