159.それぞれの七年
「はぁ……なにやってんだ、お前らは」
溜息混じりの男の声が静かに響き渡ると、そこにいたのは薄紫の軍服に身を包むエパナス派の使徒、ルカン・デルマコルだった。
「し、使徒様っ! お、お助け下さい!」
次々に助けを請う声が響く中、ルカンは再び深く息を吐き出しながら、ブリジットたちへと順に視線を送っていく。
「今はまだ、俺が口出しする問題じゃねぇと思ってずっと見てたけどよ……お前ら、間違ってるぜ」
魔憑である月の使徒が現れたことに安堵したのか、周囲の者たちから恐怖の色が消え、ここぞとばかりにルカンに同調する数々の声を上げ始めた。
雑音が耳の奥で不快に響き渡る中、ブリジットはぎりっと奥歯を噛み締めると……
「……アタシらが間違ってるって? そんなことわかってんだよ! でも、大切な家族をあぁ言われて大人しく許せるほど、アタシらは立派な人間じゃないんだ! アンタにアタシらの何がわかるってんだい!」
「わかるに決まってんだろうが!」
「――ッ!?」
気迫のこもった叫声に、ブリジットは言葉を詰まらせ一歩後ずさった。
それは周囲も同様で、味方であるはずのルカンの言葉に思わず身を震わせる。
すると、ルカンは眉間に深い皺を寄せ、何かを堪えるように噛み締めた歯の隙間から静かに言葉を吐き出した。
「ずっと……ずっと見てきたんだよ。この、七年間……ずっとな」
誰一人として、その言葉を理解することはできなかった。
ルカンは七年前の後悔からずっと、屋敷を気にかけていたのだ。
家主を失った屋敷はそれまでの音を失くし、深い悲しみに満ちていた。
何か力になれることはないかと様子を窺いはしても、できることはなにもない。
かといって、まったく無視できるほど、ルカンのロウに対する恩は浅くはない。
不甲斐ない自分を嫌悪し、ツキノたちを心ない言葉で戦場から遠ざけようと空回りし、自分の行いが間違っていると思いながらも、どうしていいのかわからない。七年間……ずっとそうして屋敷を見守っていた。
だから、わかるのだ。だからこそ知っている。
ブリジットの吐き出した言葉が、間違いであるのだと。
「お前ら、本当になんにもわかんねぇのか? お前らの言葉は本当に嘘偽りない本心なのか?」
その言葉に、この場の誰もが目を丸く見開き驚愕した。
なぜならそれはブリジットたちに対するものではなく、周りへと向けられた言葉だったからだ。
ルカンがロウのためにできることは何もない。
何もないが、それでもここにはいないロウの想いに応えてやることはできる。ルカンの出したその答えがこの七年と同じく、屋敷の様子を見守ることだった。
エパナス派の監視の目があったのはブリジットの推測通りだ。
直接の罪はなくとも、神殺しの家族に対して警戒するのは当然のことだろう。その役目をオルカの隊が担うよう、ルカンは上手く手回ししていた。今この場を監視しているのは、オルカとティミドのいる部隊だ。
何もできずに、ただ見ているしかできなかったこの七年間とは違う。
思いばかりが空回りし、怠惰であったこの七年とは違うのだ。
ロウのいない屋敷の者を今度こそ、まっとうな方法で守るのだ。
ロウが帰って来た時に、胸を張って迎え入れることができるように。
「そこの魔女はよ。口は悪りぃし、おっかねぇけど、ずっとこの屋敷を支えてきたんだ。みんなだって見たことあるだろ? 買い物してる時のこいつをよ。家族のために旨いもん作ろうと買い物してる時のこいつの顔が、何か企んでるような顔に見えたかよ」
ブリジットは決して顔に出しているつもりはなかった。
出かけるときはいつも老婆の姿だし、本当の姿を見せないようにしてきたつもりだった。……それでも皆は知っている。
文句を零しながらも、優しい微笑みを浮かべる彼女の姿を。
「そこの吸血鬼は、無口だし不愛想な引きこもりだけどよ。みんなも見かけたことはあるだろ? 毎日毎日、庭の墓を磨いて花に水やってる姿を。死んだ奴を大切に思えるこいつに、何か裏があると思うのかよ」
ロザリーは基本的に感情を表に出さず、表情を変えることもない。
話すこともあまり得意ではないし、人付き合いに関してはとても不器用で、外に出たがろうともしない。……それでも皆は知ってる。
毎日欠かさず、一生懸命に墓の手入れをしている彼女の姿を。
「見ろよ、そこの人狼。大きくて傷だらけで、目付きも悪ぃしよ。怖いよな? でもその大きな体で、あんなに傷だらけになって、ずっと降魔と戦って来たんだ。そんな奴が、誰かを傷つけるために強くなったと思うのかよ」
フォルティスはずっと、屋敷の門扉の前に佇んでいた。
暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も、もう何も奪わせまいと、開いた魔門へ誰よりも先に駆けつけるために。……それを皆は知っている。
彼がずっと、この下層区を護り続けていたことを。
「ここにはいねぇ星国の三人は、まっすぐな奴らだよ。純粋で、ひたむきで、努力家で……どんな目を向けられても、どれだけ蔑まれても、変わらねぇ意思を持ってんだよ。憧れた背中を追いかけるのに必死で、死神にさえ向かっていけるような優しい奴らなんだ。そんな奴らの想いが、お前らには伝わんねぇのかよ」
ツキノもモミジもシラユキも、訓練生時代から周りからの風当たりは強かった。
訓練校では避けられ、その力を気味悪がられ、辛い扱いを受けて来た。それでも諦めず、挫けず、決して擦れることも折れることなく月の使徒へとなり、誰を恨むこともなくこの月国を守り続けている。
そんな真っすぐな彼女たちの姿を、皆は見てきた。
「ルナリス隊にいるリン先輩はすげぇよ。戦うときはいつも最前線で、後ろにいる仲間を奮い立たせてくれる。開いた魔門の中でも、一番過酷なところでルナリス隊は戦ってきた。誰も犠牲を出さないように、その拳を振るい続けてきたんだ」
リンの強さも、これまでのルナリス隊の功績も、皆知っている。
それを率いていたのが、神殺しである名無しだということも。
誰も、何も言葉を返すことができず、訪れたのは静寂だった。
誰もが気まずそうに視線を逸らし、じっと地面を見つめている。
「神殺しが育てたのは、そんな奴らだよ。神殺しが教えたのは、そんな優しさなんだよ。確かに神殺しのせいで、月国の扱いは酷いもんになった。それは事実だ、間違いねぇ。だけどな、神殺しがお前らを、この国をずっと護り続けたことも事実なんじゃねぇのか? そこから目ぇ逸らして不満ばっかぶつけて、お前ら本当にそれでいいのかよ」
ルカンは小さく息を吐きながら、そっと路地の方へ視線を移した。
その先で静かに成り行きを見守っているオルカが微笑みながら小さく頷くと、ルカンは視線を周りの者たちに戻しながら言葉を重ねていく。
「俺の親友が言ってたぜ。子供は親の背を見て育つんだってよ。神殺しの背を見て育った、家族想いの奴らを責めるお前らの背中は、子供に誇れる背中なのか? 恨んで、憎んで、蔑んで……子供にもそう教えていくのか? 仲良くしろとは言わねぇよ。けどよ……もういいんじゃねぇのか? もう十分だろ」
そう声をかけるルカンの声は、まるで祈りのようで……
「もう……神殺しは名無しさんとして、たくさんお前らに償ってきただろ」
そこに反論の言葉はなく、皆は思い詰めるように目を強く瞑っていた。
皆も本当はわかっていたのだ。
ブリジットの言ったように、名無しを裏切った負い目から目を逸らして誤魔化し、あのときの自分たちの行為を正当化したいがために、神殺しの罪ばかりに目を向けてきた。彼の行いに善意など微塵もなく、すべてが悪意であったかのように。
フォルティスとロザリーはそれぞれに元の姿へと戻り、何も言わずに静かな足取りでブリジットのもとへ歩み寄よると、彼女の後ろに展開されていた魔方陣も同時に消滅した。
一先ず拳を下ろしたブリジットたちを前に、ルカンはほっと胸を撫で下ろすも、まだ話は終わっていないとばかりに言葉をかける。
そして今度は周りの者にではなく、ブリジットたちに対するものだった。
「お前らもだ。もう、自分を偽るのをやめろ」
「……アタシらが、何を偽ってるってんだい」
「さっき、間違ってるっていっただろうが。そのことだよ。名無しさんの教えを守れてないだ? ずっと、守り続けてきたじゃねぇか。娘じゃないなんて言ったら、名無しさんが悲しむのわかってんだろ」
誰に言われるまでもなく、痛いほどにわかっている。
それでも、ロウの想いに沿えない自分たちが……と思ってしまうのは、彼女たちのロウに対する想いが純粋で強すぎるからだろう。
人は理性ある生き物だが、感情に揺れ動く生き物でもある。
大切な人を傷つけられて憎まずにいられるのは、きっと感情がないのと同じだ。大切であればあるほどその憎しみは強く、より深くなるというのは当然のことだろう。
しかし、ブリジットたちの中にあるのがそれだけでないことを、ルカンは知っている。
先程まであった怒りよりも、悲しみを色濃く浮かべたブリジットたち三人の瞳の中に見覚えのある姿が映り込むと、彼女たちは一瞬驚いた表情を浮かべた。
「当然、知ってるよな? 知らないなんて言わせねぇぜ」
そこにいたのはティミドに連れられて来た、小さな女の子と手を繋ぎ、それよりも幼い子供を抱いた夫婦だった。
知らないわけがない。何度も屋敷の窓から、その姿を見かけていたのだから。
屋敷の前の道を通る度に、必ず屋敷に向かって深く頭を下げて行く夫婦の姿を。
「お前らが家族想いで、この屋敷がどれだけ大切なのかはわかってる。それならなんで、屋敷に降りかかる火の粉だけを払わなかったんだ? 確かにここは開きやすい魔門から近いが、現れた降魔がすべて屋敷に来るとは限らねぇ。本当に屋敷だけが大切なら、屋敷に向かってくる降魔だけを倒せばよかったはずだ。後は月の使徒に任せてりゃいい。なのにわざわざ真っ先に魔門へ駆け付けるのはどうしてだ?」
「そ……れは……」
ブリジットたちは子供を連れた夫婦から目を逸らし、言葉を詰まらせた。
「わかってたからだろ? 何もできなかった自分たちのように、ここにいる連中が何もできなかったのも仕方のないことだったって。知ってたからだろ? 何もできなかったからって、みんながみんな、憎んでばかりで感謝の気持ちがないわけじゃねぇって。護りたかったんだろ? 名無しさんが命を懸けて護ったものを、お前たちだって」
ルカンの言っていることはすべて図星だった。
頭では理解していた。
魔憑でない人間が、あの状況で何もできなかったのは仕方ないと。
ちゃんと感じていた。
すべての者が、ロウに対して感謝の想いがないわけじゃないことを。
護りたかったのだ。
大切なロウが、命を懸けてでも護ろうとしていたもの、そのすべてを。
だからといって、憎しみが消えるわけじゃない。
自分の行為を正当化する者、感謝の気持ちを忘れる者、守って貰ったことすら考えずただ憎む者。そんな者たちに対して憎しみの念があったのも、そんな者たちを守っている自分の行為への自責の念があったのも本当だ。
しかし、ブリジットたちの中も確かにあった。
過去に親を失い、今の大切な家族を想う彼女たちにとって、どうしても護りたいと思えるほどに譲れないもの。
そういったものの一つが、今目の前にいる子供連れの夫婦だった。
女の子と手を繋いだ男は、そっとブリジットへと歩み寄ると……
「七年前、この下層区が降魔に襲われたとき、僕たちものその場にいました。妻と病院へ向かう途中で……逃げ遅れた僕たちを助けてくれたのが名無しさんです。そしてその日に産まれたのが、この子です」
「プーちゃんの妹なんだよ! この間ね、誕生日だったの!」
男と女の子が視線を向けた先、女に抱かれているロウが守った小さな命。
七年前のあの場にこの夫婦がいたということを、ブリジットたちは覚えていた。
新しく生まれた命を抱いた夫婦が、屋敷へ向かって深く頭を下げる姿を見るようになったのは、それから少ししてのことだ。
幼い子を抱いた女は、愛おしそうに手の中の命を見つめながら……
「名前をフィリアと言います。名無しさんのお屋敷……ユーフィリアの名前から頂きました。……あ、あのときは……あ……ありがとう……ございました」
涙混じりの濡れた声で深く頭を下げると、それに続いて男も深く頭を下げた。
「名無しさんへの感謝の気持ちを忘れたことはありません。本当は、すぐにでもちゃんとお礼を言いたかったんです。でも、その場で何もできなかった僕たちが、親を失った貴女たちに……どう言葉を並べていいかわからず……ずっと遠くから見ていることしかできませんでした」
その声は震えているものの、男はしっかりと積もった想いを口にする。
「名無しさんがあの神殺しだと知った時は驚きましたが、それでも……それでも僕たちを、この子を救ってくれたのは貴女たちの父親です。貴女たちの父親は僕たちにとっての恩人です。……本当に……本当にありがとうございました」
「プーちゃんの家族をまもってくれて、ありがとうございました」
男に続き、自分をプーちゃんと呼ぶ女の子も頭を下げると、ブリジットたち三人の中にあったのは純粋な戸惑いだった。
感謝されるのはロウであって、決して自分たちじゃない。
それでも胸に染み渡る温かさに、どこか報われたような思いを感じていた。
「あ……あり、がと? ありがと」
そう言って、フィリアが小さな手をブリジットへと伸ばした。
きっとフィリアに感謝の意味など理解できていない。父親と母親の言葉を真似ただけの、ただの音だ。
しかしブリジットたちにとって、その音はとても意味のある言葉だった。
ロウの守ったものを、彼女たちもまた、ずっと守り抜いてきた証なのだから。
小さく無垢な子を前に、ブリジットがまるで逃げ場所を探すように視線を泳がせると……
「応えてやれよ。もう、自分を偽る必要ないだろ。紛れもない名無しさんの娘である、息子であるお前らが……守って来た命だよ」
ルカンに背中を押され、震えた手つきでブリジットがそっとフィリアの指先を取ると、フィリアは満面の笑顔を浮かべながら彼女の手をぎゅっと握り締めた。
途端、我慢していた感情が、決壊した堰堤のように溢れかえる。
ぽろぽろと涙を零す彼女を前に、夫婦も涙ながらに優しく微笑んだ。
いつしか周囲の中から漏れるのは、涙混じりの震えた声に鼻をすする音。
ブリジットたちの流した涙を疑うことなど、どうしてできようか。
夫婦の零した七年間の想いを、どうして否定できようか。
小さな子供たちの純粋な想いを前に、憎しみに囚われ続ける姿など、どうして見せることができるだろうか。
ロウが神を殺めたことは変わらない事実だ。だが、ロウがこの国を護り続け、ロウが育てた子供たちが新しい命を護ったこともまた、紛れもない事実なのだ。
「なにか不満がある奴は今のうちに吐き出しとけよ。もうここに一切の禍根を残すな。それで俺たちは前へ進んむんだ」
周囲から飛び交うのは濡れた謝罪と感謝の言葉、素直な思いだけだった。
憎しみの言葉も、蔑む言葉も、もうここには存在しない。
確かにここにいるのは下層区域のほんの一握りの人間だ。まだ下層区にも中層区にも上層区にも、神殺しに対して深い憎しみを持つものは多く存在している。
しかし、ここにいる一握りの者たちの理解と和解は彼らにとって、何よりブリジットたちにとって大きな一歩だといえるだろう。
そしてそれは当然、ルカン自身にとってもいえることだった。
七年間、何もできずにただ自責の念に駆られながら、じっと見ているだけしかできなかった不甲斐ない自分はもういない。
「なぁ、俺はプサリによ……その……ヒーローの戦友だって、胸を張って言えるか?」
「えぇ、もちろんです」
「お前はどう思う?」
「目の前の光景が答えだと、思い、ます。かっこよった、ですよ? すごく」
「そっか」
いつの間にか傍にいたオルカとティミドの答えに、ルカンは誇らしげに微笑んだ。
…………
……
それからしばらくして夫婦と別れ、周囲の者たちもそれぞれ帰っていくと、オルカとティミドも次の任務があると言ってその場を離れた。
屋敷の監視が任務だというのに次の任務があるはずもなく、気を使ってくれたというのがまるわかりだ。
ブリジットはじっとりと目を細めつつ、目の前にいる巌のような男へと先の発言に対する不満を零した。
「……口が悪い上におっかなくて悪かったね。口が悪いのはアンタもだと思うけど」
「はぁ? 家族以外に対してのお前ほどじゃねぇだろ」
「だが、意外だった。目付きが悪いのは俺よりもお前だというのに。顔に似合わず、いい奴だ」
「顔は関係ねぇだろうが。ってか、人狼より目付き悪ぃ俺ってどんだけだよ」
「抗議。ロザリー、引きこもりじゃない。屋敷が好きなだけ」
「それで外に出なけりゃ一緒だろうが」
それぞれの不満の声を聞き、ルカンが呆れたように言葉を返すと、ブリジットはどこか憂いを帯びた表情を浮かべながら感謝の言葉を述べる。
「でもまぁ、一応感謝はしてるよ。お陰で……パパに嫌われずにすんだ」
あのままルカンが現れなければ、ブリジットたちはここにいた魔憑でも亜人でもない一般人を傷つけていただろう。
殺すつもりはなかったにせよ、死ぬほどの苦しみを与えてやろうと思ったのは本心だ。……それだけ耐えれなかったし、それだけ許せなかった。
それでも力のない民間人を一方的にいたぶる姿は、決してロウに見せれるものではない。ロウがこの場にいたのなら、体を張ってでも止めただろう。
自分でも歯止めが利かなくなっていた状況の中、それを止めてくれたことに内心安堵しながら苦笑するブリジットを前に、ルカンは顔を顰めて首を傾げた。
「お前らよ、名無しさんがお前らを嫌うはずねぇってわからねぇのか?」
「……七年前のことをパパが思い出したとき、アタシらを憎んじゃいなかった。でもそれはきっと、今だから言えることなんじゃないかって思うときがあるんだ」
「七年前のあの瞬間は違うっていいたいのか?」
「わかってるよ? パパはそんな人じゃない。七年前だってきっと、アタシらを責めたりしないって、わかってるんだよ。でも……でもね、思い出せないんだ……」
顔を俯けたブリジットを前に、ルカンがフォルティスとロザリーにその意味を問うような視線を送るも、二人ともそっと視線を逸らしてしまった。
「……何が思い出せねぇって?」
「顔だよ」
「顔?」
「七年前、パパが最後に見せた顔が……どうしても思い出せないんだ」
ルカンはやっと、本当の意味で理解した。
三人にとって七年前に起こった出来事が、どれだけ重い出来事だったのか。
ロウが帰って来てもなお、三人はずっと人知れず自責の念にかられていたのだ。
ブリジットは魔女だ。彼女がたった七年前の光景を忘れることなど有り得ない。
現に彼女は、その場にいた夫婦のことでさえ覚えていたのだ。
それなのにロウの最後の表情が思い出せないのは、彼女自身に問題がある。
自分を許せない想いが、あまりにも強い自責の念が、自らの記憶に蓋をしたのだ。
その表情を見れば、きっと願ってしまったはずだから……帰って来てほしいと。
辛い記憶を思い出してでも、自分たちの元へと戻って来てほしいと。
だから無意識に蓋をした。そしてそのまま、彼女は囚われて続けていたのだ。
そしてロウが帰って来てからも、いまさらその蓋を開くことに対する無意識の恐怖が、彼女たちの記憶を封じ込めていた。
「そういうことか。……俺の側から、名無しさんの表情は見えなかった。だから、そのとき名無しさんがどんな顔だったか教えてやることはできねぇ」
「……いいよ、別に。パパが帰って来てくれただけで――」
「でもよ」
遮り、ルカンはロザリーとブリジットの頭を掴んで自分の方へと向かせ、フォルティスの顎をもって同じように自分へと向き直させた。
驚いたような瞳で見詰める三人を前に、ルカンはそのときの光景を思い出しながら、丁寧に言葉を紡いでいく。
「俺には泣き叫ぶお前らの姿が、はっきりと見えていた。つまりそれは、最後に名無しさんはお前らを見ていたってことだ。名無しさんの最後の表情は俺にもわからねぇが、お前らの知らねぇことを俺は知ってる」
そう……あのとき、ロウは近くにいたルカンに背を向けたまま、ブリジットたちを見つめながら残した言葉があった。
「離れていたお前らと違って、俺には確かに聞こえたんだ。七年前、名無しさんは最後に、お前らにこう言ってたぜ」
”ブリジット、ロザリー、フォルティス。――愛してる”
「あの状況で名無しさんはミゼンや降魔を憎むでもなく、周りの連中を恨むでもなく、最後にお前らを見ていた。そしてそう呟いた。そんな名無しさんの表情がどんな表情だったかなんてのはよ……誰でも想像がつくってもんだ。お前らが何をやらかしても、きっと名無しさんは叱って終わりだろうさ。お前らを嫌うなんてことは、天地がひっくり返っても有り得ねぇよ」
「ッ……そう、だね」
そう言って、見開いていた目をすっと柔らかく細めながら、ブリジットは少し頬を染めながら優しげに微笑んだ。ロザリーとフォルティスも過去を懐かしむように、小さな雫を瞳の端に浮かべながらくすぐったそうに微笑んでいる。
彼女たちの浮かべた笑顔はあまりにも無垢で美しく、そんな三人の表情を見たのは、ルカンにとって初めてのことだった。
どこかむずがゆい気持ちに襲われると、ルカンは気まずそうに視線を泳がせた。
そして、その瞳が屋敷を映してぴたりと止まる。
「そういえば、三馬鹿はどうなんだ?」
「ツキノたちかい? どうだろうね、今から話そうと思ってたところだよ。あの子たちがこれからどうするのか」
「お前たちは名無しさんが帰って来れると思うか?」
「肯定。シンカたちが動いてる。当然、帰って来る。パパの家はここ」
「だからこそ、父様が帰る前に決断させないといけない。今のまま再会しても、互いにとっていいことはないだろうからな」
「……そうか」
「それじゃ、アタシらは屋敷に戻るよ」
ブリジットが踵を返すと、ロザリーとフォルティスもそれに続いた。
何も言わず、小さく微笑んだルカンも踵を返そうとした瞬間、視界の隅に映った飛んでくる何かを咄嗟に受け止める。
「交響石だ。それをお前さんの弟にでも持たせときな」
振り返ることなく、足を止めることもなく、そう言って歩き去る三人の背中を見送りながら、ルカンは手元の魔石を見つめた。
交響石。対になったそれは、片方の状態を色で知らせる貴重な魔石だ。
それはブリジットがシンカの持っていた魔石を調べる為に、様々な魔石を片っ端から掻き集めていた中で、たまたま手に入れた物だった。
あのブリジットがこの魔石をくれた意味を感謝と共に噛み締めながら、ルカンは踵を返した。
ピンチになったらヒーローの仲間が駆けつけてくれるその魔石をプサリに渡したとき、プサリがどんな表情を浮かべるのかを想像し、思わず大きな笑顔を零してしまったのは彼だけの人には言えない秘密だ。
…………
……
屋敷に戻ったブリジットたちはその足で二階へとあがり、ツキノの部屋の前で立ち止まった。
そして小さく息を整えると、部屋の扉を軽く叩打する。
「ツキノ……話がある」
まだ寝ているのか、言葉を返す気力もないのか、中からの返事はない。
「ツキノ? 入るよ」
しばらく待っても返事がないため、ブリジットは中へ入ろうと扉取手に手をかけ、そっと中を覗き込んだ。そして――
「…………」
目を丸くし、出てくるはずの言葉を失った。
「借問。どうしたの?」
「散らかってるのか?」
ロザリーとフォルティスが続いて部屋を覗き込むと、ブリジットはすぐさまモミジとシラユキの部屋の扉を勢いよく開けていった。
しかし、どの部屋にも彼女たちの姿はない。
ツキノの部屋の窓が開かれ、静かに吹く風が窓にかかった窓幕を揺らしているだけだ。
ブリジットは額を軽く押さえながら廊下の壁に背を預けると……
「あの馬鹿たれ……」
そう、静かに声を漏らした。




