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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第五節『これは箱船が残した忘れ形見』
181/323

178.勝利と栄光の天使


 広い部屋の床は綺麗な大理石が敷き詰められ、端に置かれているのは精工な装飾の置物オブジェ。天井を見上げれば、そこにあるのは美しい装飾硝子ステンドグラスの輝き。側面の壁はすべて透き通る硝子で覆われており、一番奥の少し高い段差の上には豪奢な椅子が置かれいてる。

 そう、ここは天神ブフェーラ・ゼウスの謁見の間。

 天井からは眩い光が降り注ぎ、硝子越しに地上を見ればその広大な景色は紛れもなく絶景で、感動のあまり思わず息を飲むに違いない。


 しかしながらそんなこの空間は今、その美しさからは遠くかけ離れていた。


 大理石の床に飛び散るおびただしい血痕と黒い羽。硝子張りの側面にも血がこびりつき、その幾つかは無残に割れて外の空気が風に乗って流れ込んでくる。

 精工な置物オブジェは破壊され、天井からは穿たれた装飾硝子ステンドグラスの隙間から、眩い太陽の光が燦々と差し込んでいた。

 そしてその奥、唯一その美しさを保っていたのはブフェーラの座していた豪奢な椅子のみだ。


 ブフェーラは片手でシエルの首元を掴むと、その体を軽々と持ち上げた。

 シエルの髪は乱れ、服は破れて鮮血に染まり、黒い翼の片翼には大きく穴が空いている。片目は額から流れる血で塞がり、口から漏れるのは苦しそうな呻き声。

 

「愚かな女だ。咎を背負いし女の娘もまた、後悔の中で死に逝く宿命か。……ままならぬな」

「……ぐっ、ッ」


 首を持つブフェーラの手を引き剥がそうと両手で掴むも、ぴくりとも動かない。

 そんなシエルの無駄な抵抗など気にも留めず、ブフェーラは戦闘が始まってから一歩も動いていないミコトへと視線を流した。

 

「助けぬのか?」

「……今の余に戦えるだけの力はないのじゃ。正確に言えば、余はまだ神名を正式に受け継いだわけではないからの」

「薄情な女だ。勝てぬとわかっていながらも貴君を救おうとしたこの娘は、尚のこと哀れだな……見捨てられた気分はどうだ? シエル・ヴァンジェ」

「……わ、わたくし……は……」

「泣いているのか……あぁ、そうだろうとも。我に歯向かわなければ、貴君は再び白き翼をはためかせ、天の戦翼へ戻ることができた。自分の最も嫌う人種を救おうとした結果見捨てられては、悔し涙の一つや二つ零れても仕方あるまい」

 

 あぁ、本当にその通りだと、シエルは思っていた。

 何を血迷ってしまったのか。気でも触れてしまったのか。自分の意思とは関係なく勝手に動いてしまった体は、いったい何を成そうとしていたのか。

 シンカの言葉が脳裏を過り、誰かを護りたかったなどと一瞬思ったが、自分にそんな資格などあるはずがないというのに。

 誰かを護りたいなどと、あまりに分不相応な願いだというのに。


 誰も護れない、何も守れない、自分はそんなにも綺麗な人ではない。

 大切な人を救えなかった、罪の証たる黒翼を持つ自分にいったい何ができる。

 ましてやミコトは自分の最も嫌悪する人種だった。

 神殺しを庇う者。そんな相手のために命を懸けるなど、本当に馬鹿げている。


 大人しくしているべきだった。何もせずに、見送るべきだった。

 神に勝てるはずがないことなど、考えるまでもなく最初からわかっていたことだ。何が起きても敗北は揺るがず、奇跡など起こりようもない。


 思い返せば昔からそうだった。

 自分の意思とは関係なく、体が勝手に動いてしまう。

 いったい誰に似たというのか……言うまでもない、ニケだ。

 

 ニケは強い女だった。力そのものもそうだが、何よりもその意志は真っすぐで、自分の正しさを信じて決して疑うようなことをしない。

 人は迷う生き物だ。一度自らが信じた正しさでさえも、本当にそれが正しいのか迷ってしまう生き物であり、それが普通なのだ。……しかし、彼女は違った。

 彼女のように自身の正しさを貫き通せる者など、この広き世界にいったいどれだけいるというのか。


 ニケが舞う戦場に死者はなく、彼女はいつしか勝利の女神とさえ呼ばれるほどに誰からも愛されていた。力無き民、力が無くとも武器を取った兵士、共に戦う魔憑や亜人、その誰からも尊敬の眼差しを向けられ、ニケは輝いていた。

 神々がいるこの世界で、神でもない者が”女神”と呼ばれた者は、おそらく世の中広しといえども彼女くらいなものだろう。


 そんなニケとその娘であるシエルは本当の親子ではなく、シエルは養子だった。

 戦場に立つニケの美しさに、強さに、気高さに、纏う輝かしい栄光に、シエルはいつも自分と比べてしまっていた。

 しかし向けられる重圧よりも、自分の不甲斐なさよりも、自分の惨めさよりも、シエルはそんなニケを誰よりも誇りに思っていた。

 優しく、温かく、穏やかで、時には厳しく叱ってくれる。本当の母親と何一つ変わらない。むしろ誰よりも幸せだという自負すらあった。

 

 そんなニケが昔、反逆の箱舟(リベリオンアーク)という名で活動していると知ったのは後のことだ。

 天の戦翼とは別の顔。たくさんの亜人種で組織されたその場所は、ニケにとってとても心地の良かったものだと、幼かったシエルはよく聞かされていた。

 良かった、という過去形だったのは、その組織がすでに解散していたからだ。


 シエルは反逆の箱舟(リベリオンアーク)にいた頃のニケの顔を知らないが、それでも当時のことを語って聞かせるニケの表情を見ていれば、彼女がいかにその場所を大切にしていたかが嫌でも伝わってくるほどだった。

 解散の理由は教えてくれなかったが、その話をする時のニケがどこか辛そうに微笑んでいたのは印象に残っている。


 その話の中にはいつもたくさんの名前が出てきたが、一番数多く聞いた名を持つ人には一度も会ったことがなかった。

 本当の名前は知らない。ただ、ニケは彼のことを”運命ミラ”と呼んでいた。

 自国では”名無し”と名乗る彼の素性をニケは知っているものの、それは仲間だけの秘密であり、いくら娘といえども教えて貰らえなかったというわけだ。


 シエルが見せて貰った写真には、本当にたくさんの亜人たちがいた。

 人狼リュカリオン吸血鬼ヴェリラス人魚セイレーン妖精エルフ火精ヴルカン悪魔デモニア、そして天使アンジェであるニケ。

 中央に立つ男は道化ピエロのような半仮面をつけ、亜人ではなさそうだったが、彼がその箱舟のマスターだったのだという。

 そんな名無しと名乗る男を名無しと呼ぶのは味気ないものの、本名を呼べないならと、男をミラと呼ぶようになった言い出しっぺが誰だったのかはニケも覚えていないようだったが、運命ミラという響きはニケも気に入っていたらしい。


 反逆の箱舟(リベリオンアーク)が解散した後、幼いシエルとニケの写真をその男に送っていたこともあり、ニケが信頼を寄せる相手であるのは間違いないが、それでもシエルからすればその男のことが気になって仕方がなかった。


 そんな中、ニケが任務で家を空けている際、シエルが部屋の掃除をしているときにたまたま見つけた写真。正確に言えば、掃除していたはずなのに何故か余計に散らかってしまった部屋の中で見つけたのだが。

 そこには今よりずっと幼いニケと映る男がいた。同じ服、同じ刀、同じ髪色。その男がミラと呼ばれていた男であると、シエルはすぐに気がついた。


 ともあれ、ニケが昔話をするときは、いつもその箱舟での出来事だった。

 天の戦翼で幾らでも輝かしい戦果を挙げているにも関わらずだ。

 しかしシエルもそれを話すニケの笑顔が好きだったし、その話の内容も面白可笑しく、時に震えるような興奮を覚える戦いは聞いていて本当に楽しかった。


 だがそんなシエルの幸せな日々は、とても短く幕を下ろすこととなる。

 星歴六七七年、降魔の狂宴(フォールマキア)――年長者にはまだ記憶に新しい外界での悲劇。

 全国に同時に開いた数多の魔門ゲートは、それぞれに多大な被害をもたらした。

 海国、陽国、天国、星国の先代の神々が亡くなったのもこのときだ。


 無事その戦いを切り抜けたニケだが、彼女が戦場に立って戦死者を出したのはこのときが初めてのことだった。勝利と呼ぶには大きすぎる犠牲の上での勝利。

 とはいえ、ニケがいなければ被害は止まることを知らなかっただろう。

 勝利と栄光の元、皆は盛大にニケを称えた。

 

 それからニケは今まで楽しく話していた箱舟での出来事を、一切話さなくなった。シエルが話をせがんでも、ニケはごめんねと一言、悲しい顔で答えるだけだ。


 そして時は流れ、三年後の星歴六八〇年。

 シエルはそのとき初めて、ニケが浮かべる悲しい表情の理由を知った。

 原因は、星歴六七七年の悲劇が起きてから、加速的に広まった神殺しの話だ。

 その内容は先々代を殺めただけでなく、それを許した先代までもを神殺しは裏切った、というものだった。


 当然、シエルもその話は知ってた。

 先々代を手にかけた力があるにも関わらず、それを許した先代のために力を貸すこともせず、あろうことか多くの魔憑をその穢手で殺めたのだという。

 裏切りの神殺しソティス。

 少しは成りを潜めていたその名は、再び世界に知れ渡った。


 皆が責めるのも当然だ。それだけのことを、ソティスという男は仕出かした。

 大戦の最中、味方であるはずの魔憑をその手にかけるなど、どう考えても降魔の味方をしているとしか思えない……狂っている。

 その上、それだけのことを仕出かしたソティスは、それ以降ぱったりと姿をくらましたのだ。恨まれるもの、蔑まれるもの仕方がないといえるだろう。


 彼を庇う者などいるはずもなく、姿を現さない彼への皆の憤りは募るばかりであり、シエル自身もそうだった。

 弱きを助け、戦場を舞い、必死に戦うニケの娘であるからこそ、そんな卑怯で下劣な男を……裏切りの神殺しを酷く嫌悪していたのだ。


 だからこそ、シエルにはまったく理解することができなかった。

 ――愛するニケが、その男を庇った理由が。


 ニケが過去を語らなくなったのは、悲しい顔を浮かべるようになったのは、皆の神殺しへ対する憎悪のせいだったのだ。

 だがニケは耐えた。

 辛い想いを抱え、毎晩写真を見つめながら、じっと耐え続けた。


 だが、星歴六八〇年――彼女は意志を、心を偽る自分に限界が訪れた。

 それはニケが強かったから……否、強すぎたのだ。

 自分の正しさを信じて疑わない彼女の強さが、彼女をずっと苦しめていた。


 そしてニケはシエルのことをベンヌに託し、公に神殺しを擁護し始めたのだ。

 あろうことか神の御前で、そして多くの国民の前で……彼は悪くない、彼こそが正義だ、彼こそが正しく、憎悪されることはおかしい、と。


 無論、そんなことをしたところで結果は見えている。

 勝利と栄光の両翼は黒く染まり、向けられたのは異端者への罵詈雑言。

 当然、罪に問われたニケは神都ウラノスの牢獄へと投獄されることとなった。


 シエルには訳がわからなかった。どうして神殺しを庇ったのか。

 事前にベンヌにシエルを託していた以上、ニケもこうなることは自分でわかっていたはずだ。

 仲間を殺した裏切りの神殺しを庇うなど、どう考えても普通ではない。

 いくらベンヌを問い質しても、彼は決して口を割ることはなかった。


 とはいえ、ベンヌの存在が後ろにある以上、ニケの娘であるにも関わらずシエルへの扱いは表面上何も変わらなかった。周囲の視線までもが変わらない、ということはなかったのだが、少なくとも嫌がらせの類は一切受けることがなかった。

 皆、思うところはあれど、決してそれを口にはしない。


 幸いといってはなんだが、ニケの元で戦いを学び、ベンヌの元でさらに学んだシエルの素質は高く、幼いながらも彼女はあっという間にその頭角を現した。

 天の戦翼で戦うシエルに過去のニケを重ねる者は多く、蔑むような周囲の視線はいつしか変わり、勝利と栄光の翼はシエルへと引き継がれた。

 天国では最年少で神魔総位ネメシスランキングに名を連ね、いずれニケすらも超えるかもしれないという噂も囁かれ始める。


 人間とはなんという単純な生き物なのだろうか。

 強さを示し、自分たちを護る存在であると認識すれば、意図も簡単に掌を返す。

 そんな人間にシエルは嫌悪感を覚えたが、彼女が天の戦翼として戦場を駆け続けたのは、たった一つの目的のために他ならない。

 一心不乱に降魔を倒し、破竹の勢いで戦果を重ね続けたシエルの中にあったのは、ニケに対する想いだけだった。


 会って話がしたい。きちんとニケの口から本当の言葉を聞きたい。

 ニケのことだ……何かそうせざるを得なかった理由が、きっとあるはずなのだから。その理由を聞いて、地位を得た自分がニケの汚名を返上するのだ。

 そして、また優しく微笑んでほしい。温かい手でまた抱きしめて欲しい。また一緒に暮らそう。あの幸せな日々へと一緒に帰ろう。

 そんな確かな想いだけが、シエルの力となって彼女を突き動かしていた。


 しかしどれだけ戦果を挙げようと、どれだけ天の戦翼での地位を上げようと、ブフェーラがシエルをニケに会わせることはなかった。


 そして二〇年後の星歴七〇〇年――我慢の限界に達したシエルは行動に移した。


 それは挫折の壁を知らず、負けることもなく、勝利を積み重ね続け、栄光を手にし続けた少女のたった一度の……そして最悪の敗北と過ちだった。


 自分の強さを過信した。どうして他の方法を選べなかったのか。

 そんな事を悔いても、死ぬほど後悔したところで詮無きことだ。


 事実としてあるのはただ一つ――ニケが死んだ……ただ、それだけだった。


 ニケへの想いを我慢しきれなくなったシエルは、あろうことかニケが囚われ続けている牢獄へと単身で乗り込んでしまったのだ。

 別に脱獄させようと思っていたわけじゃない。脱獄したところで意味がないのはわかっているし、それ以前にニケが受け入れるはずがないのだから。

 シエルはただニケと話がしたかった……本当に、たったそれだけだったのだ。


 幼い少女がいきなり母親と離されて二十年、よく我慢した方だといえるだろう。

 シエルはただニケの顔が見たかった。ただ声が聞きたかった、触れたかった。それだけの想いで、シエルはニケに会いに行った……会いに行ってしまった。


 しかしそこは牢獄。咎人を収容する為の場所。

 だからシエルは途中で気付くべきだった。あまりにも警備の薄いその場所に違和感を感じた時点で、すぐさま引き返すべきだったのだ。

 魔憑や亜人が貴重な戦力である以上、ただの見張りに人を裂ける余裕はなく、かといって警備を置かないわけにもいかないだろう。

 故に警備が薄い理由は単純だ。そこには、人の警備など必要としないものが存在しているのだから。それは、無数の命無き守護者。

 虹の塔(イリスコート)にいるサラの足元に及ばないが、この空間のみ力を発揮する鎧人形。


 一般兵の目を掻い潜り、少し開けた空間に出たとき、シエルはそれと遭遇した。

 その空間から続く道は分かれており、いったいどこに進めばいいのかもわからないが、その先にニケはいる……もうすぐだ、もうすぐニケに会える。


 勝利しか知らず、敗北を知らなかったシエルは自分の力を過信した。

 罪人を収容するその施設を護る者が、決して弱いはずなどありはしない。

 世界は広く時代は永い。上には上がおり、その者たちを封じるだけの力が必用なのだ。故に、この結果は必然だったといえるだろう。


 初めて受ける大きな傷。初めて味わう敗北。初めて感じる命の危機。

 それでもシエルは退かなかった。ここでまで来て、ニケに会わずに帰るなどできるはずがない。会いたいという純粋な想いだけが、シエルの力となっていた。


 そしていよいよ死が目前に迫ったとき、シエルは目の前の光景を疑った。

 黒い翼をはためかせ、シエルを護るために現れたその背中を見間違えるはずがない。それは夢にまで見るほど、ずっと会いたかったその人だったのだから。



 不意にシエルの魔力を感じたニケは、心が抉られる想いだった。

 ……どうして来てしまったのだ、と。 

 しかし今のシエルの力では、決して自分の元まで辿りつけないと知っていた。

 懐かしい魔力を感じ、よくぞここまで成長したと心を震わせ、会いたいという思いが溢れるも、それが叶わぬことであるとニケは知っていた。

 今のシエルの実力では、決して鎧人形には勝てないのだと。

 だからニケは、必ずシエルは引き返すと、そう思っていたのだ。

 

 だが――シエルの魔力は退くどころかそこに留まり続け、どんどん弱々しくなっていくばかり。

 自分の考えの甘さにニケは自らを責めた。シエルの想いの強さをを侮っていた。


 その瞬間、ニケは頭が割れるほどの痛みを堪え、その場に嘔吐しながらも無理矢理力を振り絞り、檻を脱出――シエルの元へと駆けた。

 そして目の前で戦う愛娘の姿に心を痛めながらも、シエルを護るために戦った。


 しかし、衰鉱石で囲われた檻にいたニケの調子は万全でなく、檻を脱出する際の痛みが尾を引き脳を揺らす中での戦いは、ニケにとって苦しいものだった。

 普通なら耐えられるはずがない。

 普通ならとても檻から抜け出せるものではない。

 身体中を魔力の荒波が蹂躙し、嵐のように吹き荒び、内からの攻撃に晒されながらも娘の元へと駆けつけた彼女は、すでに満身創痍だったのだ。


 故にこれはかつて勝利と栄光の翼で戦場を舞い、女神とまで賞された彼女の起こした、最後の灯火を燃やす母親の起こした、紛れもない奇跡だといえるだろう。

 

 たった一人ですべての鎧人形を倒し、自分の命と引き換えに愛する娘を護ることができたという――今の彼女にとっての紛れもない勝利というこの結果は。

 

 シエルは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、倒れるニケへと駆け寄り、ずっと会いたかった彼女を抱き起した。


 ニケの顔が見たかった。

 しかし、こんな表情を見たかったのではない。


 ニケの温もりに触れたかった。

 しかし、熱を失っていくニケの体は冷たく、生暖かい血がシエルを濡らす。


 ニケの声が聞きたかった。

 しかし、このような掠れた声を聞きたかったわけじゃない。


 それが……ニケの最後だった。

 ニケは死んだ……自分のせいで、ニケは死んでしまったのだ。


 その後シエルは堕天し、ニケと同様そのまま牢獄へと囚われた。

 とくに抵抗もしなかった。言い訳もなにもない。

 暗い牢獄、冷たい壁。止まらない涙。

 そしてシエルは星歴七七四年まで、ずっとそこでの日々を過ごした。


 最初は悲しかったが、人は本当に薄情な生き物だとシエルは感じていた。

 いつしか涙は枯れ果てて、ニケのために涙を流すことさえできない。

 最後の言葉も、最後の顔も、今では色褪せてしまった遠い記憶の中だ。

 シエルの中に残ったのはニケへの感謝の想いと、ニケに報えなかった自責の念、そしてニケが囚われた原因となった神殺しへの憎悪だけだ。


 そんな中、ミコトを連れてくる条件の元、シエルは再び外の世界に立った。

 どうして自分にその任務が与えられたかはわからないが、そんなことはどうでもよかった。ブフェーラの言った”任務を達成すれば咎を払う”というその言葉が真実であればそれだけでいい。


 人知れず死んだニケのお墓を作る……それだけが、シエルの生きる意味だった。

 それだというのに、いったいどこで何を間違ってしまったのか。

 もうその願いが叶うことはない。


 神殺しを庇うことが罪だと知っていた。その罪を誰よりもよく知っていたはずだった。少し仲良くなったからと、少しあの日常が楽しかったからと、情にほだされた結果がこの様だ。

 長い間冷たい壁に囲まれ、人の温もりを忘れていたシエルにとって、あの屋敷は優しすぎた。温かくて、優しくて、居心地がよくて――とても残酷だった。

 

 そしてシエルは思った。

 ブフェーラに言われ、その通りだと。

 庇うべきではなかった。大人しくしていればよかった。

 そうすれば、ずっと抱き続けていた願いは叶ったのだから。

 

(ニケ……貴女もきっと……こうした後悔の中で死んだのですね……)


 ふいに、シエルの中に蘇ったのはニケとの最後の記憶。

 泣いていた……あの気丈なニケが、初めて自分の前で涙を流していた。


 今となっては最後の言葉も、最後の表情すら覚えていない。

 当時のシエルはそれどころではなかったのだから。初めて経験する大切な人の死を前に、ただただ、泣きじゃぐるしかできなかったのだから。


 それでも今だからこそわかる……きっと、後悔していたことだろう。

 どんな理由あったのかは結局聞けないままだったが、流した涙は後悔の涙に相違なく、自分の行いを悔いていたに違いない。

 神殺しなんかを庇うからニケは咎を背負った。

 勝利と栄光の翼は黒く染まってしまった。

 不名誉のまま、彼女は逝ってしまった。

 罪人なんかを庇うべきではなかったのだ。 

 

「……咎を背負いし娘よ。悔いろ……悔いて悔いて悔いて、そして……安らかに逝くがいい」


 悔しい。悔しくて悔しくてたまらない。

 どうせこのまま死に逝くのなら、過去を遡って少し前の愚かしい自分を自らの手で殺したいほどに。

 潤んだ瞳は小さく揺れ、シエルは下唇を強く噛み締めた。

 しかし今更後悔しようと後の祭りだ。自分にはどうすることもできない。

 そう覚悟を決め、諦めと共に遠くを見つめた……そのとき――


”……シエル”


 自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 そして、硝子ガラスに映る自分の姿が瞳に中に映り込むと、その姿はシエルの記憶を強く刺激し揺さぶった。


”……シエル”

 

 再び聞こえた声に、シエルは懐かしい感覚と共に思い出した。

 あぁ、そうだ……これはニケの声。優しく温かい、ニケの声だ。

 ずっと聞こえなかった声。思い出したくとも、思い出せなかった声。

 

”……シエル”


 故に、その声に導かれるようにシエルは思い出した。

 今の自分の感情と、明らかに矛盾した光景(・・・・・・・・・・)を。

 硝子ガラスに映る自分の姿。後悔に震え、涙し、きつく口を結んだ自分の姿。

 ニケもそうだ……自らの愚行に後悔し、それに涙し、口惜しく逝ったはずだ。

 ならば何故だ。

 どうして、どうしてこうも――今の自分とニケの最後の姿が違うのだ。

 

「あっ、ぐっ……」


 腕を捻られ、ブフェーラに背を向けた状態でシエルは地面へ座らされた。

 背後から聞こえる金属の擦れる音。

 鞘から剣を抜き放つ、死を告げる冷たい響き。


”愛しいシエル。たった一人の、わたしの……大切な娘”

 

 再度脳裏に響いた声に、シエルの記憶はさらに大きく揺さぶられた。

 心臓が激しく脈打っている。

 しかしそれは、今から降りかかる死に対する恐怖からではない。

 大きく見開いた瞳が揺れる。

 しかしそれも、死に対する怖れなんかでは決してない。


「……思い、出しました」


 そう、それは愛するニケの最後。

 他の誰も知らない、シエルだけが知っている、彼女の最後を思い出したからだ。


 この世でたった一人、ニケの最後を看取った娘、シエル・ヴァンジェ。

 初めて経験する大切な人の死を前に泣きじゃくるしかなかった彼女の耳に、ニケの言葉は届いていた。ニケの想いは、ニケの表情は、確かにシエルの中にあった。

 あまりの悲しみに心を閉ざし、冷たい壁に囲われた長く永い日々の中、色褪せて行った記憶の奥底に、ニケの最後は確かにあった。



 ……――――――――――


「ニケッ!」


 上手く走ることができない。体のあちこちが痛み、体は悲鳴をあげていた。

 それでも痛みを気にする余裕すら、今のシエルにはない。

 足を引きずり、ニケの元へと必死に駆ける。


 そうしてなんとか彼女の元へ辿り着くと、シエルはニケを抱き起した。

 べったりと手に滲む、生暖かい血の感触。

 誰からどう見ても致命的な深手であり、すでに手遅れだとわかるだろう。

 幾つもの深い斬り傷、内出血を起こした青痣、焼けただれた肌、床を染めるおびただしい血、青白い肌はどんどん熱を失い冷たくなっていく。

 そんな痛ましい姿の中で、背中にある黒い翼だけはその美しさを保っていた。

 それでも翼が無事だからといって、命が助かるわけもない。


「ニケ……しっかりしてください」

「……貴女が無事でよかった」

「……ッ」


 天井を見たままのニケの瞳に色はなく、とても虚ろ気だった。


「シエル、聞いて。あの人に……罪はない。あの人はただ……たくさんの人を守ろうとしただけなの」

「あ、あの人? 神殺し、ですか?」

「あの人は……誰よりも命の尊さを知り、誰よりも……家族を愛し、誰……よりも……誰かを護ろうとしている」

「そんなの聞きたくありません! 神殺しのせいで……ニケはっ……」


 どうしてこの期に及んでもそんな言葉を漏らすのか。

 わけがわからない。聞きたくない。そんなことを聞くために来たのではない。

 シエルはただ、神殺しを庇わざるを得なかった本当の理由が知りかったのだ。


 しかし今はそんなことすらどうてもいい。

 それだというのにニケは――


「悲しみには鋭いのに……愛情には疎い人。そんなあの人を……みなは慕っていた。支えたいと……思った。シエルもきっと、あの人のことを好きに……なる」

「それよりも早く手当を! 話なら後で聞きますから!」


 そうだ、そんな無駄な話をしている場合ではない。

 早く手当てをしなければ手遅れになる。

 だが、シエルの体もぼろぼろだ。大人を抱えて動けるだけの力は残っていない。


 どうすればいい、どうすればニケを助けることができる。

 シエルの脳は真面に思考することができず、酷く混乱していた。 


「シエル……最後にわたしの願いを聞いてくれるというなら、どうか……あの人を支えてあげて。反逆はんぎゃく箱舟はこぶねの……意志を、絶やさず……あの人を助けてあげて」

「わたくしは知りません! そうしたいなら、ニケがすればいいでしょう!? だから最後なんて言わないでください!」


 ニケが何を言ってるのかわからないし、理解できない。

 それでも何か思い残したことがあるのなら、自分でそれを成せばいい。

 諦めずに生きて、自分の手でそれを成すべきだ。


 だから、最後なんて言わないで。そんな悲しい言葉を自分に聞かせないで。


「反逆の箱舟は……世界を救うために、在らず。あの人のために……ゴホッ」

「ニケッ! しっかりしてください! ニケッ!」


 咳き込むと同時に口から溢れる赤い液体。

 早くどうにかしないと、このままでは本当に手遅れになってしまう。


 何が勝利と栄光の天使てんしだ、何が天の戦翼だ。

 本当に救いたい大切な人の死を前に、何もできない力になんの意味がある。

 自分が助けるのだ。ニケを、大切な母親を、娘である自分が助けるのだ。


 そう思っても、今のシエルは冷静ではなく、まともな思考はできていない。

 ただ失いたくないという想いだけが、強く胸の中を満たしているだけだ。


「わたしの罪は罪に在らず……わたしの黒い……翼は……あの人への忠誠を守り抜いた確かな証。この想いを貫き通した、確かな……証。わたしは翼は……わたしの誇り。わたしの……行いに悔いは……ない。わたしは……わたしの正しさを……最後まで貫い、た」


 白い翼は黒く染まり、それでいて傷一つない穢れなき翼。

 しかしそれがどうした。

 いくら翼を護っても、いくら翼が美しくとも、人は死ぬのだ。

 翼なんてどうでもいい。誇りなんてどうでもいい。一番大切なのは命だ。


 だから死ぬな、死なないで――


「愛しいシエル。たった一人の、わたしの……大切な娘」 

「ニ、ニケ……いやです。逝かないで……いや……」


 ニケがシエルを優しく見つめている……色の無い、まるで光を失ったその瞳で。


 だからわかる、わかってしまう……これが、死だ。


 ニケはもう助からない。

 わかりたくもなかったその現実を、ニケの瞳が静かに物語っていた。


 シエルの瞳からとめどなく溢れ出る透明な液体が、視界を朧に霞ませる。


「あなたの、その優しさで……あの人に教えてあげて。あなたの中の世界、にも……愛はたくさん溢れてるんだよ……って」

「……ニケ……置いていかないで……ニケ……お願いです」


 震える細い手を、ニケは必死に伸ばしていた。

 その手をシエルは優しく取ると、自分の頬へともっていく。


 何度も頭を撫でてくれた、何度も叱ってくれた、たくさんの事を教えてくれた、そんな温かかった手が、嘘のように冷たくなっていた。

 零れる涙が添えた手に溜まり、そこからさらに溢れ出る涙が二人の手を、そして頬を伝って静かに流れ落ちていいく。


「置いてなんて……いかない。忘れないで……わたしは、貴女の中にいる」

「ニケ……」


「最後に……貴女に抱かれて、逝くのなら……わたしは……」

「ニケッ!」


「シエル……ありがとう。わたしの娘で、いてくれて……わたしの傍に……いてくれて」

「あっ……ッ……」


「ごめんね……シエル。最後に、もう一度だけ……貴女の顔が……見た……かっ……た」

 

 最後に優しく微笑むと、最後の灯火は音も無く静かに消え去った。 

 ニケの手から、身体から、そのすべてから最後の力が抜け落ちた。


「ニケ……ッ、ニケ……ニケ……あっ、ッ……あぁぁぁあァァァァァ――ッ!」


 虚しく響く少女の慟哭。

 張り裂ける想いの中、少女はただ、悲しみを音することしかできなかった。

 腕の中に大切な人を抱え、美しい顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、後悔と無念、痛みと悲しみ、苦しみと自責……そのすべてを声に出し、言葉も話せぬ獣のように、ただただ泣き叫んでいた。


 ――星歴七〇〇年

 かつて勝利と栄光の象徴として崇められた天使ニケ・ヴァンジェは、翼を黒く染められたまま、周囲から異端者の烙印を押されたまま……それでいて自身の正しさと誇りを胸に、最愛の娘に看取られて、人知れず静かにこの世を去った。 

 

 ……――――――――――



「……思い、出しました」

「なに?」


 ブフェーラは目の前で背を向けて跪くシエルを冷たく見下ろし、静かに声を漏らした。

 

「あはっ……」

「……」


 シエルの口から思わず乾いた自嘲が漏れる。


 あぁ、実に滑稽だ……本当に愚かで間抜けな話でしかない。

 だってそうだろう……あの状況で、いつ、誰が助けを求めたというのか。

 自分はただ、間抜けにも取り乱していただけだ。

 愚かにも自分でなんとかしようなどと、どうして考えてしまったのか。


 確かにニケは助かるような状態ではなかった。誰に助けを求めたところで、どうにもならない。ニケを殺したのは、間違いなく自分の浅ましさだ。


 そしてニケは、自らの正しさと誇りを胸に逝ったのだ。

 そこに後悔などあったはずがない。微塵もあるはずがない。

 本当の答えなど、シエルはすでに知っていたのだ。


 ニケは自らの正しさを貫く女だった。

 そんな彼女が自分の心を偽るはずがない。自分の心を偽って神殺しを擁護したわけではなく、自分の心を貫くことが神殺しの味方で居続けることだったのだ。


 ずっとニケの強さを見てきて、ずっとニケの背中を見てきて、そんなことにすら気付けなかった。

 偶然に一度だけ見た、反逆の箱舟(リベリオンアーク)の写真の中にいた名無しの素顔。

 それが神殺しだとわかったときに、答えはすでに知っていたはずなのに。

 毎晩毎晩、悲し気に写真を見つめるニケの姿を見てきたのだから。


 神殺しの味方で居続けた理由はわからないままだが、今はっきりとわかるのは、ニケが負った罪は彼女にとって罪ではなかった。

 ニケは自らの正しさを最後まで貫き通し、彼女らしく逝くことができた。

 翼の色などどうでもいい。本当に大切なのは自らの心だ。


 それに比べ、彼女の娘である自分ときたらいったい何がしたいのか。

 イズナにもブフェーラにも言われたことは実に正しかった。

 意志無き力に、いったいどれほどの意味が、価値があるというのか。

 貫く意志など自分にはなく、病んだ心がもたらしたのは中途半端な報われない現実だけだ。

 ミコトを犠牲にし、ニケの墓も作れず、優しくしてくれた屋敷の者たちの思いを踏みにじり、神殺しに怨みを抱き、ニケの想いすらも裏切った。


 あぁ、だから……こうして無様に散るのも当然の報い。


「これではニケに会わす顔がありません。ねぇ……ミコト」

「……なんじゃ?」

「こんなわたくしでも、ニケはまだ叱ってくれるでしょうか?」


 泣きながらも不器用に微笑むシエルを前に、ミコトは静かに瞑目した。


「叱るわけがないのじゃ」

「そう……ですよね。こんなわたくしのことなど……もう叱る価値も……」

「そなたは何も悪くはない……なにも、の」

「ですがわたくしは……わたくしのせいでミコトは……」

 

 それ以上、言葉を紡ぐことはできなかった。

 後悔ばかりが残る中、今一番思い残すことがあるのなら、それはミコトを連れ出すことができなかったということだろう。


 せめて自分がニケのように強かったなら、自分の中に確かな貫くべき正しさがあったなら……そう思った途端、溢れ出る想いでの数々。


 あぁ、情けない。この期に及んで未練ばかりが胸を満たしていく。

 俯き床を見つめる瞳からは後悔の涙が溢れ出て、ぽたぽたと床に落ち、小さな水溜まりを作っていく。


「こんなことなら……やはり、書置きを残しておくべきでしたね」


 もう会えない人たちの温もりを思い出し、シエルは最後に祈った。


 願わくば、たとえこんな自分でも、死後の世界でニケと再び出会えることを。

 願わくば、自分を温かく迎え入れくれた者たちが、幸せに暮らせるようにと。


 自分に助けを求める資格などない。自分はすでに穢れているのだから。

 それでも、誰かを想うことくらいは許して欲しい。

 

「……覚悟は決まったようだな。神に背いた愚かな天使アンジェよ。その罪、その命と引き換えに我は赦そう。あの世の貴君の両翼は……きっと白く美しい」


 背後に感じる冷たい魔力に、シエルは小さく下唇を噛んだ。

 ブフェーラは右手の剣に魔力を宿し、哀れむような視線でシエルを見下ろすと、その剣の先をシエルの首筋へと添える。

 冷たくひんやりとした死の感触の中、シエルは静かにその目を閉じた。


 そしてブフェーラが剣を振りかぶろうと、剣の柄に力を込めると同時に、ミコトの口から漏れた言葉は最後の別れ……


「書置きは必用なかったの」


 ……ではなかった。


「伝え忘れたことがあるのなら、自分の口で伝えるべきじゃ」


 刹那――ミコトの背後の扉が大きな爆発音と共に吹き飛ばされ、上がる煙を貫くように現れた黒い影が、一筋の閃光となってブフェーラを吹き飛ばした。


 誰かが傍に立つ気配にシエルは瞳を大きく震わせながらも、横に立っているはずのその者へと視線を向けることができなかった。

 しかし、その気配をシエルはよく知っている。


 有り得ない……そんな言葉が頭の中を満たす中、ふわりと抱き上げられる感覚と共に、シエルは凄まじい疾走感に包まれた。


 突然の乱入者はすぐさまシエルを担ぎ上げ、次いでミコトを担ぐと、そのまま割れて空いた硝子ガラスの壁から身を空へと投げ出した。

 壁から氷を突き出し、それを足場にしながら高い城を降りて行き、広がる天空城の庭園に着地するや否や、再び疾く駆けていく。


 そこでようやく、シエルはゆっくりと顔を上げ、自分をあの死地から連れ去った者の顔を怯えるように覗き見た。


「どう、して……」

「……」


 やっとの思いで振り絞る声……しかし、男は答えない。

 ただ真っすぐに前を見据え、全力で目的の場所へと駆け抜けていく。


 そうして辿り着いた場所には、一つの小型の飛空艇が置かれていた。

 そこにシエルとミコトが詰め込まれると、男は初めて声を漏らす。


「使い方は知ってるな? ジェーノの元へ行け。そこにシンカとリンがいる。合流したらすぐに天国を離れろ」

「あ、貴方はどうするのですか……? て、天神様にあんなこと……」

「俺の心配をする必要はない」


 シエルの不安げな表情を前に、ロウは僅かに悲しみを帯びた微笑みを浮かべた。


「俺は……君の最も嫌う咎人だ」

「――っ」


 その言葉にシエルが声を詰まらせる中、ロウはミコトへと視線を向け、どうしても護られなければならない少女を彼女へと託す。


「ミコト、後は任せたぞ」

「うむ。そなたに感謝を」

 

 ミコトが力強く頷くと、ロウは飛空艇の浮遊石へと魔力を流した。

 飛空艇は静かに浮き上がると、静かに空へと飛翔する。


「ま、待ってください! 貴方も一緒に!」

「……」


 シエルは咄嗟に身を投げ出すように右手を伸ばすが、ミコトは何も言わずにシエルの体を掴んだ。ミコトの力が強いのか、思った以上に自分の体がぼろぼろなのか、シエルはその手を振りほどくことができなかった。

 仮に振りほどけたとしても、ここはすでに地上から離れた空の上であり、酷く傷ついた翼では自由に飛ぶこともできない。


 そこでやっとシエルは気付いた……この飛空艇が、二人乗りだということに。

 自分が飛べたらなら、ロウはミコトと共にこの飛空艇に乗れたはずなのだ。


 また、自分のせいだ、また自分のせいで――


「ロウッ、違うんです! わたくしは……わたくしはまだ貴方に伝えなければならないことがあるんです! だからっ!」


 叫ぶ声が空しく響く中、空に浮かぶ飛空艇はどんどん高度を下げて行き、見上げる二人の瞳に映る神都の庭園が次第に遠ざかっていく。


「ッ、だめ……わたくしなんかのために……どうして……」


 途端、二人の視界を飛び込む激しい光。

 感じる大きな魔力と激しい轟音と共に、一筋の光が空を穿った 





 シエルとミコトを飛空艇に乗せた後、ロウはじっとその場に佇んでいた。

 瞑目し、静かに風の流れを感じている。

 高高度の場所ということから、吹く風は強いのだろうと思っていたがなんてことはない。緩やかな風が優しく頬を撫でていく。

 鼻をくすぐる香りは、いったいなんの花だろうか。静かに心を静めてくれる優しい香りが、ロウの集中力を高めてくれる。


 天空城の裏手にあるこの庭園は神都の端だ。

 つまり、落ちればただでは済まないというのに、柵の一つもありはしない。一瞬危険だとも思ったが、そもそもここに住む者のほとんどは自由に空を飛べる手段を持っているのだろうし、必用がないといえばないのかもしれないが。


 途端、シエルとミコトの魔力が遠く離れていくのを感じる中、ロウの頬を掠めるように一筋の太い魔砲が通過した。

 

「なるほど……避けぬか」


 聞こえた声に、ロウはそっと瞳を開いた。

 天空城の方からゆっくりと歩いて来るのは腰に剣を携え、金色の縁取りをした白い法衣に身を包んだ天神、ブフェーラ・ゼウス。

 彼は口の端を持ち上げ、少し距離を開けたまま立ち止まった。


「先々代を殺め、先代を裏切り、そして我にまでその牙を突き立てるか……墜ちた英雄」

「……一人か?」

「ふっ、貴君とは是非一度、話がしたかったのでな。想定外の対面ではあったが、ここで邪魔者が入っては興も削がれよう」

「正直助かる。天の戦翼に囲まれたら、さすがにどうしようもないだろうからな」

「言ってくれる。我一人相手なら、どうとでもなると言っている様にも聞こえるが?」

「そう聞こえたならすまない。だが、今のは天神自ら俺を捕えるつもり、とも聞こえるな」


 切れる会話。沈黙する庭園の中、聞こえてくるのは風が木々や花々を揺らす音。

 どれくらいそうしているだろうか。互いに互いの思惑を探るようにその瞳を見据え合っまま、二人はぴくりとも動かずに佇んでいる。


 そして、二人が口を開くではなく動いたのは同時だった。


 ブフェーラの放った魔弾とロウの放った魔弾が中央で弾け、その爆発を切り裂くように互いの得物がぶつかり合って交差し、甲高い音を響かせる。

 斬り上げ、躱し、突き、流し、斬り下し、受け止める。

 凄まじい剣戟の嵐が、その余波で周囲の花々を揺らした。





 一方、一筋の光が空を穿った光景を見たシンカたちの視界に、一隻の飛空艇が映り込んだ。

 それに乗っているのがミコトとシエルであると目視できる距離になると、シンカは安堵するものの、それと同時にすぐさまとてつもない嫌な予感が胸を満たす。


 ……ロウの姿がない。咄嗟にその付近に視線を飛ばすが、ロウが飛べるはずないのだからいるはずもなく、考えられる推測は一つしかなかった。


 すぐに事情を聞きたいがシンカの背に翼はなく、何が起きたのか知っているはずの二人ががここまで辿り着くのを待つ事しか出来ない。

 もどかしい気持ちを抑えるように、シンカは強く握り締めた手を胸に当て、ぎゅっと唇を噛み締めた。


 それほど遅い速度ではないにしろ、飛空艇の飛ぶ速度を遅く感じていたのはそれだけ気が急いているということだろう。

 ようやくにして飛空艇が辿り着き、緩やかに地面へ着地すると、真っ先に駆け寄ったのはシンカだった。


「二人とも……無事でよかったわ」


 微笑むシンカを前に、シエルは潤んだ瞳で口をヘの字に曲げながら目を伏せた。

 飛空艇から降りたミコトがシンカの前に立つと、正面から彼女を見つめる。


「……すまぬ。苦労をかけたな」

「私は何も……それより、ロウ……は?」


 その質問に答えるように跳ねたシエルの肩を見るだけで、それはシンカの推測が正しかったのだと証明されたに等しいものだ。

 二人乗りの飛空艇。

 そこに傷ついたシエルが乗っている時点で、それ以外に答えはないのだから。

 

「残った、のね。だったら早く迎えに行かないと」


 シンカが飛空艇に乗り込もうとした瞬間、誰かに後ろから肩を掴まれた。

 思わずその手を払うようにシンカが振り返ると、そこにいたのはベンヌだ。


「あんたは行ったらだめだ」

「どうして、ですか?」


 止めるベンヌをシンカは目を細め、鋭く睨みつけながら問いかけた。

 立場など今のシンカにとってはどうでもいい。

 そんなものを気にしている余裕など、今の彼女にありはしない。


「……邪魔になる」


 しかし、ベンヌは眉一つ動かさず一言で答えた。


「ッ、邪魔って……ロウは飛べないんですよ? 誰かが迎えに行かないと」

「だとしても今は駄目だ。これはな……必要なことなんだよ」

「……どういう、こと?」

「今は耐えろ。俺に言えるのはそれだけだ」


 そうは言われても、さっきの光が気になって仕方がない。

 話し合いで分かり合えなければ……万が一、本気で戦うことになっていたら。


 相手は神なのだ。いくら神殺しと呼ばれるロウでも、たとえすべての記憶を取り戻しているのだとしても、その力はまだ完全ではないはずだ。

 募る不安に苛まれ、シンカは静かに空を見上げた。


 そんな中、いまだ飛空艇の中で蹲るシエルにミコトが歩み寄る。


「シエル……そなたは最後まで聞き届ける権利がある」

「……」

「神殺しの……いや、ロウの戦いは他の誰のためでもない」

「……」

「そなたの為の戦いじゃ」

「…………え?」

「ロウは自分の為だと言うじゃろう。しかしの……シエル。あの男もまた、苦しんでおったのじゃ」


 そう言って、ミコトが取り出したのは一つの魔石――伝達石だった。


「ロウが余を抱えたとき、ロウの服にもう一つの伝達石を忍ばせた。聞くも聞かぬもそなたが決めるといい。そして許すも許さぬも、そなたの自由じゃ」


 震える手でそれを受け取ると、シエルは悩んだ。

 何を話しているのか知りたい半面、それを聞くのが怖くもある。


 ニケの想いは思い出した……ニケの最後も、そのすべてを。

 しかし、ロウの部屋をいくら探しても、ニケの想い出はどこにもなかったのだ。

 ニケが毎晩眺めていた写真の一枚すら出てはこなかった。


 もし、もしもロウがニケのことをそれほど思っていなかったら。

 ニケの死に、何も感じていなかったなら。


 シエルはゆっくりと面を上げ、皆を見渡した。

 誰も何も語らず、そのすべてをシエルに委ねている。

 事情を知らず、ロウのことが誰よりも心配であろうシンカでさえ、何かを察した様に静かに見守るだけだ。


 シエルは今一度、手の中の魔石に視線を落とした。

 そして、震える手つきで魔石の側面をなぞりながら、ゆっくりと魔力を流し込むと、聞こえて来たのは紛れもなくロウの声だった。

 

『ニケを殺したのは俺だ』


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