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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第五節『これは箱船が残した忘れ形見』
184/323

181.血が残した意志の力


 空高くに昇った太陽。晴れ晴れとした快晴の大空。

 燦々と地上に注ぐ陽の光は温かく、少し肌寒い空気に震える身体も少しは温めてくれる。木漏れ日が野花を照らし、穏やかに吹く風が木々を揺らす。

 しかし広大な草原の上空。ロウの頭上の雲は厚く、雷鳴が激しく轟いていた。

 青空を覆い隠す雲を払うほどの眩しい光が瞬いた刹那、落ちる雷。


 ロウは左手に納刀した氷刀を持ったまま、足元に氷塊を生成、それを足場に跳躍して回避する。落雷が氷塊を穿って砕くと、ブフェーラは短杖から雷の魔力剣を作りだし、勢いよくロウへと飛翔した。

 振り上げられた氷刀と、振り下ろされた魔力剣が交差する。


「くッ」

「軽いな」


 しかし、上空から振り下ろされた勢いの乗った魔力剣を、踏ん張るための足場のない空中で受けきるるのは不可能だ。ロウの体は容易く下へと弾き飛ばされた。

 そして間髪入れず、それを追撃するように放たれたのは激しい稲妻。


 ロウは落ちる先に氷塊を生成し、それを強く踏みつけると、抜き放った氷刀で稲妻を斬り裂き、流れるように後方へ飛びながら返しの刃で氷柱を飛ばす。

 だが、ブフェーラは速度を落とすことなく体を捻って氷柱を回避すると、ロウとのすれ違いざまに上からの一撃を叩き込み、反転して下からの一撃を放ちながら再び通過。ロウからの反撃を受けまいと、一撃離脱を繰り返していく。


 何度も氷塊を踏み台に稲妻を回避し、魔力剣の一撃を氷刀で受け、ロウはなんとかまともな一撃を受けることなく避け続けるものの、空中という不利な状況が好転するはずもない。縦横無尽に空を舞い、遠近の両方から一方的に強力な攻撃を加えてくるブフェーラに、ロウはただ防戦一方となっていた。


 高高度である空中を利用し、ブフェーラはロウが地上へ足をつけることができないよう、何度も上に弾き飛ばしては上空から雷を落とす。

 

 この戦場は人が豆粒に見えるほどの高空だ。落ちればただでは済まないだろう。

 しかし、墜落で勝敗を決するのは確かに興醒めではあるものの、わざわざ相手を安全に地上まで降ろしてやる義理もない。


 だが、絶対的不利なはずの空中で、攻撃の悉くを巧みに躱し続けるロウを前に、ブフェーラは僅かな違和感を感じていた。

 




 地上からロウとブフェーラの戦いを見上げるシンカとシエルは、きりきりと胸が締め付けられる思いだった。今すぐ駆け付けたい。加勢したい。助けたい。

 戦いの場は空中へ変わり、ロウの不利は誰の目から見ても明らかだ。

 巧みに躱し続けてはいるものの、そんなことがいつまでも続くとは思えない。

 なにせ、相手は膨大な魔力と特殊な神力ちからを有する神だ。


 確かに、神相手にここまでやり合えるロウの力量は驚くべきものだろう。この戦いの一部を見ているだけで、ロウが神殺しだと実感を持つには十分なほどだ。

 一つ一つの攻撃の重さ、魔力の密度、速さ、それらすべてが秀でている。

 仮に彼らの戦いに誰かが割って入ったとしても、まともについていける者がいったいどれだけいるというのか。

 おろらく同じ神か、一桁の討滅せし者(ネメシスランカー)くらいなものだ。


 しかし、地上ですら互角だったはずの戦いの中、自由に動けない戦場で神相手にこの状況を覆すという光景が、どうしても思い浮かべることができない。

 シエルの中に募る不安、ざわつくような嫌な予感、想像してしまう最悪の結果。

 シエルは右手で自身の胸元をぎゅっと握り、左手でシンカの裾を掴んだ。

 すると、耳に届いたのは……

 

「大丈夫よ」


 はっきりと、力強い声で告げられた言葉だった。

 しかし、なんの迷いもないような声の奥にある感情はシエルにもわかった。

 ここでシエルが自分を責めないように、ここでシエルが不安にならないように、シンカは気丈に振る舞っているだけに過ぎないのだろう。

 ここで自分の不安を見せないように、ここで自分の恐怖を悟られないように、シンカは強く自分へと言い聞かせているのだ。


「……シンカ」


 だが、遙か上空にいるロウをまっすぐ見据える琥珀の双眸。

 その横顔に浮かぶのは、紛れもない大きな信頼であるといえるだろう。

 シエルが零れそうになる涙を堪え、鼻を啜りながらシンカを見ていると、次に聞こえてきたのは現実を突きつけるものだった。


「大丈夫なわけないじゃん」

「姉さん」


 振り向くと、視線を斜め下に落としたパセロをパグロが諫めていた。

 

「だって、パグ……変な期待を持たせるのはかわいそうだよ。わたしだってシエルに笑顔が戻るならって思うよ……思うけどさ……期待させて後で裏切るの、よくないよ。パグだってわかるでしょ? 大空で翼を持つ者に、翼を持たない者が勝つことはないんだよ」

「……それは、そうだけど」


 空を飛べる二人の、空で戦う二人の言葉は重いものだった。

 シンカも一度、内界で水中型の降魔と遭遇したことはあるし、翼を持つ降魔も見たことはあるが、それらと戦ったことは一度もない。

 地の利というものの重要性は理解できても、実体験が伴ってはいないのだ。


 しかしパセロとパグロ、この二人は違う。

 天国チエロレステに位置する中界に生息する降魔は、そのほとんどが有翼種だ。これは中界から内界、外界へと流れる出ている自然に漂う魔素の影響と言われているが、実際のところ定かではない。


 ただ、魔門ゲートから現れる降魔の特徴として、海国には水中型、天国には空中型、地国には地上型が多く、その他の国はその気候に合った能力を有する降魔が出現しやすいというのが傾向として見られる。


 だからこそ、天の戦翼である二人はよく知っている。

 空中型のデューク級が、空を飛べない魔憑にとってどれだけ恐ろしいのかということを。そして、空を飛ぶ降魔の群れを前に、誰かを護ることがどれだけ難しいのかということも……その身に染みてよく理解しているのだ。

 パグロの翼を黒く染める原因となったのが、まさに空中型の降魔の群れと相対したことそのものなのだから。


「実際きみだって強がってるだけでしょ? わかるよ……きみの中には不安と恐怖が確かにある。考えてもみなよ。この状況で神殺しの勝利をイメージできるの?」


 視線を合わさずに問いかけるパセロの言葉に、シンカは確かにその通りだと思ってしまった。まさに図星とはこのことだ。

 ちらりと視線を横に流すと、パセロとパグロ以外は口を噤み、ずっと我関せずを貫いたままだ。


 ミコトは共に過ごしていたし、ジェーノとクレアは最初の印象が強すぎた。ファロの登場で少しは鈍くなっていた感覚が戻ったものの、今思えばここに集まっているのは誰もが大いなる力を宿した神々だ。

 神殺しと神との戦いに口を挟まず、ただ見守っているからには何か考えがあるのだろう。今回の会話にも入ってくるつもりはないらしい。


「――――ッ」


 途端、激しい雷がすぐ傍へと落ちる。

 流れ弾と呼ぶにはあまりに理不尽なそれは、小型の飛空艇を粉砕し、穿った地面に広い焦げ跡をくっきりと残していた。

 離れた場所に落ちてこの威力だ。それを間近で受け続けるロウが、どれだけぎりぎりの戦いをしているのかは容易に想像ができる。


(オ、オイラの飛空艇が……)

(ダ、ダーリンを迎えにいくための手段が……)


 表情を変えず、心の中で思いを叫ぶ二人の胸中を知る者はおらず、落ちた雷の余波をちりちりと感じながら、シンカはパセロへと視線を戻した。

 そして小さく息を吐き、困ったように微笑んで見せる。


「そうね……確かにパセロさんの言う通りよ」

「……」


 焼けた地面から顔を戻したパセロと視線が交差した。

 

「どれだけ強がったって駄目ね。すごく不安だし、すごく怖いわ。ロウが勝つところなんてまったく想像できないもの」


 それはパセロだけでなく、誰もが不思議に感じていたことだろう。

 そう思っているのに、どうしてそんな風に微笑むことができるのか。

 シンカにとってロウが大切な存在であるということは、共に過ごしたシエルはもちろん、会ったばかりのパセロとパグロの二人でさえ理解している。

 それなのに、目の前の少女は困ったように苦笑しているだけだ。そして――


「でもね……逆に想像できないことがもう一つあるの。私が不安なのも、怖いのも、ロウが負けてしまう心配をしているわけじゃないわ。ただ、ロウが大きな怪我を負わないかが心配なだけよ」


 不安と恐怖が入り混じる中、シンカはロウが勝つと確かに信じていた。

 不安と恐怖が入り混じる理由は、目的を達成するためなら傷つく事を厭わないロウの考えそのものに対してでしかない。

 とはいえ、ロウが自分の命を軽々しく扱うことはないともわかっている。

 シンカとの約束を守るため、シエルを陽だまりに帰すため、ロウは必ず勝つ。勝つ自信があるからこそのブフェーラとの交渉だったとシンカは知っている。


「シエルも覚悟して置くといいわ。ロウの傍にいるとね、こういった心の疲労はほんとすごいんだから」

「こ、困った家主さんですが、仕方ありませんね。こんなわたくしですら、見限ってはくれない人ですから」


 苦笑するシンカにシエルは嬉しそうに微笑んだ。

 だが、だからこそ、そんなシエルの姿を前にしたパセロは、シンカに堪えようのない苛立ちを感じていた。

 それはそう……こうして再び嬉しそうに笑ったシエルの表情が、再び悲しい顔になることが容易に想像できるから。


 希望とは残酷だ。闇の中に浮かぶ、本当にあるのかわからない小さな光。

 優しい言葉で、甘い言葉で人の心を揺さぶって、最後は慈悲も無く叩き落とす。

 故にシンカの言葉は言の刃であり、偽善でしかない。

 子供でも容易に扱うことのできる凶器ことばに宿るうそ。それは自然に傷の塞がる体と違って、癒やすことが困難な傷を心へと深く刻み込むことができる。

 

「……さっき、神殺しが勝つところを想像できないって言ってたよね? それでさ……ッ、どうしてそんな台詞が吐けるのかって話だよね。口ばっかの偽善者が、わたしは本当に大嫌いなの」

「姉さん、いいすぎだ」

「……っ」


 パグロの言葉に、パセロは気まずそうに視線を逸らした。


 パグロは知っている。

 すぐ人に懐きそうな性格のパセロが、実のところその真逆であるということを。

 見た目なんて気にしない。そう言いつつも、完全な獣化状態での戦いを見た者の目は大きく変わる。そんな人をたくさんその目にしてきたのだ。

 上辺だけは誰とでも明るく接することのできるパセロだが、彼女は他人の言葉をそう簡単には信用しない。

 だから嫌いなのだ。物事をなんでも簡単に捉える、そんな甘い偽善の言葉が。


 それをシンカは知らないのだから、単にパセロの苛立ちをぶつけたところで、彼女がどうして苛立っているのか理解できるはずもないだろう。

 だからパグロはパセロを諫めたが、彼の内心もパセロとは何も変わらなかった。


 だが、そんな言葉を聞いてもなお、吐き出した言葉を訂正するつもりはシンカの中にありはしない。


「確かに言ったわ、ロウの勝つ姿が想像できないって。でも、私はこうも言ったはずよ。もう一つ……想像できないことがあるって」

「……は?」

「それはね、誰かのために戦うロウが負ける姿よ」


 パセロとパグロ、二人の瞳が見開き、ただ唖然とシンカを見つめていた。

 信じられない。馬鹿馬鹿しい。話にならない。ロウの敗北(そんなもの)は容易に想像できる。

 未来を視る力がなくとも、誰にだってわかることだ。誰にでも読める未来だ。

 それをどうしてそうも、真っすぐな瞳で疑うことなく言えるのか。

 

 そんな思考が二人の脳内を巡る中……


「とりあえず気はすんだか? そろそろ決着ってやつだ」


 静かに告げたベンヌの言葉に、皆は一斉に空を見上げた。





 ブフェーラの中にあった僅かな違和感。それは次第に大きく膨らんでいった。

 それが何かと明確に告げることはできないが、どこか不自然だ。

 雷を躱し、氷刀で斬り伏せ、氷塊を足場に跳躍し、魔力剣を受け止めてはいなし、回避し、反撃してくる。そんな一連の行動の中に何もおかしなところはない。

 この状況を誰がどう見ても、押しているのは間違いなくブフェーラだ。


 ただの考えすぎか。

 神殺しという名に、少し過敏になってしまっているだけなのか。

 

(だが、あれは間違いなく何かを狙っている目だ……)


 ロウが何を狙ってるかはわからないが、何を考えているかわかる。


 空に身を投げ出されてから、ロウの双眸はずっとブフェーラを見据えていた。

 戦いで相手を注視するのは当然だ。当然だが、本来戦いおいて重要なのは、相手の動き全体を捉えるということだろう。一挙一動を見逃さず、虚偽フェイクを見抜き、隙を付くという最低限の視野と行動を求められるのが闘いというものだ。

 が、ロウがずっと見据えているのはブフェーラの動きではなく、その瞳だった。


 まるで何かを探るように、頭の中を覗き込むように、逆転の一手を放つその瞬間を虎視眈々と狙っている。

 どれだけ劣勢に陥っても動じずに力を蓄え、来るべき時の為にじっと耐え続け、そうして訪れた刹那の好機を逃すことなく猛然と食らいつく。一瞬に己の全てを賭け、全力で攻撃を仕掛ける。狩りの獣は獲物を見据え、その爪牙を研ぎ澄ます。


 そんな風に言うのは簡単だが、それをできるのが本当に一握りの者だけであることを、そういう類の者こそが真に怖ろしいことをブフェーラは知っている。


 しかしここは地上ではなく天高き大空だ。仮に何かを狙っているのだとしても、自由に動けなければそれほど脅威に成り得るはずがない。

 ロウの力は氷と魔力増幅。氷の力は足場を作るか武器の生成、氷柱を飛ばすくらいしか空中での用途はなく、その魔力を増幅させたところで防ぐことは容易い。

 自分の有利な戦場だからこそ、ここまで慎重に戦いを進めてきたブフェーラだったが、このまま戦っていても埒が明かないだろう。


 だからブフェーラは動いた。

 あくまで冷静に、慎重に、無慈悲な敗北を与えるために。

 相手は彼の神殺し。

 そこに油断は無く、焦らず、確実に神殺しを下し、この手に勝利を。

 

 踏ん張りの効かない氷の足場ではいくら強化系の能力者であったとしても、下へ加速することはできても、瞬時に上へ距離を詰めることはできないはずだ。

 ブフェーラは加速し天高く舞い上がると、ロウを見下ろしながら神々しい魔力の翼を大きく広げた。

 その翼付近に幾つもの雷の球体が発生し、激しい音を立てながらみるみると魔力が高まっていく。


「これで決着だ、神殺し」


 広範囲の雷霆。瞬間移動でもできなければ、空中で避けることは不可能だ。


 ロウは氷塊を生成し、それを足場に高く跳躍した……が、やはり遅い。


 ブフェーラを中心に十にもなる雷の球体が輪を成すと、それぞれに通電するように雷が走り、その輪が一際大きく広がった。

 それと同時に、ロウと視線が交わったブフェーラに悪寒が走る。

 第六感が鳴らす警報。思考するより先に、本能が鳴らした警鐘。


 刹那――爆発的に増幅した魔力を纏ったロウが、あきらかに自身の限界を越えた速さでブフェーラへと距離を詰め、握った武器を鋭く突き出した。

 咄嗟に張った反魔力障壁により溜めた魔力は霧散し、雷の球体が消滅する中、ブフェーラは驚愕に満ちた表情で荒げた声を発する。

 

「あ、有り得ぬ! なんだそれはッ! その力をどうやって手に入れた!?」


 そう、有り得ない。

 ロウの爆発的な魔力の増幅は人の形を成す魔獣、ルナティアの力によるものだ。それは理解できるし、当然警戒もしていた。

 しかし、増幅させた力はロウの持つもう一つの力……氷ではない。 

 

「俺の力は偽りだ。だがこれは、彼女が残してくれた確かな意志おもいだ」

  

 ロウの左目は血玉のように紅く染まり、背中から広がる白銀の魔翼。

 突き出した右手に握っているのは、魔力によって作り出された美しい尖角槍パルチザンだ。

 魔力の粒子が白銀の翼から尖角槍パルチザンの先端へと川のように流れ、ぶつかった反魔力障壁を前に霧散することなく、激しい火花を散らしている。


 

 


 ロウのそんな姿に驚きを隠せなかったブフェーラだが、それ以上に驚いていたのは地上からその光景を見つめるシエルだった。

 何度も見た。ずっとその強さに憧れていた。それは、シエルの誇りだった。


 一度舞えば必ず勝利を届ける四翼の天使。


「……ニケ」

「え?」

「あ、あれはニケの力です。ど、どうして……ロウが……」


 今は亡きシエルの母、ニケ・ヴァジェ。

 彼女の能力は魔力によって作り出す二枚の翼だった。

 一枚の翼は体内から常に魔力を吸収し、もう一枚の翼は自然に漂う中空の魔素を吸収する。そして、その翼によって溜め込まれる魔力は任意に扱うことができた。

 体内から魔力を練る過程を飛ばすことで、瞬時に魔弾や魔砲を放てる他、武器への付与もできる。ロウが今使ってるのは紛れもなくニケの力だ。

 ルナティアの力で体内の魔力を増幅し、自然に漂う魔素を魔力へと変換し、その両方を武器の一点に集めることでブフェーラの反魔力障壁に抗っている。


 正確に言えばロウの持つ尖角槍パルチザンの魔力は、その先端から次々に霧散していた。

 ただ、完全に霧散し消滅しきる前に再び魔力が先端へと集まり、霧散する速度が完全には追いついていないだけだ。

 ブフェーラの強大な魔力基準値と技の干渉力に、集束力と瞬速力を合わせることで対抗し、魔力増幅させたことによる瞬発値でぎりぎり拮抗を保っている。


 しかしそんなことより、今のシエルにとって一番知りたいのは、ロウがどうしてニケの力を扱うことができるのかということだ。

 その疑問を解消したのは、ベンヌだった。


「血の記憶……神殺しの持つ力の一つだな。飲んだ血の持ち主の能力を、一度だけ発動することができるってやつだ」

「血を……飲む? で、でも、ニケさんはもう随分と昔に……」

 

 シンカはシエルを横目に言葉を濁した。

 

「何十年もの間、血の鮮度を保つことは確かにできん。それができるのはサラ様くらいなもんだ。ニケは神殺しの力を当然知っていた。何かあった時のために、サラ様に自分の血を預けていたんだろう。……死んで尚、己が意志を貫く、か」


 その言葉に、誰もが此処には居ないニケの想いを感じていた。

 ニケは最後まで自分の正しさを貫き、残した力は信じたロウを、愛した娘を護るためにこの瞬間も強く光輝いている。

 

「……ニケ」


 シエルは重ねた両手を胸に当て、祈るようにロウを見上げていた。

 願わくば、自分のために戦ってくれているロウに、勝利を与えてくれることを。

 それは決して自分のためではない。

 ずっと憎悪していた咎人の……否、ニケの信じた正義ロウの無事を願っての祈りだった。





 激しくぶつかり合う力は、まさに拮抗と呼べる状態だった。

 ロウのこの力は一度きりしか使えない。再び使うことができない以上、ここで押し負ければそれで終わりだ。ルナティアの力も全力で発動し続ければ続けるだけ、解いたときの反動が大きくなってしまう……ここが正念場。

 決して退くことはできないロウだが、それはブフェーラも同じだった。


 咄嗟に神力を使ったものの、ブフェーラの神力は受ける魔力の量によって体への負担がより大きなものへとなっていく。

 今、彼が受け続けているロウの魔力は、ブフェーラの体を徐々に蝕んでいた。

 しかしここで神力を解けば、反魔力障壁の内側へと入られる。

 ブフェーラも近接戦、剣技が不得意でないとはいえ、ロウの抜刀速度には劣るというのは、庭園での技を見るからに明らかだった。


 体力、魔力、忍耐の勝負。

 ここで競り負けることが、敗北へと直結するといえるだろう。

 だからこそ、二人が考えることは同じだった。


「我を舐めるなよ、神殺しっ!」

「……ッ(ルナティア、すまない)」


『ご褒美は期待してるでありんす。――妖狐の祝福』


 途端、更に神力を注いだブフェーラに対し、ロウの魔力も格段に跳ね上がった。

 それは人の形を成す魔獣だからこそ持つ、ルナティア自身の扱う力だ。

 魔憑は魔獣の力を扱うことができるが、あくまでそれは自身の魔力での範囲内に限る。しかし、ルナティアの使った技は、彼女自身が有する魔力を宿主へ供給するというものだ。宿主の持つ魔力自体を増幅させるのではなく、魔獣の魔力を渡すことで宿主の魔力をより大きく増幅させる。

 その後しばらくの間、ルナティアは魔力の回復に努めるための休息期に入るため、ロウも彼女の力を扱えなくなるが、今は後のことを考えている余裕がない。

 ここで勝利するにはそれしか方法がなかった。

 

 そして、大気が揺らぐほどの膨大な神力と魔力が衝突した刹那――


「――ッ!?」

「く――ッ」


 相殺――反魔力障壁が砕け、魔力で作られた尖角槍パルチザンも霧散した。


 すると瞬時に短杖から雷の魔力剣を生成し、最初からロウの抜刀を警戒し続けていたブフェーラは、自身の持ち得る最速での刺突を放った。

 氷で刀を生成しそれを抜き放つのと、雷で剣身を生成しそのまま突くのとでは、無駄な動きを必要としない後者の方が断然速い。

 対してロウは体を捻るように反時計周りに回転しながら鋭い刺突を避けるものの、完全には避けきれずに掠めた横腹から鮮血が噴き出した。


 確かに鋭い一撃ではあったものの、仕留め損ねたことにブフェーラの警鐘が鳴り響く。振り向き様に刀を振り抜かれれば、次に血の雨を降らすのは自分だ。

 ロウはすでに反魔力障壁の内側にいる……氷刀を神力で掻き消すことはできない。

 故にブフェーラは突き出した手を引き戻し、魔力剣の柄である短杖でロウの一撃を受け止めようと試みる。だが――

 

「ッ、約束だ」


 ロウが再び正面を向いた時、その両手に握られているのは刀ではなかった。

 背中の翼が最後の灯を燃やすように発光し、その武器の先端へと集まっている。


「なッ!?」


 ブフェーラが突きつけられたのは、氷で作られた二丁の長銃だった。

 銃の先端が刃となったそれは、シエルの愛用している武器であり――


「返して貰うぞ、俺の罪を」


 二つの銃口から放たれた、ロウの翼に宿った全魔力を注ぎ込んだ凄まじい密度の魔砲がブフェーラを呑み込み吹き飛ばした。


「……俺たちの勝ちだ」


 そう呟いた途端、白銀の翼は粒子となって宙に溶け、急速に抜ける力と共にロウの体が崩れ落ちた。

 荒い息を吐き、重力に逆らう力を失ったことで一直線に落下しながらも、少女の笑顔という未来に思いを馳せ、ロウは小さく微笑んだ。

 




「っ、ブフェーラ様っ!」


 即座にパセロとパグロが翼を広げ、ブフェーラの身の安全の確保に向かうのをベンヌは止めなかった。それは暗にこの戦いの決着を意味している。

 ファロは悲し気な瞳でブフェーラを見つめ、彼の名を小さく呟いていた。


「わ、わたくしもロウを――あうっ!」


 パセロたちに続き翼を広げたシエルの体は、空に飛び立つではなく地面へとへばりついた……が、それも当然だ。彼女の翼はブフェーラとの戦いで酷く傷つき、とても飛べるような状態ではないのだから。そんな中……


「ダーリンをホイホイするのは私です」


 クレアが落ちるロウの着地点を目指して一目散に走り出した。


 そんな彼女の背を見送りながら、シンカはロウが傷ついたことに心を痛めるも、とりあえず無事に決着がついたことに安堵した。 

 落ちるロウの姿についテッセラと戦った時の自分の姿を重ねてしまうも、クレアがいれば大丈夫だろう。ジェーノ曰く、彼女の力はロウのためなら万能らしい。

 あのときのリンのように、無事受け止めてくれるはずだ。


 こうしてすべては上手く、丸く収まる……そのはずだった。


 それなのに、どうして世界はこうも優しくないのか。どうして今なのか。

 まるで全てを視ていたかのように、この瞬間を今か今かと待ち望んでいたように、魔の巣窟へと続く門はそこにあった。


 遥か上空、魔門ゲートから次々に現れるのは飛行型の降魔の群れだ。

 そこには当然のようにデューク級が多数含まれている。姿が変化するのはマークイス級以上しかいないのだから、飛行型の時点でそれも当然だ。

 その群れはまるで目的があるかのように、一直線にロウとブフェーラの方へ向かって飛翔していた。

 

 



「魔力はほとんど残っていない。ブフェーラの方はパグロとパセロがいるから大丈夫だろうが……問題は俺だな」


 マークイス級から突き出された鋭爪を背後に回り込むよう絡めとり、ロウは手に生成した短刀を振り下ろした。次にマークイス級を足場に跳躍しながら氷槍を生成し、デューク級へ投擲するも躱され、放たれた魔弾を氷盾で防ぐ。


 ブフェーラとの戦いで魔力のほとんどを消費したが、幸い氷の武器生成に使う魔力は魔力をそのまま飛ばす魔弾や魔砲に比べて少量で済む。

 とはいえ、込める魔力量によってその耐久値は大きく変動するのだが。


「ッ、せめて地上なら」


 地上を見下ろすが、このまま落ちればまだまだ無事ではすまない高さだ。

 空中で降魔からの攻撃を凌ぎながら徐々に高度を下げていくしかないが、このまま戦い続ければ足場を生成する魔力すら枯渇するのは目に見えていた。

 ジリ貧もいいところだ。


(魔力が尽きれば、熟して落ちた果実のようにぺしゃんこか……笑えないな)


 しかし、どうにかしようにも現状を打破できる策はない。

 唯一空を自由に飛べるパセロとパグロは、ブフェーラの護衛で手がいっぱいだろう。なにせブフェーラとて、これだけの数の降魔を相手に一人で戦いきるだけの力は残っていないはずだ。となれば、自分の身は自分でなんとかするしかない。


 そんなことを考えていると、一際素早いマークイス級がロウへと迫る。

 ロウが迎撃しようと手に短剣を生成した瞬間、下から飛んできた魔弾がマークイス級に激突し爆ぜた。

 それは地上からの増援であり、下を見ればロウの真下で誰かが手を振っている。

 その姿がはっきりと見えなくとも、それがクレアであることはすぐにわかった。

 これだけの高度があるにも関わらず、マークイス級を一撃で屠る威力を維持した魔弾を届かせ、見事に命中させるなど並大抵の魔憑ができることではない。

 飛距離が伸びれば威力は落ちるし、命中の精度も当然のように下がるのだから。


「クレアか、ありがたい」


 といっても、状況が目に見えて好転したかと問われれば否だ。むしろ――


「主ノ邪魔ト成ル者。此処デ朽チロ」

「……動き出したということか」


 マークイス級を一体の核を破壊し、消滅し始めたそれを踏み台に距離を取りながらロウは奥の歯を強く噛み締めた。

 目の前に現れたのはデューク級だが、その降魔には今までの個体とは明らかに違うところがある。

 デューク級の両手に握られているのは、魔力で生成された二本の槍だ。

  

蝕魔エクリプス……」


 悲痛な表情でそう呟き、ロウはデューク級へと向けて跳躍した。





 地上からクレアが正確無比な魔弾でロウを援護してるが、降魔の数が減る気配はない。また別の地点、遠くの方ではパセロとパグロが降魔と交戦していた。


 それを見て、シンカは思う。

 今までに何度も自分の無力さは噛み締めてきた。

 何度も心を抉られるような思いをしながら、自分のできることをただ懸命にこなしてきた。自分の力の及ぶ範囲で、立場の中で、できることを必死に探し、そうやってこれまで戦い続けていきた。


 しかし、今回ばかりはどれだけ頭を全力で回転させようと、自分のできることの答えを導き出すことはできなかった。

 クレアのように長距離で魔弾を命中させる技術はないし、むしろ届かせることすらできないだろう。仮に届いたところで、精度の低い援護はロウの邪魔になる可能性の方が高く、下手すれば味方誤射も有り得るのだ。

 自分の背中に翼があれば……そんな無い物ねだりをしたところで意味はない。


 ロウとブフェーラの戦いは、心配でありながらも冷静に見守ることができた。

 ロウが、自分の信じる男が挑んだ決闘だ。

 仮にこの背に翼があり、この手に力があったとても、横やりを入れるつもりなどなかった。ロウを信じると言った自分が、そのような無粋な真似はできない。


 しかし、今回は状況が違う。

 ブフェーラとの戦いで傷つき、魔力もそのほとんどを使ってしまったはずだ。その上、足場の悪い空中ともなれば、苦戦で済む問題ではないだろう。

 ただでさえずっと、ブフェーラとの戦いで精神をすり減らしていたのだから、今も尚空中で戦うということは、それだけで身心にかかる負担は計り知れない。

 しかも相手は見た事もない種類タイプの降魔だ。

 今までも散々降魔を見てきたが、武器を扱う降魔など一度も見たことがなかった。


 闘技祭典ユースティアの日に見た獣型の降魔。そして、今回現れた武器を扱う降魔。

 ロウが記憶を取り戻すのと合わせるように、それまであった常識が徐々に常識でなくなってきているような気がする。

 これから先、何が起ころうとしているのかは知る由もないが、とにかく今はこの状況をなんとかしなければならない。絶対にロウを失うわけにはいかないのだ。


 シンカは悲痛な面持ちで振り返り、事情を知っているはずの神々を見据えた。


「これも……わかっていたことなんですか? 貴方たちの望む運命に、私たちは真っすぐ進んでいるんですか?」

「……」

「どうしてロウが狙われているの? あの降魔はなんなの? 答えてください」


 ファロは綺麗な姿勢で椅子に座り、膝に両手を置いたまま微動だにすることなく瞑目している。ミコトはそっと目を伏せ、ゆっくりと首を左右に振った。


 すると、シンカの疑問に答えたのはジェーノだった。


「姉ちゃん……一つ、勘違いを訂正しとくぞ。オイラたちはすべての未来を知ってるわけじゃない。アニキがブフェーラと戦うことで起こり得た結果だって、どうなるのかわからなかった。まっ、アニキが勝つだろうと予想できた程度のもんだ。オイラたちはアニキのことを知っている。そして、世界のことも知っている。だから、ただ抗ってるだけにすぎない」

「っ、意味がわからないわ! だったらどうしてそんなに冷静でいられるの!? これでもしロウになにかあったら……ッ」


 最悪の光景を想像してしまい、シンカは言葉を呑み込んだ。

 それ以上口にしたら、本当にそうなってしまいそうな気がしたのだ。

 ぎゅっと拳を握り締め、世界の真実もロウの抱えた真実も、何も知らない蚊帳の外にいる自分を酷く恨んだ。

 だが、わかっている……これから先、こういうことはまだまだ続くだろう。


 それは虹の塔(イリスコート)でサラにも言われたことだ。

 

”これから起こる出来事に、あんたらは頭を悩ますことになるやろう。ロウはんの言動も、理解の範疇を越えるもんかもしれん。それで傍におるかどうかは好きにしぃ。何も教えてもらえんまんまが不安で、ロウはんを信じれんくなったら、別に離れたらえぇ。そやけど、答えを求めることだけは許さへん” 


 確かに辛い。何も知らず、何も力になれず、それでもロウの傍にいることは。

 しかし決して一人ではない。

 ブリジットはロウの過去を暴くとロウへ告げた。自分やカグラのことについても、ずっと調べてくれている。フォルティスとロザリーだってカグラの力の解明に協力しているし、ロウのために何かを成そうとしている者は決して少なくない。

 それについ八つ当たりをしてしまったが、ジェーノだってそうだ。サラやジェーノ、世界の真実を知る人たちだって、自分を導こうとしてくれている。


 わかっている……頭ではわかっているのだ。

 それでも、ただロウを信じていることだけが正しいのだろうか。

 それで本当にいいのだろうか。


 ……力があれば……強さがあれば。

 この瞬間、ロウの元へ羽ばたける翼がこの背にあれば。


 そういった悔しさや惨めさ、ありとあらゆる負の感情に苛まれていると、ベンヌは頭をぽりぽりと掻きながら声を漏らした。


「シンカ……お前さんの気持ちはわからんでもない。信じて待つ辛さってのは、俺らもよく知ってる……狂おしいほどにな」

「……」

「信じるなんて言葉を言うのは実に簡単だが、いざそうなるとなかなかどうして苦しいもんだ。別に難しいわけじゃない。ただ……辛く苦しい」

「……えぇ、そう……ですね」


 声が掠れ、まともに視線を合わせることができない。

 ベンヌの言った通り、ロウを信じるということは、シンカにとって決して難しいことではないのだ。……ただ辛い……ただ苦しい。


「ただな、今この場において誰よりも苦しいのは……」

「……」


 ベンヌの視線の先、つられてシンカが視線を送ると、少し前で必死に翼を羽ばたかせているシエルの姿があった。

 シンカは胸の奥から込み上げる、得も言われぬ想いに表情を歪めた。

 僅かに瞳を揺らし、思わず手で口許を覆う。

 

 ……自分に翼があったなら……戦う力があったなら。

 そんなことを、よくもシエルの前で思えたものだとシンカは自分を責めた。


 翼があっても羽ばたけず、戦う力があってもそれを振るえない。

 誰よりも惨めに感じているはずの、そんな彼女の前で。


「シエルっ」


 咄嗟に、シンカはシエルへと駆け寄った。

 小さくなった肩に手を添えると、その肩は震えている。


「わたくしは……お買い物一つできません。掃除も、皿洗いも……何も……」

「シエル……」

「こうして今、やっと役に立てるはずの場面ですら……わたくしは役立たずです。ごめんなさい、シンカ……ごめん、なさい」

「……」

 

 シンカは何も答えることができなかった。

 シエルが役立たずだとは思っていない。

 それでも、わかってしまう……今のシエルの気持ちが痛いほどに。

 ここで役立たずなどではないと言ったところで、なんの慰めにもならないのだ。

 彼女自身がそれを強く自覚し、何もできない自分を強く責めているのだから。

 慰めの言葉は時に、無慈悲な暴力となって相手を傷つける。


 すると、シエルは虚ろな瞳で顔を上げ、シンカを見つめた。


「シンカ……また、わたくしの前からいなくなるんですか?」

「……え」

「わたくしを守ってくれたニケのように……ロウも、わたくしを置いていなくなるんですか?」

「――っ」

「わたくしを守ろうとした人は……みんな……」


 誰よりも愛していた。

 誰よりも大切だった。

 誰よりも誇らしく、誰よりも憧れだった。

 そんなニケが最後に残したのは、大きな心的外傷トラウマだった。


 シエルはニケの最後をきちんと思い出していた。

 ニケが自分の意志を最後まで貫き、誇らしく逝ったとわかっている。

 それでも、愛する者の死はそう簡単に乗り越えられるものではない。

 そして今、自分を守ろうと戦ってくれたロウが危険に晒されている。

 自分を護り死んだニケと今のロウの姿が、シエルには重なって見えていた。


 そんな中、シンカの代わりにそれに答えたのは、今までずっと沈黙を保っていた彼女の口許から発せられた、芯の通った頭に響くような声だった。


「立ちなさい、シエル」


 振り返ると、姿勢は同じままファロの瞼が開かれていた。

 藍玉の双眸が真っすぐにシエルを見つめている。


「私がニケと話をするとき、決まって話題は同じでした。……貴女のことです」

「わたくし、の?」

「そうだな。俺がニケと話すときも、いつもお前さんの話だった」


 ベンヌが顎をなでながら答えると、それに続くのはジェーノだ。


「ははっ、親バカだったからな。家事全般は全滅で、すぐ調子に乗るわ、すぐ泣くわ、気分屋で間抜けで鈍臭くて、それでいてすこぶる物覚えが悪い。まぁ要するにアホの子だ」

「……うっ……うぅ~……」

 

 すでに擦り切れた心へ追い打ちを掛けるような散々の言われように、シエルの瞳に涙が溜まる。


「それは少しばかり言い過ぎではないかのぉ。余と話したときは、そこまで言ってなかったぞ? 困った子だとは言っておったが」

「……っ、うっ……」


 ミコトにまで言われ、シエルは口をヘの字に曲げて必死に湧き上がるものを堪えながらも、堪えきれない涙がぽろぽろと零れ落ちた。


 自分で駄目な子だというのは自覚していた。

 どれだけ何を何度繰り返しても、上手くいくことなんてなかった。

 だから今もでさえも、ここで何もできずにこうしているのだ。

 翼を持ちながら、戦う術を持ちながら、こうして涙を堪えることしかできない。


 しかし、翼の折れた少女は知らない。

 彼女自身気付いていない誇れる何かは、確かにあったのだということを。


「まぁただ、お前さんの話をするときはいつも嬉しそうに笑ってたな」

「散々自分で落とした挙句、最後はいつも自慢話で耳タコだ。それでも何かに一生懸命になれる真っすぐな子だ、ってな」

「そうだの。裏表のない素直な娘だと、そう言っておったの」


 どうして笑う。どうして笑える。

 どうして今、この瞬間にそうして懐かしむように笑うことができるのだ。


 故人の話を肴に、こうして笑い合う時間は確かに大切だし良いことなのかもしれない。死んだニケも浮かばれるというものだろう。


 だが、どうして今なのか。どうしてロウが危機に瀕している今なのだ。


 そんな疑問が満ちる中、次に聞こえたファロの声が強く脳を揺さぶった。


「立ちなさい、シエル・ヴァンジェ」

「……ファロ様」

「貴女は天国の誇りであるニケの娘なのですよ」

「――ッ」


 そう、ニケは凄い人だった。罪を犯すその日まで、誰もが彼女を称えていた。

 ニケが前線を退いてから、シエルもまるでニケのように褒め称えられていたが、実際のところニケの足元にも及ばないというのは自覚していたことだ。


 皆、失ったニケの存在を心のどこかで求めていたのだろう。だからシエルを代わりに、彼女にニケの姿を重ね、自身の安心を得ようとしていただけに過ぎない。

 シエルは凄い。いずれニケを超える存在だ。そう思い込むことで、そう言葉にすることで、この国はまだまだ大丈夫だと……そう思っていたかったのだ。


 それをシエル自身が一番痛感していた。

 いざ戦場に立つと、やはり自分とニケの姿を重ねてしまっていたのだ。

 どれだけ頑張っても、どれだけ鍛錬しても、決してニケには届かない。


 誰よりも愛した、誰よりも大切で、誰よりも憧れて誇りに思っていたニケは、シエルに心的外傷トラウマを残し、決して超えることのできない人となった。


 勝利と栄光の天使の娘。

 その言葉は今のシエルにとって、ただの重圧でしかない。

 ニケの娘だと言われても、自分がニケと同じようにできるはずがないのだから。


 しかし、ファロの言いたいことは、決してそんなことではなかった。


「ニケは言っていました。貴女は一度も何かを諦めたことはないと。何度失敗しても、何度叱られても、決して諦めることなく真っすぐに進める子だ。何かに一生懸命になれて、まっすぐに想いをぶつけれる素直な子だと。そう、言っていました」

「……」

 

 だからなんだというのだ。そう言われても、この現状で何ができる。

 諦めずに一生懸命になるだけでロウを助けることができるなら、いくらだってそうしてみせる。 

 しかしそれができないのは、この場の誰もが理解していることではないか。

 なのにどうして――

 

「馬鹿がつくほど純粋で、ひた向きで、一途な子。決めたことを最後まで貫く意志を持ち、本当にそれを成せる子。いずれ自分を超え、その手で救いたいものを救える強さを持った子。それが……ニケの中に在る貴女の姿でした」

「……」


 自分にそんな強さはない。買いかぶりだ。まさに親馬鹿でしかない。

 確かに、昔のシエルなら素直に喜んだだろう。

 しかし今の自分にとってのそれは、ただ心を鋭く抉るだけの言葉だ。


 素直になんてなれない。

 一生懸命になんてなれない。

 貫く何かもありはしない。

 救える強さなんてもっていない。


 シエルは縋るような視線をシンカへと送った。

 だが、シンカは静かに成り行きを見守るだけで、答えを教えてはくれない。


 そんな中、ファロは静かに問いかける。


「どうして私が今もこうして冷静でいられるのか……まだわかりませんか?」

「……」


 その答えはあまりにも単純なもので――


「貴女が救うのです」

「……え?」

 

 その答えはあまりにも理解し難いもので――


「――貴女が神殺しを救うのです」


 その答えは翼の折れた少女の胸を強く締め付けた。


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