186.向けられる愛
防衛拠点の見張り塔からリンたちが見下ろした先、大門を抜けた外側では、ロウとシュネルが激しく得物を交えていた。
そこに至るまでの経緯はそう複雑なものではなく、天国から帰ってのここ数日の間、心配をかけた皆へとロウが感謝と謝罪の言葉を言って回っていたのだ。
その初日、屋敷の庭にいたロウをたまたま見かけて声を掛けて来たのは、屋敷の前を通る度に頭を下げていた、赤ん坊抱いた夫婦だ。
その夫婦の得も言われぬ表情と涙混じりの声には、さすがのロウも驚いた。
七年前の夫婦はロウも覚えていたが、まさかお礼を言われるとは思っておらず、その上赤ん坊の名前がフィリアだと教えられては、こそばゆい気持ちに包まれるのも無理はないだろう。夫婦が赤ん坊にロウのことを語って聞かせるというものだから、ロウは必死にそれを止めたが、どこまで本気にしてくれたかはわからない。
次はルカンがプサリを連れて屋敷を訪ねて来た。
そしてそれも先の夫婦と同様、かけられたのは感謝の言葉だ。
自分のことを英雄だというプサリに、ロウはいたたまれない気持ちになった。
英雄ではない……英雄とは、誰かを護れる者こそが相応しいのだから。
しかし、目を輝かせながら自分もいつか人を助ける人になるのだと言うプサリを前に、ロウはその真っすぐな感謝の気持ちを否定することができなかった。
そんなプサリに”ありがとう”とロウが言うと、どうしてロウが感謝を述べたのかわからないと言った表情を浮かべていたが、いつか本当にプサリが人を助ける立場になったとき、きっとロウの言葉の意味がわかるだろう。
そして任務から帰ったリンがスキアとアフティ、オトネを連れて来た。
四人がロウとの記憶を取り戻し、やっと本当の意味で再会したと思いきや、三人とはいきなり引き離されたままの状態だった。
リンも天国への行動を共にしたとはいえ、ゆっくりとした時間は一切とれていない。
話すことはたくさんあった。話したいこともたくさんあった。
ロウがいなくなってどれだけ探したのか、どれだけいろんなことがあったのか。語りつくせないほどの思いがあったはずなのに、四人はその一切を口にしなかった。まるで、言葉にせずとも互いの想いは理解しているといったように。
また別の日、ロウは屋敷を出ると月の使徒のいる宿舎へと向かった。
その道中、以前のようにムメイの力で姿を偽っていないロウにたくさんの視線が集まるものの、それは蔑むような視線でも恨みが籠った視線でもない。
当然すべてがそうというわけではないが、少なくとも罵声などが飛んでくることはなかったし、宿舎の敷地内に入ってもそれは変わらなかった。
アルテミス派はもちろんとして、エパナス派の者たちも視線を背けるだけだ。
中には訝し気な視線を送る者たちもいたが、誰一人としてロウへ声をかける者はいない。声をかけようかと戸惑う視線も中には含まれていたが、ロウから声をかけるようなことはしなかった。
誰もがきっと、ロウの扱いにいまだ戸惑っているということだろう。
それは仕方のないことだし、責めて立てる者がいない方が不自然なのだから。
それはまさにサラの貰った魔石で見た、皆の助力によるものだろう。
自分のために声を上げ、想いを届け、必死になって頑張ってくれた皆の気持ちが、ロウの中に返しきれない感謝の念となって押し寄せていた。
それと同時に、混じり合う悲しみと罪悪感。
それはロウ自身が、皆の自分に対してのこの尊い好意を裏切るとわかっているからだ。いつか必ず、そう遠くない日に……裏切ってしまうとわかっているから。
無論、宿舎の近くを通る際に脳裏を過ぎったのは、リアンとセリスの姿だった。
彼らと別れてからすでに三か月半が経過している。長いようで短いような……月国に来てから、本当にいろいろなことがあった三ヶ月半だった。
スキアから状況を聞いていたはずの二人にも、さぞ心配をかけてしまっていたことだろう。それでもリアンもセリスも、一度もロウの元へは来なかった。
ロウの中に別れ際の言葉が蘇る。
今も二人は必死に努力し続けているのだから、ここでロウの方から会いに行くわけにはいかなかった。
ともあれ、宿舎に辿り着いたロウは懐かしい顔ぶれと再会した。
ヴァングやアミザ、シャオクといった見知った顔ぶれが次々に声をかけてくる。
最初は心配したという言葉や無事を喜ぶ言葉から始まり、後は数々の愚痴や不満だったが、遠い過去よりも当時と今のロウを見てくれる皆の顔は、口とは裏腹にとても綻んでいた。
同時にシュネルとも話しておきたかったが、彼は基本は防衛拠点にいる。
その日もシュネルは宿舎におらず、また日を改めることにした。
クローフィにも会っておきたかったが、セレノとリコスの不在で多忙な彼女の邪魔になるといけない。自分が帰ってきたのは知っているはずだし、手が空いたら向こうから連絡が来るだろうとロウは自重することにした。
そうして日を改めた今現在まで、エパナスから接触してくるだろうと思っていたがそれもなく、クローフィからの連絡もないままだ。
ロウが防衛拠を訪れると、シュネルから申し出たのはロウとの話し合いではなく手合わせであり、ロウはそれを受けた。
現在進行中で続いているシュネルとの約束が終わると、一度クローフィの顔を見ておこうと思っていたのだが、そう予定通りには事は運ばないものだ。
本気の戦いではなかったとはいえ無事にロウが勝利を収めると、それを見ていたシャオクとアミザが久し振りに稽古をつけてくれと言ってきた。
この日の為にわざわざ休暇を合わせたシャオクは実に彼女らしい。
本来副官は隊長の仕事を手伝うものだが、アミザに関してはそれに当てはまらないようだ。一瞬ヴァンクの悲鳴が聞こえたような気がしたが、当の本人はまるで悪びれる様子もなく、そこから察するにこれはいつものことなのだろう。
一先ずシャオクと模擬戦をし次にアミザ、そして何故か再びシュネル。
端から見ていて気付いたことがあるからという理由での再戦は真面目なシュネルらしいが、真面目な者が二人いると歯止めが効かない。
シュネルが終わると次は再びシャオク、そして狡いと言わんばかりにアミザ。
心配をかけてしまった手前、断ることもできずにロウがそれに付き合っていると、今はその三度目の繰り返しに突入していた。
それで皆が満足してくれるならロウにとっても嬉しいことではあるのだが、休息しないままの連戦は、いくら模擬戦とはいえそろそろ辛いものがある。
だが、そこはさすがシャオクといったろことだろうか。
ロウとシュネルの戦いが終わると、ロウの体力を見計らったかのように歩み寄り、労いの言葉をかけた。
「さすがロウ様です。これを」
「あぁ、ありがとう」
シャオクが渡してくれた水の入った水筒を受け取り、ロウは乾いた喉を潤した。
「ふぅ……想像以上の力でした。お付き合い頂き、ありがとうございました」
「ふん、当然だろう。我らを育ててくれた御方だぞ」
「そうですよね。いくらフィロドクト家の御子息といえど、ロウさんに勝とうなんて生まれ変わっても無理ですよ」
誇らしげなシャオクに続き、アミザは小さく舌を出しながら悪戯に微笑んだ。
すると、シュネルは指先で眼鏡の中央を軽く持ち上げながら言葉を返す。
「いえ、そうとも限りません。僕が何に生まれ変わるかにもよるでしょう」
「……真面目な男だ」
「シャオクさんがそれいっちゃいますか」
アミザの言う通り、シャオクのロディア隊は厳しいことで有名だ。
自分にも、そして部下にもそれは変わらず、シャオクの隊は規律を重んじる。
それは自分を鍛えてくれたロウに恥をかかせぬためでもあり、ロウの教え子だと胸を張って誇るためでもあった。
それは名無しの正体が神殺しだと知って尚、揺らぐことはない。
シャオクの隊はルナリス隊へ憧れを抱いた者たちの集まりだ。そんな彼女たちが強く大きくなり、中界の遠征任務を任される責任ある立場になってから、その意志がより一層高まったのは言うまでもない。
「私とてたまには冗談の一つや二つ、口にすることもある」
「へぇ~、たとえばどんなです?」
「そうだな……私はいずれ、ルナリス隊の座を狙っている」
「……」
「どうした?」
「シャオクさんがそれ言っちゃうと、さすがに冗談に聞こえないですって。というか、それって冗談なんですか?」
「さて、どうだろうな」
「だそうですよ?」
薄く微笑むシャオクに、アミザは苦笑いを浮かべながらロウへと話を振った。
「シャオクのそれは冗談だよ」
「え? どうしてです?」
「シャオクは自分の隊を放り出すような真似はしない。そんな子だ」
「――ッ、ロロロ、ロウ様」
湯気が立つほど赤くなり、シャオクは顔を引きつらせた。
「本当に隊を任せられるような者が現れたら、その後は好きにするといい」
「あああ、ありがたきお言葉。そそ、そのときはお世話になりまする」
「まするって……」
苦笑しているアミザや、シャオクと昔から付き合いのある面々はこんなシャオクの一面を知っているが、他の者が見れば驚く光景だろう。
しかし自他共に厳しく、滅多に表情を崩すことなく威厳を保ち、常に冷静さをかくこともなく、相手に決して本心を悟らせない彼女にも弱点はある。
憧れを抱く相手や、尊敬に値する相手に図星を指されたり褒められることだ。
そんなシャオクの傍ら、シュネルは懐から小さな手帳と筆を取り出した。
「なるほど……人は酷く取り乱すと語尾が変わり、まるで性格が変わったようになるんですね。声を荒げる者はいましたが、これは新しいタイプです」
「貴様、何をメモっている!」
「僕は感情に乏しいようなので参考にと。これまで部下に不自由をさせた分、自分の意思でそれを学ぼうと思いました」
「ッ、勝負だシュネル! 私が勝ったら貴様の記憶をそのメモごと抹消しろ!」
「それは受けることができません。記憶を自らの意思で消すことは不可能です」
「なら私が忘れさせてやる!」
シャオクの肩に止まっていた白梟が危険を回避するように飛び立つと同時に、問答無用と言わんばかりにいきなり攻撃をしかけたシャオクの剣をシュネルが受け止めると、始まったのはシャオクの羞恥の存亡を賭けた決闘だった。
すると、目の前で上がる甲高い音と気迫の声を聞きながら……
「……止めなくていいんですか?」
「距離が縮まったと解釈しておこう」
呆れた様子で眉尻を下げるアミザと共にロウは苦笑した。
始まったシャオクとシュネルの決闘を、見張り塔の上から遠目に眺めていたのはスキアたちだった。
ロウとシュネルが手合わせしていたのはわかる。スキアがシュネルと戦った際、自分の眼でロウを見極めると言っていたし、それも方法の一つだったのだろう。
その後、シャオクとアミザがロウと手合わせしていたのも頷けることだ。
シャオクが中界の遠征任務を受け持つ隊へ志願したのも、ヴァングとアミザが時と場合によって役割を変える遊撃部隊に志願したのも、元はスキアたちと別方向からロウを探すためだった。
久し振りに再会した恩師でもあるロウに、強くなった自分たちの力を見せたいと思うのも無理はない。しかし……
「なんでアイツらが戦ってんだろうな」
「シャオクちゃんから斬りかかってたよね」
防壁に力なく上半身を預け、ぼーっと二人の戦いを見ているスキアとオトネ。
その後ろではリンとティミド、アフティとオルカが雑談しており、ルカンは横になって眠っている。まるで見張り役の取る行動ではないが、大門の外にいる顔ぶれを考えればこうなるのも仕方がない。
階級の高い降魔ばかりの余程大きな群れでもない限り、降魔が現れたところであの四人がいれば、彼らだけで容易く殲滅してしまうことだろう。
「どっちが勝つかな?」
「さぁ……一対一ならシャオクはずば抜けて強いからなぁ。どっちかが諦めるまで勝負はつかないかもな」
シャオクの能力は相手の動きを読むことだ。人が動くときに生じるありとあらゆる情報を捉え、相手の動作を事前に把握することができる。
対してシュネルは、運動力をそのまま維持した状態で方向転換する事ができる。
いくらシャオクがシュネルの動きを読もうとも彼の動きを捉えることができず、逆にシュネルもいくら奇襲のような攻撃を仕掛けようと、シャオクを完全に捉えることはできない。
互いに相性が良いともいえるが、非常に悪いともいえる。
一瞬の油断、隙を見せたら即座に片のつく勝負ではあるが、勝負が始まった以上それがどのようなものでも、二人とも油断するような性格ではない。
何度も打ち合う中、一度も相手に一撃を与えることができずに勝負は拮抗。
スキアとオトネがのんびりと気長に勝負の行方を見守る中、遠くで振り返ったロウと視線が合い、二人は手を振って応えた。
「そういば、スキアとはどうなんだ?」
視線を前に戻し、ロウが隣にいるアミザに問いかけると、彼女は小さな溜息を零しながら拗ねた口調でそれに答える。
「はぁ……スキアさんですよ? 気付いてくれるわけないじゃないですか」
「そうなのか? スキアは割と鋭いところがあると思うが」
「全然です。乙女心にはさっぱりの人です」
「ははっ……」
はっきりと言い切るアミザに、ロウは乾いた声を零した。
スキアが変わった過去の一件の時から、アミザがスキアに恋心を抱いているのは周知の事実だ。アミザはそれを周囲に隠そうともしないし、照れることもない。
しかし、スキアにだけつい皮肉めいた言葉を吐いてしまうことが伝わらない理由だと、アミザは自分でも理解していた。
「元ルナリス隊の副隊長で今は隊長。元老院の子でありながら自由で無邪気で後輩の面倒見もよくて、強くて優しくて。あの人、割と人気あるんですよ、実は」
「だろうな。昔もよく女の子からいろいろ貰っていたから」
「はぁ……私も昔、お弁当でも作ろうと思って好きな物を聞いたら、返って来た答えは駄菓子とジャンクフードですよ? 作る気失せましたよ……作りましたけど」
外界の人間や亜人は長寿だからという理由もあってか、基本的に恋愛に対しては積極的ではない。もちろん個人差はあるし、良い人と出会えたら積極的に行く者もいるのだが、割とのんびりとした者がほとんどだ。
だが、戦いに身を置く者たちほど、添い遂げる相手を強く求める。
いつ自分が死ぬか、それとも相手が死ぬかわからないからこそ、恋愛にはとても前向きなのだ。
小さく影を落としたアミザに、ロウはわざとらしく前置きを入れると……
「そういえば、スキアの好物なら俺も一つだけ心当たりがあるな」
「え? な、なんですか?」
「ヒントは君が昔、スキアに送ったことのあるものだ」
「私が? 一度お弁当作っただけですけど……」
「もっと昔にあるだろ?」
「昔? 昔、昔、昔……むか――あっ、え? でも……あれって……」
腕を組み、唸るように考え込むアミザだったが、すぐに思い当たることがあったのか……しかし、余程意外なものだったのだろう。一瞬はっとしたように目を丸くするも、すぐに首を傾げてしまった。
「当時のスキアは今と違って周りを見ていなかったからな。誰から貰ったか覚えてないが、あの味は忘れられないと言っていた」
「で、でもあれってまだ料理に慣れてなかったから、そんなに美味しくなかったはずなのに……というか、どうしてロウさんがそんなこと覚えてるんですか?」
「誰かが一生懸命に感謝を伝えようとする光景は記憶に残るものだ。庇ってもらったお礼にと君があげたクッキーは、スキアの心に残るくらい想いが詰まっていたということだろう。たとえ不出来でも心に残ったのなら、大切なのは好物がどうかではなく、そこにどれだけの想いが詰まっているか、なのかもしれないな」
「……ロウさん」
任務の際、危ないところをスキアに助けて貰ったお礼にと、アミザは一度だけクッキーを作ったことがあった。
身分違いではあるし、市販でも美味しいものはたくさんあるクッキーなど、それこそ値の張るものですら食べ慣れていることだろう。
それでも、当時のアミザはどうにか感謝を形にしたかった。周囲になんの感情も向けていなかったスキアがそれを受け取ってくれたのは意外だったが、その感想があるわけもなく、本当に食べてくれたのかすらわからないままだったのだ。
ロウの話を聞いて、アミザの心はとても満たされていた。
ちゃんと食べてくれただけでなく、それが心に残る味だったなど当時のアミザに想像もできたはずもない。
すると少し照れ臭いのを隠すように、アミザは慌てた様子で話題をすり替えた。
「そ、そういうロウさんはどうなんですか? 周りには綺麗な人や可愛い人がたくさんいますし。えぇ、それはもう本当にたくさんいますし」
「みんなが綺麗で可愛いのは同意だが、家族だぞ?」
「ロウさんの言い方だと、ロウさんと関わった近しい人はみんな家族になっちゃいます。大家族です。大家族すぎです。家族多過ぎです」
「駄目なのか?」
「…………(駄目だ……ロウさんの目がまじだ……)」
ロウが家族想いなのはわかっていたことだが、あまりに当たり前のように返すロウに、唖然とするアミザの口からは乾いた音しか漏れなかった。
しかしここで負けてなるものかと、アミザはさらに問いかける。
「ロウさん。ロウさんとみなさんは家族である前に男と女です。誰かと添い遂げるつもりはないんですか? 好きな人、いないんですか?」
「か――」
「家族以外の愛情でっ!」
あまりにも早い先回りの答えに苦笑するロウの前では、アミザがふんすと息を荒げていた。
ロウへ尊敬の念を抱く者、憧れる者、恋愛感情だと自覚できていない者、素直に愛情を向ける者、逆に素直になれない者……そんな風に好意を向ける者たちはたくさんいる。
アミザにとってロウは恩師のようなものだ。当然幸せになって貰いたい。
それは紛れもない本心であり、純粋な想いだった。だが――
「ないよ」
「…………えっ」
一瞬、アミザは時が止まったような錯覚に陥った。
「添い遂げるつもりはないし、誰かを好きになることもない」
迷いもなく、はっきりと告げられた言葉。
人間とは感情的になる生き物だ。内界の人間も外界の人間もそれは変わらない。
失恋したとき、恋人と別れたとき、時に人はロウの口にした言葉と同じ台詞を吐き出してしまう。しかし、もう誰も好きにならないと言葉にしつつも、いつか再び誰かを好きになることがほとんどだろう。
人は孤独に、寂しさに耐えれるほど強くはなく、温もりを求めてしまうからだ。
しかし、長年生きてきたロウに浮ついた話一つないという事実は、ロウの言葉をより重いものへと変えていた。
「ど、どうして……ですか?」
「俺がそういう生き物で、そういう生き方しかできないからだ」
「……」
アミザは何も言葉を返すことができなかった。
そう言って微笑むロウに、小さな違和感を感じたからだ。
いつも向けてくれる優しい微笑み……しかし、どこかが違う。
どうしてそう感じたのかはわからないが……ただ、悲しかった。
そう言って微笑むロウを見て、彼の口から出たその言葉を聞いて、アミザはただただ悲しい気持ちに包まれていた。
「っと、終わったみたいだな」
前を見ると、シャオクとシュネルは互いにまともな一撃を与えられないまま、距離をとって僅かに荒くなった息を整えていた。
危険を回避していたはずの白梟も、いつの間にかシャオクの肩に戻ってきている。
「さすがはシュネルといったところか。私が一対一でまともに一撃を与えられないとは……」
「それはこちらの台詞です。スキア君といい、アルテミス派の部隊は曲者揃いですね。実にやりにくい。一対一に特化した力を持つ貴女が、どうして闘技祭典に出なかったのですか?」
「………………」
ふとしたシュネルの疑問はもっともだ。
一対一に特化した力ともいえる能力に加え、高みを目指す精神や常に強く在り続けようとする心。そんな今の彼女が参加しなかった理由を探す方が難しい。
力をつけたこの七年間は、ロウを探すことに力を注いでいたことと、自分の部隊を育て上げることでその余裕がなかったのだが、この間の闘技祭典は別だろう。
名無しの帰還を知り、部隊も十分に力をつけていたのだから。
何気ないシュネルの疑問にシャオクは沈黙し、暗い影を落としながら剣を地面に突き立てた。そしてそのまま、力なく両膝を地面へと折ると……
「…………かからなかったのだ」
「かからない、とは?」
「ロウ様から……お声がかからなかったのだ」
言って、シャオクは恨めしそうな瞳をロウへと向けた。
名無しが帰って来た上に、彼が闘技祭典に出場するという話はルカンが勝手に周囲へと広めていた。
無論、シャオクの耳にもその話は入っていたが、それをスキアたちに問い質したところ、なんとも要領の得ない微妙な答えしか返ってこなかったのだ。
ただ”今はまだ期待するな”とだけ伝えられていた。
それはスキアたちの記憶が正常ではなく、ロウが自分たちの隊長である確信を得ていなかったからなのだが……実際はどうだ。
任務から帰って報告を聞いてみれば、名無しは紛う事なき名無し本人であり、スキアたちは戦場の中でいち早く再会を果たしていた。
しかもロウは虹の塔に捕らわれ会えないとくれば、シャオクの意気消沈、或いは行き場の無い憤りは至極当然のことだろう。
とはいえ、そのときはスキアたちもロウ自身も、まともな記憶を取り戻していなかったのだから仕方ない。仕方ないのだが、やり場のない気持ちが込み上げる。
そんな視線を送るシャオクを前に、ロウは困ったように乾いた笑みを漏らすと、まるでその場から逃げるように身を翻した。
「そういえばこの後、クローフィに会いに行かないといけなかったんだ。また一緒に訓練しような」
「ッ、はいっ!」
恨めしい表情から一転。一瞬にして目を嬉しそうに輝かせ、即座に立ち上がったシャオクは綺麗に姿勢を正してロウに敬礼した。
そんな中、行こうとするロウを呼び止めたのはシュネルだ。
「待ってください。最後に一つ、聞かせて頂けませんか? 貴方を自分の目で見極めるのが元々の目的ですので」
「あぁ、かまわない」
「ありがとうございます。それでは……一と全、貴方ならどちらをとりますか? 当然言うまでもありませんが、一なら他は安全に、全ならより皆を危険に晒すものとして」
それはいつしか内界のクレイオでカグラの導き札に出た、無か全の選択に等しいものだった。
村を救うために動く危険性と、村を犠牲にして確実に救える命。より多くを救うのか、確実に救える命を救うのか。無論、全を選べは一すら残らずに無と帰す可能性もある。その答えを選択したのはリアンだったが、あのときの自分はなんと彼に声をかけただろうか。
そう、何も迷うことはない。迷う必要は何もない
だからロウが返した答えは、そのときのものと同じだった。
「全だ。考えるまでもない。救える可能性があれば全てを救う。ただ……」
そう……ただ、あのときと違ったのはこの一言――
「一の命にもよるけどな」
小さく微笑んでいったロウの言葉を、シュネルがどう受け止めたのかはわからない。だが静かに瞑目し、眼鏡の縁を指先で持ち上げたシュネルを一瞥すると、ロウは静かに身を返して歩いて行った。
その背中を見送るアミザの中に強くこびりついていたのは、彼女自身がロウに問いかけた質問に対する答えだったが、あれはどういう意味だったのだろうか。
そうしてロウの背が小さくなると、シュネルはいつまでもその背を見続けながら、いつもとは違う表情と声音で独り言ちる。
「なるほど、それが貴方の選択ですか。……英雄は英雄にしか成り得ない。貴方は紛れもなく、そして愚かなまでに英雄です。人の身にはもう落とせず、その道を行くしかない。唯一逸れる道があるとしても……きっとそれすら……」
「どういう意味だ? あの御方を馬鹿にしているのか?」
「いえ、貴女たちの気持ちも少し理解したというだけですよ。僕も行きます。やることができましたので」
そう言い残こし、シュネルは歩き去って行った。
「……なんなのだ」
残ったシャオクは腕を組みながら眉を寄せ、彼を止めることなく呟いた。
すると、そんな彼女にどこか不安げな様子で言葉をかけたのはアミザだ。
「ねぇ、シャオク」
「ん?」
「人を好きになれない生き物って……そんな生き方しかできない人って、どんな人だと思いますか?」
「いったい何を――」
アミザに視線を送り、シャオクは言葉を詰まらせた。
意味のわからない馬鹿な質問だと切り捨てようと思っていたが、アミザの瞳は真剣だった。切なさの中に、その答えを真摯に求めている。
だからシャオクは小さく息を吐きながら、真摯な言葉を口にした。
「……仮にそんな生き方しかできない人がいたとしても、私はこう思うよ。人を動かすものは絶望ではなく、希望や愛情だ。誰もが求めるものだからこそ、誰かを想う気持ちからは逃げられない、と」
「本人がそれを求めていなくても?」
「愛とは傲慢だ。そんな人には、押し付けるくらいの愛情が丁度いい」
「ふふっ、そうですよね。シャーオクッ!」
「な、なんだ、いきなり」
アミザは顔を綻ばせながら、半ば飛びつくようにシャオクへ抱き着いた。
慌てるシャオクに顔を押し付けながら、アミザは思う。
ロウがどれだけ否定しても、周りは色の濃い連中ばかりだ。簡単に諦める者などいない。簡単に逃がしてしまう者などいはしない。
そうしていつか……いつかきっと、ロウがこれまで周りに向けてきた多くの愛情が、悲泣のように微笑む彼を救ってくれるに違いないと。




