168.そして、惨劇の年は始まった
虹の塔のある一室。
なんの飾りっ気もない殺風景の部屋にあるのは壁に埋まった数々の魔石と、中央に置かれた一人掛けの椅子だけだ。
その椅子へ腰を下ろしながらサラが五つの魔石に魔力を流すと、あまり時間を置かずして各地の神々へと通信が繋がり、向こう側の映像が映し出された。
『これはサラ様、ご機嫌麗しく。今年も良い一年になりますよう、冥の安寧のあらんことを』
『あけましておめでとう、サラ殿。新年も海の恵沢のあらんことを』
「うん、おめでとう」
真っ先に声を発したアルバに続くヴィアベルの肌は、湯浴みでもしていたのか僅かに赤らみ、髪も湿り気を帯びていた。
虹の塔からの通信は最優先事項であり、入浴中であっても例外はない。
『サラ殿から連絡がきたということは、神殺しの処分が決まったということか?』
「そうなるねぇ」
『まぁ、だいたい想像はつくがな』
「ブフェーラはんは相変わらず可愛げないなぁ」
『好かれたくもないのでな。格式など貴君の嫌うところであろう? まぁ一応、天の祝福のあらんことを、とは言っておくが』
『天神、口が過ぎるぞ。審秤神様、新たな一年、陽の守護のあらんことを』
そう言ったイグニスにサラは一言返しながら、最後の映像へと視線の映した。
月国と繋がるそこに映し出されていたのは女神ではなく、いつもセリニの傍にいた女性、メリュジーナだ。
『月神様に変わり、月の恩寵のあらんことを』
「おやおや。やっぱセリニはんは引きこもり?」
『あぁ、そうだね。あたいが代役じゃ不満かい?』
「そんなことはあらへんよ。聞いてみただけや」
わざとらしく言ったメリュジーナに、サラは小さく肩を竦めてみせてた。
七深裂の花冠が一ひらである彼女もまた、神と同じ立場を有する者なのだから、ここで言葉を交わす権限を与えられているのは当然のことだ。
「まぁ、とりあえず結論から言うと、今回の件においてロウはんは無罪な」
あっさりと言ってのけたサラの言葉に、神々は怪訝な表情を浮かべた。
その判決に対し、真っ先に不服を申し立てたのはヴィアベルだ。
『……サラ殿、何かしらの罰も与えず無罪とはどういうことだ?』
『確かに。釈放されることは予想していまいしたが、まさか無罪になるとは僕も思いませんでしたねぇ』
『納得できる理由を説明してもらえるのだろうな?』
続くアルバとブフェーラの想像通りの反応にサラは微苦笑を浮かべ、その理由を説明していく。
「話は簡単。ロウはんは仲間を助けただけのことや」
『どういうことだ? 神殺しがルインの仲間であると、私にはそう聞こえるが』
「それは逆や。話を聞いてみると、今回助けたアリサはんは月国がルインへと送り込んだ密偵やったみたいやね」
『なるほどねぇ、そう来ましたか……』
「なんや不服かな?」
『当然だ。我らにそんな子供騙しが通じると思っているのか?』
「騙すなんて人聞き悪いわぁ。これが今現在の事実や。うちが言うんやから間違いあらへんやろ?」
『……』
「といわけで、ロウはんは明日の正午に釈放。以上、おつかれさん。この世の全てに法の庇護のあらんことを」
皆、不服がないわけではない。
どう考えてもアリサの行動が演技だったとは思えないし、サラの発言が事実であるなら、月国はかなり以前からルインに対して動いていたことになる。
そんなことを普通なら信じれるはずもないだろう。
しかしサラが判決を下すとき、どの国にも肩入れせず私情を挟めないというのを皆も知っている以上、サラの発言はそれだけで事実であることの証明だ。
それまでの過程がどうであれ、現在アリサが敵地に乗り込んでいることに違いはない。それも、結果としては神殺しのお陰ということになる。
禁忌の呪いに縛られたサラがそういった判決を下した以上、他国に不利益を与えるどころか、諸国に大きな利益を生むことになるのは間違いないのだ。
無論、万が一のことがあっては意味がない。
アリサが裏切ったとき、その責任の一切をロウが負うことを条件に皆がそれぞれ通信を切る中、通信を切ろうとしたブフェーラをサラは引き留めた。
「あ~、そやそや。天神ブフェーラ・ゼウス」
『……なんだ?』
「あんまおイタしたらあかんよ? あんたみたいな子、うちで面倒見るには正直面倒やからなぁ」
『……ふん。当然、我も貴君の世話になるのはごめんだ』
そうしてすべての通信が切れると、サラはやっと終わったと疲れた表情を浮かべながら、力無く椅子の背もたれに背中を預けて息を吐いた。
…………
……
一方、ツキノたちが急にいなくなり、いつの間にか部屋に戻されていたロウは、壁にもたれながら寝台に座り、いつもの日課をこなしていた。
こうかん日記……以前まではなんのために、誰を相手にそれをつけていたかは覚えていなかったが、すべてを思い出した今は違う。
いつもより鮮明に起こった出来事や感じた事を、まるで目の前にその人がいて語りかけるように、丁寧に丁寧に書き綴っていく。
ルナティアとハクレンはいまだ獣の姿から戻しては貰えず、ロウの左右で丸くなって眠っていた。
「……俺が正義、か」
今日の出来事を書き綴る中、ふとロウはツキノたちの言葉を口にした。
(もし俺が正義だというのなら……俺の手で殺された多くの者たちが浮かばれない。俺の行いが、正義であっていいはずがないんだ)
正義の前に立ちはだかる者に強き意志があるのなら、それは悪ではなくまた別の正義なのだと……そう、誰かが言っていた。
確かにそれも一つの答えなのだろう。
”生きたい”
だが、ロウはそれを自分自身に当てはめることだけはできなかった。
どんな信念があろうとも、どれだけ強い意志があろうとも、正義を掲げるには手が赤く染まりすぎているのだから。
”……生きたい”
今でも聞こえてくる……殺めた者たちの最後の言の葉が。
苦痛と無念の表情を浮かべ、ロウに向けた断末の言の刃が……それでも――
”行きなさい”
決して立ち止まるわけにはいかないのだ。
多くの涙を振り切りながら屍山血河を越え、ここまで辿り着いたのだから。
これから先も必ず多くの屍の山が築き上げられ、広大な血の河が流れるだろう。
だがそれでも、託された想いを無駄にはできない。
”……行きなさい”
たとえこの先、どれだけ多くの涙が流れるのだとしても。
たとえこの先、大切な人たちに怨讐の念を向けられたのだとしても。
(あぁ、わかっているよ。それが貴女たちを殺めた俺にできる、唯一の贖罪だ)
過去の光景に言葉を返し、ロウは日記を静かに閉じた。
すると突然、中空に現れたサラがそのまま寝台へ飛び込んできた。そしてそのままロウの太腿の上に頭を乗せながら、まるで子供のような声を発する。
「つ~か~れ~た~! 今日一日でいろいろありすぎやん! いくらうちでももぉ~無理や~! 限界や~! くたくたや~!」
「……俺のせいだな。すまない」
苦笑し、ロウが太腿の上に置かれたサラの頭を優しく撫でると、サラはくすぐったそうに身を縮こまらせるものの、そのまま大人しくしていた。
これではどちらが子供で、どちかが親代わりだったかわかったものではない。
そのまましばらく撫でていると、サラの口から小さな音が零れ落ちた。
「なぁ……ロウはん」
「なんだ?」
「明日の正午、ここを出ていけることになったよ」
「……そうか」
「シンカはんとカグラはんがな、頑張ってくれたみたいや。アリサはんと直接交渉してな。アリサはんは今、ルインに潜入捜査しとるってことになっとる」
「どういうことだ?」
サラの言葉の意味を理解できず、ロウの撫でる手が止まった。
(まぁ、シンカはんがロウはんの夢を共有した理由は、あのときに目醒めかけたんが原因やろなぁ。カグラはんも同じ夢を見たっちゅうんは解せんけど……)
サラは一瞬悩んだ。シンカたちがアリサの過去に関する真実を知り、アリサもそれを聞かされたという事実をロウに伝えるべきか否か。
だが、それは他人の口から伝えるべきことではないだろう。
ロウが選んだ道……アリサとの問題は、ロウ自身で解決するべきだ。
「この魔石にみんなの想いが詰まっとる。ここを出ていく前に見とくとええよ」
そう言って手渡したのは、世界の記憶の一部が詰まった魔石だった。
それを見れば、ロウのためを想って動いた皆の行動がわかる。
どれだけ皆がロウのことを心配していたのか、どれだけ帰って来ることを願っているのかがわかるはずだ。
とはいえ、サラが直接世界の記憶を覗くのとは違い、見ることができるのは行動のみで声が聞こえるわけではない。
追想石の劣化版くらいの役割しか果たせないが、元より世界の記憶の一部を見せること自体が無茶なのだ。当然、この塔から一歩でも外に出ればその魔石もただの石ころと化してしまうが、それでも皆の思いは十分に伝わるだろう。
皆の想いをわかっていてなお、ロウの行動が変わらないのだと知りつつも、サラはそれを手渡した。
「理由はわからないが、アリサと交渉したということは深域に入ったってことだよな? よくあのアリサを納得されられたものだが……はぁ、シンカは相変わらず無茶ばかりするな」
「ふふっ、あんたが言うん? 昔から、あんたの周りは牡丹がよぉ咲くねぇ」
「違いない」
苦笑したサラがロウの手を取り、急かすように自分の頭を撫でさせると、ロウは止まっていた手を再び動かした。
「一応、神々も納得はしたみたいやけどな……これからどうするつもりなん?」
「やることは変わらない。一つ一つ片付けながら、神器とセツナを取り戻す。サラにはお見通しだろ?」
「……」
「サラ?」
「……ごめんな」
そう、一言口にしたサラの声はほんの微かに濡れていた。
ロウの位置からでは顔を背けているサラの表情は窺えない。それでも、今のサラがどんな表情を浮かべているかは、その音だけで十分に伝わってくる。
「急にどうしたんだ?」
「……逃げたかったら、逃げてもえぇんよ?」
意味のない問答だ。ロウの答えはわかりきっている。
わかっていながらもそう言ったサラは、そんな自分を嫌悪しつつ、それでも言わずにはいられなかった。
「俺は誰かのために行動できるような、そんな立派な人間じゃない。俺はただ俺自身のために動いてるだけで、これはただの自己満足だ。逃げるもなにも、俺は自分のしたいようにしてるんだからサラが気に病む必要はない。サラと違って俺は自由だよ」
何度も繰り返された問答だ。何度も、何度も、何十、何百と繰り返してきた。
その度にロウは同じ答えを返すのだ。
もし仮に過去へ遡ってやり直せるのだとしても、ロウは同じ行動をとるだろう。
誰かがもし仮に、過去へ行ってロウの行動を改めさせようとしても、ロウの意志を変えることはできないだろう。
たった一つの、そう……すべては――たった一つの約束のために。
そしてそんなたった一つの約束は、ロウの人生のすべてを投げ打ってでも変えられないものだということを、ロウは知らない。
いや――気付くことができないのだ。
それでも戦い続けるロウを見て、それでも何も感じないというのであれば、サラは人の心を失っているに等しいだろう。
司法の女神としてはその方が正しい姿なのかもしれないし、人の心を失ってしまった方が、このような悲しみに暮れることもない。
しかしそれでも、サラはロウのために悲しめることに感謝していた。
サラは祈り続ける。
審秤神でありながら修道服に身を包み、ただ切実に、ただ純粋に、想いの丈のすべてを乗せて、今は亡きサラと志を同じくしていた友たちへと、祈り続ける。
誰にも祈れず、誰にも縋れない、本当の愛を知らないたった一人の孤独な男のために……どうか、独りで世界と戦うこの男を見守っていてくれと。
そして何処かにいる誰かへと、祈り続ける。
誰もいい……誰でもいいから、誰か、どうかこの男を救ってくれと。
「……ロウはん。独りになったらあかんよ? 絶対……独りになったらあかん」
「何を言ってるんだ。俺にはルナティアやハクレンがいる。屋敷に家族もいるし、内界でリアンたちにも出会えた。こんな俺を慕ってくれる仲間がいる。俺は一人じゃないさ」
「……そう、やね。そやけど、屋敷に戻るつもりはないんと違うの?」
「今はまだな。少なくとも俺の過去にケリをつけるまでは」
「ふふっ、上手くいくとえぇね」
「どういう意味だ?」
「さてな。あの姉妹はあんたが思っとるほど、控えめな性格やないっちゅうことや」
「……そう、かもな」
「ロウはん……いつか……あんたの……子供……この手に……抱いて……」
そのまま、サラは静かに小さな寝息を立てていた。
余程疲れていたのだろう。
当然だ。今日一日で、たくさんのことがあった。いくら塔の敷地内では最強の力を持つ女神といえど、魔力も体力も無尽蔵というわけではないのだから。
思い返せば、ロウが生まれてからずっとサラには迷惑をかけっぱなしだ。
返せた恩は無く、返せる見込みもない。
自分をここまで強くしてくれた。自分をここまで育ててくれた。
本当の両親を知らないロウにとって、サラは紛れもなく愛すべき母親なのだ。
「おやすみ……母さん」
そうして、長い年の初めの一日は終わっていく。
神歴七七五年、煌照節一日。内界の暦でいえば一月一日。
記憶を取り戻したロウの新たなる戦いが始まろうとしていた。
そしてここではなく、別の場所でもまた……
周囲には何もなく、ただ真っ白いだけの虚無の世界。
まるで世界と隔離されたかのような空間に、デュランタとミオはいた。
「明日はいよいよ、記憶を取り戻した神殺しの釈放の日ですね」
そう言って、ミオは手に手にした金平糖を一つ摘まむと口へと放り込んだ。
「そうですね。もうすぐ、私たちの望みに手が届きます」
デュランタは丁寧に刀の手入れをしつつ、表情を隠した狐面の下で僅かに口許を動かした。
実際のところ、自分たちの持つ刀は通常のものと異なり手入れを必要としない。ましてや観賞用というわけでもないのだから、ただの刀であったとしても本来の正しい手順をすべて踏まえる必要もないのだ。
それを知りつつも、ミオがそれに対して口を挟むことはない。
「そろそろ、大罪たちへの話を取りつけますか?」
「……今はまだいいでしょう。大罪……生まれながらに咎をその身に背負う者。ふふっ、おもしろいとは思いませんか?」
「おもしろい?」
鋭利な光を放つ刀身の僅かな亀裂を指先でなぞりつつ、小さな笑みを零したデュランタに対し、ミオは静かに首を傾げた。
「生まれながらに咎を背負うというのであれば、人は皆同じでしょう」
「……確かにそうですね」
「神殺しが変えたい運命も、周りの者が変えたい運命も、そのどちらも選ぶなどというのは紛れもない強欲です。そして、自らの宿命を受け入れた神殺しのそれを変えたいと思うのは傲慢でしかありません。周囲に目を向けず、世界にしか目を向けてない神殺しに対して、周囲の者たちは世界に嫉妬する。神殺しを奪う世界に憤りを感じながらも、神殺しにすべてを委ねた者たちは怠惰です。神殺しを魅了して惑わし、すべての悪を貪り喰うために利用する。人は皆、悪徳を偽装し、美徳の仮面をつけているだけにすぎません」
――シャン
五つの鈴の音を響かせながら刀を鞘へ戻すと、デュランタは鞘の側面をそっと撫でた。
「貴女の言い分はもっともです。それは私たちも然り。でも、人間には欲がある。それは生きているんですから当たり前です。欲のない人間なんかいるはずがありません。行き過ぎることはいけませんが、欲は決して悪いことじゃない。なぜなら欲は心の声だからです。こうしたい、こうありたいという願望が、欲という形になって囁きかけてくるんですから」
「そうですね。だからこそ、英雄は神殺しへと堕ちてしまった」
「……それは」
「いえ、私にもわかるのですよ? 欲が決して悪いものばかりではないと。私たちの行いこそが、欲の結晶とも呼べるものなのですから。怠惰であったことを後悔し、微かな希望に魅了され、欲しい運命を強欲にねだり、世界に憤怒し、嫉妬し、自らの行いこそを正しいと信じる傲慢さをもって、世界を貪りつくす」
「でもきっと、一番の大罪は七つの影に隠れたもの……なんでしょうね」
「その先の大罪があるとすれば狂信と欺瞞……ふふっ」
デュランタは立ち上がると、目の前に身の丈の何倍もあろう巨大な氷塊を作りだした。そして左手に鞘を持ち、右手を刀の柄にそっと添える。
そしてゆっくり腰を落としていくと……
「私たちは決して許さない――あの人を殺した世界を」
「私たちは決して許さない――それを許した私たち自身を」
「私たちは決して許さない――あの者たちが歩む運命そのものを」
「罪歌ノ太刀――仇華」
抜き放たれた刀が煌めいた刹那、すでに刀は鞘へと戻されていた。
鈴の音と共に振り返り氷塊に背を向けたデュタンタは、狐面の奥で燃え盛るような意志をその双眸に宿し、何かを押し殺すような声を静かに零す。
「姉妹のけじめは、私たち姉妹がつけねばなりません」
「えぇ、そうですね。平和と秩序を乱す世界へと、正義の裁きを」
途端、背後の氷塊がゆっくり斜めにずれると、滑るように崩れ落ちる。
身の丈の数倍もあろう氷塊を、手入れをした刀の試し切りといわんばかりのたった一閃で斬り伏せたその断面は驚くほどに滑らかだった。
「「我らにどうか――ディザイア様の御加護があらんことを……」」




